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<書評>『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』

『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み Homo Ludens : Proeve eener bepaling van het spel-element der cultuur door』 ヨハン・ホイジンガ Johan Huizinga 里美元一郎訳 2018年 講談社学術文庫 1971年 河出書房新社発行のものを底本にしている。原著は1938年ライデン、オランダ。

文庫版『ホモ・ルーデンス』

 私は、元々1971年発行の単行本を持っていたが、今回文庫本として改訂版が出たことを知り、こちらの文庫バージョンを読むことにした。

 書名になっている「ホモ・ルーデンス」とは、「遊ぶ人」の意味であり、アンリルイ・ベルグソンが定義した「ホモ・ファーベル(創造する人、工作する人)」や、一般に流通している「ホモ・サピエンス(賢い人)」とは別の概念を提起して、新たに現世人類を定義付けしている。

 ホインジンガが当初「遊び」という言葉を使用した時は、ネガティヴなイメージが一般的となっており、「遊ぶ人」という定義は快く受け入れられなかったという。しかし、最近はネガティヴなイメージが日本でも減少しており、従来のような悪しきもの、非生産的なもの、不道徳的なものという概念はほとんど消滅している。また、そうした世間一般からの批判的な反応は過去のものとなっただけでなく、「遊び」の概念を最初に提起したことに対する再評価の対象ともなっている。

 しかし、こうして「遊び」がポジティヴなものだというイメージが作られた背景には、ホイジンガのような教養人による啓蒙が効果を及ぼしたのではなく、大衆芸能や無責任なメディアによる情報拡散と刷り込みの影響によるものが圧倒的に大きいと私は思っている。「遊び」を再評価すると言っても、ホイジンガのように思想へ真摯に向き合った結果としてのものではなく、ただ言葉の表面だけを取って、「軽率な思考と判断」、「無責任な行動」、「不真面目な倫理観」、「享楽的な生き方」というものに、勝手に変換されているのが実情だろう。

 その結果、従来のポジティヴな概念であった、真面目さ、几帳面さ、生産的、道徳的といったもののマイナス面ばかりが強調され過ぎてしまっているように感じる。だからこそ、ホイジンガの提起した原典をしっかりと学ばねばならないと思うが、そんなことは受験勉強と無関係だから学校では教えてくれず、また家庭や仕事先で学ぶこともないため、このままずっと誤解・曲解されていくと思うと、私はぞっとするしかない。「真面目」も「遊び」もどちらも同じくらい重要なのだ。そして何事も中庸が肝心である。

 本書の内容に入ろう。ホイジンガによれば、古代ギリシアの哲学者たちは、哲学論争を遊び、暇つぶしとしてやっていた。これは、哲学の根本を捉えていた。そして、そうした「遊び」としての哲学を中心とした文化は、十八世紀に壮大な華を咲かせたが、十九世紀の過度の実証主義=真面目さによって、遊びの要素を無くしてしまったとホイジンガは指摘する。そして、現代の文化は、こうした本来の遊びの要素を取り戻さねばならないと主張している。また、二十世紀に入ってからスポーツ・音楽・芸術が金銭的に評価され出したことによって、それらの文化が本来持っていた「遊び」の要素を、金銭的評価の開始とともに失っていることを嘆いている。今、私たちが見たり、聞いたりしているのは、本来のスポーツ・音楽・芸術ではないとすらホイジンガは主張するのだ。

 こうした十九世紀までの過度の「真面目さ」によって、「遊び」が形骸化されてしまった結果としての「ピュエリリズム」の蔓延を、ホイジンガは本書の結論とする。「ピュエリリズム」とは、日本では「文化的小児病」、「小児病」と訳されているが、最近の流行語では「中二病」に該当する用語だ。これらの「ピュエリリズム」によって精神年齢が低下した大衆は、安易な情報に簡単に扇動されるが、それを時の為政者が利用していることをより強く批判する。これはまた、ホイジンガが本書を書いた1930年代のナチズムを念頭に置いているのだが、それはそのまま現代の日本社会に恐ろしいほど当てはまることに、私は驚愕した。

 また、ここで指摘している「不必要な真面目さによる不寛容」が、例えばメディアやSNSにおける「言葉狩り」、政治家の発言の一部を切り取って批判する「揚げ足取り」、敵対者に対する一方的に作り上げた「レッテル貼り」、なんの知識もない中で熟考していない思い付きを「一般大衆の代表的意見」とする欺瞞、新型コロナウィルス騒動におけるマスクやワクチン接種に関する「他者への見えない強制」と「少数者に対する過激な排除」、自分勝手な理屈による「弱者としての権利の一方的な主張」などに、如実に表れているのではないだろうか。

 こうした私の感想に関係した箇所を、以下に抜き書きして紹介したい。なお、ページ数の次にある( )内の文字は、本書の中にある小見出しあるいは章題である。

P.32(遊びの形式的特徴)
 遊びは言うなれば、美しくあろうとする傾向を秘めている。遊びがどんな形のものであれ、それを貫いて流れる。秩序立った形式を創造しようとする衝動はその大部分が美的領域に属している。それはまた我々が美の効果を表現しようとする時にも使う言葉であり、たとえば、緊張、平衡、釣合、交代、対比、変化、結合、分解、解体などだ。遊びは呪縛し、そして、解放する。それは人をとらえてはなさず、魔法にかけ、魅了してしまう。そこには人間が森羅万象の中に認めて、しかも自分で表現しうる最も崇高な特性の二つが豊かに備わっている。それはリズムと調和だ。

