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<書評>『善悪の彼岸』

 『善悪の彼岸 Zur Genealogie der Moral』 フリードリッヒ・ニーチェ Friedrich Wilherm Nietzsche 著 木場深定訳 岩波文庫1940年発行、読んだのは1979年版。原著は1885―6年。

『善悪の彼岸』

 本書は、『道徳の系譜』の前年に書かれたものであり、この二冊を併せてひとつのテーマを書いている。そのため、別々に読むのではなく、あたかも一冊の本の上下巻のように読むことを想定している。そのテーマとは、文庫本「帯」の内容紹介にあるとおり、「哲学の役割は、人間を平等矮小化して『畜群』に堕しめる既成の秩序や道徳に対する反対運動の提起にありとニーチェは主張する。」というものだ。実際、本書を読み進めると、哲学のみならず、宗教、民族と国民性、道徳、高貴さ、ワーグナーの音楽などについて、いずれもその大衆化=畜群化に向かう傾向のため、それらが著しく劣化していることを強く批判するものとなっている。

 こうした劣化傾向に対して、ニーチェが主張する対応策は、『ツァラトゥストラ』で書かれたような、「力への意志」を体現した「超人(スーパーマン)」に人類が進化することとしている。ただ、人間誰しもが簡単に超人になれるわけではないし、そもそも人類が確実に進化すると約束されているわけではない。もしかすると、人類は長い時間をかけて「退化」しているのではないか、というペシミズムは、ニーチェが好きなギリシア神話の世界から現在まで、多くの賛同者を得ている。

 ところで私は、若い頃この「畜群」という言葉に感化された時期があった。しかし、ニーチェのような天才なら使うことも可能だが、私のような凡才は、むしろ自分自身こそ「畜群」そのものであり、しかも家畜として社会に役立つことも、ペットとして愛玩用にもならない「粗大ゴミ」であることを、すぐに自覚させられた。結局、ニーチェの思想は、その豊穣な文学的才能による聞き心地の良い言葉を、まるで自分がニーチェのような天才になった気分で読むのを楽しめても、ひとたび目が覚めてみれば、自分の卑小さと愚かしさを思い知らされる、そんな哲学ではないかと思っている。

 このような、まるで若い頃に特に感染しやすい「流行り風邪」のようなものと、私が最近認識しているニーチェだが、本書に散りばめられている巧妙な箴言の数々には、やはり面白いものが多々あることを再確認したので、それを以下に紹介したい。なお、ページ数の次の( )は章題であり、また<参考>として私の読み方を付記したので、理解の一助になれば幸いである。

P.82(宗教的なもの)
四九 古代ギリシア人の宗教心について脅威の念を起こさせるのは、そこに感謝が抑えがたいほど豊かに流露しているということである。――そのように自然と生との前に立つのは、極めて高貴な種類の人間だ!――後になって、賎民がギリシアで優勢になると、宗教のうちに恐怖が蔓るようになる。そしてキリスト教が準備されたのである。――

<参考>
 一般に、キリスト教ということを考える場合に、パレスティナのユダヤ教とローマカトリックそしてルターやカルヴィンらのプロテスタントを対象にしている。しかし、キリスト教の原典となる聖書は、ギリシア語で書かれたものから始まっている。つまり、ローマ帝国共通のラテン語よりも先に、(後のビザンチン帝国としての)東地中海の共通言語であるギリシア語がキリスト教の主要な言葉だったのだ。従って、キリスト教の成立には、ギリシア語を使うギリシア人の民族性が大きく影響していると考えるのは、肯定できる見方だ。

 そして、一般にキリスト教以前は、人は自然を畏怖し、尊敬した。しかし、キリスト教によって、自然は人類の敵となり、征服すべき対象になってしまった。これは、ニーチェの視点からすれば、とても悲しいことであった。

P.104(箴言と間奏)
七八 自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。

<参考>
 「自分は尊敬に値しない」と謙譲する裏には、「自分は自分を卑下できるから、他者からの尊敬に値する人間である」という自尊心が働くという、矛盾=ジレンマがある。謙譲と自尊心は表裏一体なのだろう。

P.111(箴言と間奏)
一〇八 道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。――

<参考>
 人の行為が道徳的か否かを判断するのは、それを行った人間とそれを評価する人間である。行為以前に道徳的とアプリオリ(先験的)に決まっているとは、必ずしも限らない。例えば、「情けは人のためならず(他者に対する善行は、自分自身の利益にこそなる)」という行為は、他者を利用して自己の利益を得ることを言っている。これを道徳的と見るか否かは、それを判断する者によって恣意的に決まる。

P.115(箴言と間奏)
一二五 誰か或る者について理解し直さなければならないとき、われわれは、それによって彼がわれわれに与える不快を無情にも彼の所為(せい)にする。

