見出し画像

<閑話休題>「般若心経」の東京下町弁的読み方

 般若心経は、日本に伝わった仏教経典の中で最も重要かつ基本的なものとして、全ての宗派が尊重している。しかし、もともとは古代インドのサンスクリット語で書かれており、これを中国語に意訳・音訳したものを日本では原典としているため、サンスクリット語→漢語→日本語という翻訳の繰り返しで、もともとの意味からかなり変化しているのではと思う。

 ところで、「般若心経の意味が違う」なんていうと、「罰が当たるぞ!」と坊さんたちから叱られてしまうかも知れないが、日本での仏教は一般的に葬儀を中心に普及している一方、仏教の出発点は、人々の生活規範となる宗教としてよりも、学者が世界を理解するための哲学として発生したことを考えれば、時代の変遷とともにその解釈が変わっていくのは、むしろ自然なのではと考える次第。

 そうした一方、最近、毎朝家で15分程度歩く体操をしている私は、歩いているだけでは面白くないので、「般若心経」を読みながら歩くようにしてきたところ、それまで岩波文庫の和訳などでおおよそ知っている意味が、あるとき「なんか違うな?」という感じになった。そして、そこに書かれている漢字からイメージを膨らせると、意外と自分流の読み方・和訳ができるのではないかと、突然思いついた。

 そこで、意訳というよりも私の「勝手訳」ともいうべきものを、本当は大阪弁でやったらもっと面白いのだが、残念ながら大阪弁は詳しくないので、私の知っている限りの東京下町弁でやってみた。これが、梅雨の憂さ晴らしになれば、それもまた一興。

(原文)
仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊 皆空度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
  
(参考となる和訳)

 
(勝手訳)
仏さんの言った、この世のなんでもかんでもご利益多い ありがたいお話
 
 あるときボサツという奴が反省してみたんだな この世のなんでもかんでもご利益が多いのはなんだろうかと 自分の身体をとっくりと見れば実はどうでもよいものにみえる そうすっと嫌なこととも縁が切れる シャーリーシ あんたに言うよ 見えてるものはホントはなんにもねえ なんにもねえのが見えてるんだ だから形あるものはホントはねえし なにもねえものに形はあったりすんだ いろんな偉い学問とか知識もそうさ ただ同んじことを繰り返しているだけよ
 
 シャーリーシ そんだからいろんな決め事もホントは意味なんかねえんだよ もっとゆうと 生まれることも死ぬことも関係ねえ きたねえとかきれいだとかも関係ねえ モノが増えたり減ったりもしねえ けっきょくなんにもねえのさ そんで身体も知識もねえから 眼も耳も鼻も舌も肌もみんなねえ 見えたり聞こえたり匂ったり味がしたり触ったりもねえし そんで限りがねえし はっきりとはわからねえから 明るくなることもねえし明るさがなくなることもねえ 年取ったり死んだりもしねえよ
 
 んでも苦しみを無くしたり減らしたりするやり方はねえ 賢いふりしたりわかったふりしてもだめだ わからないことがでいじなんだ ボダイサッタというのがまたいてね こいつはこんなことをわかってたそうで 心が晴れ晴れとしていて 何も邪魔してねえから 怖えものはねえそうだ けっきょく夢の中にいるようなもんなんだな これをネハンとゆうんだ
 
 昔から今までホトケと言われた連中は この考えがわかっていて いろんなことに通じることができたんだ そんでこの考えは 大っきい神様のようであり 大っきい明るさのようであり これと同じものはねえ そんでいっさいの苦しみを無いことにする力がある そこに嘘はないのさ この考えを 昔のインドの人はこういったそうだ 行きねえ 行きねえ あの世へ行きねえ あの世にうまいことやって行きねえ こうやって悟ることが幸せにつんながるんだ そんでこれがっ般若心経ってゆうもんさ
 

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?