<(映画を絡めた)閑話休題>『フェリーニのアマルコルド』
なんとなく衛星放送の映画チャンネルを見ていたら、懐かしい『フェリーニのアマルコルド』がやっていた。でも、朝6時からだったので、見たのは後半だけ。それでも、フェリーニの気分は十分に味わえた。
この作品は1973年、僕が14歳の時の作品だから、日本公開時には見ていない(映画を映画館で見るようになったのは、高校2年生の16歳からだ)。すると、20歳の時に水道橋のアテネフランセでやったフェリーニ映画祭に毎日参加したが、その時に見たのが最初だったと思う。
この作品は、アカデミー賞外国語映画賞を受賞しているように、世界的に評価されている作品だが、いかにもフェリーニらしく、自分の少年時代のエピソードを細切れにつないだストーリーになっている。こうして言葉にするとただそれだけの作品だが、そこは天才フェリーニらしく、いたるところに優れた映画的手法と映像美が表現されていて、見ていて飽きない。・・・というのは、映画好きだけの話で、普通のアクション映画とかを楽しんでいる人達には、まったく退屈な面白みに欠ける平凡な映画にしか映らないと思う。実際、日本でヒットしたとは聞いたことがない。
フェリーニの得意とした映画作法は、それまでの通俗ストーリーではなく、まるでジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に似た方法で作ることで『甘い生活』が成功し、そして『8と1/2』、『ローマ』と続けて制作した次の作品が『アマルコルド』で、そのモンタージュ(簡単に言えば、映像と映像のつなぎ方)は、『甘い生活』の頃と比較すれば、かなり洗練されている。
しかし『アマルコルド』の舞台は、フェリーニが生まれた北イタリアの地中海沿岸にある田舎町リミニなので、最初に見たときは、(派手なイメージのある)イタリア映画らしくないし、登場人物もいたって庶民的な平凡な人たちばかりだという印象だった。しかし、演技がいくら平凡に見えたと言っても、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティのように、敢えて素人俳優を使ったわけではなく、専門の俳優に素人のような演技をさせているのが、フェリーニの真骨頂である。ところが、いくら素人くさい演技が真骨頂と言っても、普通の観客には少しも面白くないと思う。実際、私も初めて見た頃は、この映画の本当の良さがわからなかったが、ただ自分の感性に一致するフェリーの映像とテンポがとても好きだったので、最後まで楽しく見られた(実際、『道』や『魂のジュリエッタ』は、いかにもというドラマ構成で、ちょっと食傷気味になった)感想を持った。
そして、あれからもう40年経った今改めて見てみると、「そうか!」と気づいたことがいくつかある。その一つは、フェリーニは小津安二郎と同じ映画監督ではないかということだ。つまり、フェリーニも小津も、日常のなんでもないこととどこにでもいるような平凡な人物を、優れた映画にまとめてしまう。私たちが、普段意識もしていない日常の一コマ、一コマを切り取り、映画的手法でつなげ、私たちが知らない「世界」を気づかせてくれるのだ。それはまた、人と自然との緩くて厳しい関係に、改めて気づかせてくれる契機を与えてくれる。
そうした雰囲気を、フェリーニお抱えの作曲家ニーノ・ロータが、伸びやかな抒情性にあふれたアダージョの曲で包んでくれる。この映画の中で、盲目のアコーディオン弾きが登場して、テーマ曲を弾くが、もしかするとロータ自身がこのアコーディオン弾きなのではないかと錯覚してしまった。それくらい、実はこの映画の真の主人公は、この盲目の音楽家であり、同時に映画の世界へ案内してくれるチチェローネ(水先案内人)なのではないかと思った次第。
最後に好きなシーンはたくさんあるが、一番好きなのは、主人公たちハイティーンが、たぶんタウンホールの外だと思うが、そこで前夜開催していた舞踏会を想像しながら、ドアの外で思い思いに自分だけのイメージ(妄想)に浸って、ある者は一人でダンスを踊り、ある者は階段に腰かけて楽器を演奏する。もし、知らない人が通りかかってこの光景を見たら、少し頭のいかれた少年たちが不思議な行動をしているように思うかもしれない。しかし、少年たちの頭の中では、自分たちが主人公である立派な舞踏会が華やかに開催されているのだ。
たぶん、こうした想像(気持ち)を自然に持てるのが、「少年」の頃であり、持てなくなってしまうのが「大人になる」ということなのかもしれない。
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