<参考>
 「俺がお前を誤解したのじゃない、お前が俺を誤解させたのだ。だから、お前が悪い」と、私は仕事をしているときによく言われた。また「俺が理解できないのではない、お前の説明が悪いから、俺が理解できないのだ」とも言われたことがある。なんでも他者に責任転嫁すれば、自分は気楽で良いが、その後に大きな不幸が待っていることを誰も気にしない。そして、大人に対して中学生レベルの勉強を教えられるほど、私は有能ではない。

P.118(箴言と間奏)
一三七 学者や芸術家たちとの交際において、誤って逆の方向に見込み違いすることがよくある。注目すべき学者の背後に凡庸な人間を見出すことが稀でないし、また凡庸な芸術家の背後にしばしば――極めて注目すべき人間を見出すことさえもある。

<参考>
 TVなどのメディアでよく見かけるような、「注目されている」とされる学者や芸術家には、よく考えてみると、特別な思考や意見を持っておらず、当たり前のことをもったいぶって声高に叫んでいるだけだとわかる場合が多くある。そして、「注目されていない、凡庸だ」とされる学者や芸術家の中に、偶然非凡なものを見つけると、まるで宝くじに当たったような良い気分になれる。「人気」とか「世論」とは、所詮そんなものなのだ。

P.120(箴言と間奏)
一四六 怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。

<参考>
 「怪物」とは何か。人によってそれは様々に解釈できるが、私は、怪物=人文科学=哲学だと理解している。そして、この怪物は深淵のように終わりがなく、果てがない。そこに一度入ったら、そこから抜け出せなくなるだけでなく、底なしに向かってひたすら前進するだけである。そして、この怪物との戦いに終わりはない。

P.121(箴言と間奏)
一五〇 英雄をめぐって一切は悲劇になり、半神をめぐって一切は牧神の喜劇になる。それでは、神をめぐって一切は――どうなるか。おそらく「世界」にか。――

<参考>
 私は、「世界」ではなく、喜劇になると思う。シェイクスピアは、「世界はひとつの舞台」と言ったが、私は「世界はひとつの喜劇」と見ている。こんな「正直者が馬鹿を見る」不条理しかない世界、喜劇でなければなんであろう。

P.123(箴言と間奏)
一五六 狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である。

<参考>
 個人の狂気は、病気と診断されて社会から排除される。しかし、集団の狂気は、世論・人気・流行・熱狂・大衆の支持などに言葉を変えられ、圧倒来な力で個人を破壊してしまう。それは、過去の歴史が証明している。「みんながやっている、信じている」、「お前は皆と同じにしないから、変わり者(狂人)だ」というのは、歴史の上ではみな悪い結果を招いてきたが、これを学習する人(「王様は裸だ」と言える人)は少なく、今日も(負の)歴史は繰り返している。

P.127(箴言と間奏)
一七六 他人の虚栄がわれわれの趣味に反するのは、それがわれわれの虚栄に反するときである。

<参考>
 他者を虚栄=見栄を張っていると批判する人は、その人も虚栄=見栄を張りたいからなのだろう。虚栄=見栄を張ることは、簡単で楽しいことだ。だから、誰もがやるし、やりたがる。そして、本当に虚栄=見栄を張らない人は、この世に少なく、さらにそうした人が社会的利益を得ることが少ないのは、とても悲しいことだ。所詮人は、利益にならないことはやりたくないから、やはり見栄を張るしかない。・・・これが集団的狂気につながるとしても。

P.199(われわれの徳)
 自分たちに道徳的分別や繊細な道徳的判別力があると信じられることに高い価値を置くような人々には用心するがよい。彼らは、一旦われわれの前で(或いは、われわれについて)失策をしたとなると、決してわれわれを赦してはくれない。――彼らは依然としてわれわれの「友人」である場合ですら、われわれの本能的な誹謗者となり毀傷者となることは避けがたい。――忘れっぽい人々は幸いである。彼らは自分の愚行をも「綺麗さっぱり」忘れてしまうからだ。

<参考>
 一二五の箴言と共通している。自分を「偉い」と思い込んでいる人は、常に他者に対して、命令的かつ攻撃的である。それが、自分より社会的に低い地位にある場合は、その傾向がなおさら強くなる。またその場合、弱者としての他者は、自分を「偉い」と思っている人にとって、都合の良い道具にされてしまう。私が仕事をしていたときは、まさにこの「道具」として酷使され、そして心身を壊された期間であった。

 世界や社会には、偉い人も偉くない人も、強者も弱者も、命令する者も命令される者も、肩書に左右されずに、すべて同じ「ただ一人の人間」になれたら良いのに、と私はいつも願っている。

 こう考えると、ニーチェの哲学はナチスと言う「強者」に利用されたが、その内容はむしろ「弱者」の慰め、あるいは「負け犬の遠吠え」的な哲学かも知れない。「超人」とは、「ツァラトゥストラ」とは、こうした弱者の中のヒーローなのだろう。


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