P.47(遊びの中の聖なる真面目さ)
 遊びはあらゆる文化を越えて漂うものであり、少なくとも文化から離れた立場にある。人は子供のように楽しみと休息を求め、真面目な生活の水準以下で遊ぶ。しかし同時に、彼はこの水準以上のところで、美と神聖の遊びを遊ぶこともできるのだ。

P.61-62(言語における遊びの概念の構想とその表現)
 言葉と概念を一緒に生み出したのは研究的学問ではなく、創造的言語である。その言語たるやまさに無数の種類が語られている。それぞれの言語が手や足にはそれぞれ別々な言葉をもつように、それらがすべて完全に同じやり方で寸分たがわぬ同一概念としての遊びをただ一つの言葉で呼ぶとは、誰も期待しないだろう。・・・次のように定義づけうると考えた。遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的をもち、緊張と歓喜の感情にみたされ、しかも「ありきたりの生活」とは「違うものである」という意識を伴っている。・・・この遊びの範疇は人生の最も基本的な精神要素の一つと見てよいだろう。

P.138(文化要素としての闘技的原理)
 文化は遊び「として」、もしくは遊び「から」始まったのではない。いうなれば、遊びの「中で」始まったのだ。文化のもつ対抗的、討議的基盤は、あらゆる文化よりも古く、より根源的な遊びの中にすでに存在している。

P.260(哲学的対話の起源)
  プラトンの対話人物自身は、その哲学的作業を優雅な気晴らしと呼んでいる。・・・『ゴルギアス』の中でカリクレスは次のように言う。「それはたしかに本当だ。そしてこのことを君たちは、より大きなことのために哲学に暇をくれてやる時に理解するだろう。なぜなら、哲学というものは、人が若い時、度を過ごさずにやっているぶんには楽しいものだが、もし、度を過ごして長くそこに入りびたると、その人間にとっては身を滅ぼすことになるだろう」。つまり、知識と哲学のための不変の基礎を後世に残した人々自身が哲学を若者の遊びとみなしていたのだ。・・・(プラトンにとっては)哲学はどんなに深くきわめられようと一つの高貴な遊びだった。

P.288-289(芸術作品の祭儀的特性)
 造形芸術と遊びとの関係はすでに昔から、芸術形式の創作を人間の生まれながらの遊びの本能から解明しようとする理論の形式で扱われてきた。・・・一度でも鉛筆を手にして退屈な会議に出たことのある人なら誰でも覚えがある。思わず知らず線を描いたり空白を塗ったりする半ば無意識の遊びの中に、時には人間や動物の気まぐれな姿がまぎれこんで、空想的装飾の動機(モチーフ)が成立する。・・・我々は一般にこの機能を疑いなく遊びと呼ぶことができる。・・・この心理的機能は芸術上の装飾的動機成立の説明の基盤としてはあまりにも不十分に思われる・・・造形芸術の創作意欲は、・・・装飾、構成、模倣だ。・・・造形芸術のあまりにも豊かな形式の宝の山から生まれた多数の作品群に接すると、空想の遊びとか精神と手練の技の戯れにする遊びがてらの創造という考えに思いあたるのを抑えるのは至極むずかしい。

P.334-335(スポーツは遊びの領域を去ってゆく)
 スポーツ制度は十九世紀の最後の四半世紀以来発展を重ね、遊びがしだいに真面目に受け取られていく傾向をたどった。規則はより厳重になり、いっそう詳しい細則が練り上げられた。・・・遊びに体系的組織化と訓練強化が絶えず進むにつれ、結局は純粋な遊びの内容をなす何かが失われていく。このことは職業的専門家と素人愛好家の分離になって現れる。もはや遊びが遊びでなくなった人々と、つまり高い技術をもちながらも真の遊ぶ人の下位に甘んずるべき人々が遊ぶ人々の集団から区別される。職業人のそれはすでに遊ぶ人のそれではない。任意性と天衣無縫の大らかさがそこにはもう見られない。近代社会ではスポーツはしだいに純粋な遊びの領域から離れていき、それ自身独自のものとしての一要素、つまり遊びでもないし真面目でもないものになってしまった。

P.347-348(ピュエリリズム)
 現代人の中でも特になにかの集団のメンバーになっている人が、まるで思春期もしくは少年期なみの水準の行動としか思えないことをしている・・・その行為の大部分は近代の精神的伝達報道の技術によって引き起こされたり、あるいは押し進められたりした習慣である。それに入れられるものとしては、たとえば、簡単に飽きるが、決して満たされることのない陳腐な気ばらしを求める欲望、下品な感覚的興奮、大衆的見世物好みなどだ。・・・ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容賞讚につけ非難につけ見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想にとり憑かれやすいことなどだ。こうした幼児的特徴の多くは過去の文化時代にも広く検出されるが、今日のように公共生活の中に全盛を誇る大衆性や残酷さと結びついた例は今までに決して見られなかった。

P.361(遊びの要素の不可欠性について)
 人間精神は至高の存在に眼を向ける時にのみ、それによって遊びの魔術的支配園から解放される。物事を論理的に考え抜くだけでは、とうていそこにまで達しえない。人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底にはなお問題が残されているのを見出す。どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。この判断の揺らぎ出す限界点において、絶対的真面目さの信念は敗れ去る。・・・「すべては遊びなり」・・・これこそプラトンが人間は神の玩具であると名づけた時に達した知恵なのだ。この思想はまた旧約(聖書)の『箴言』の中の素晴らしい空想的イメージの中にも立ち帰って現れてくる。そこでは、正義と支配の根源をなす永遠の知恵が万物創造を始める前に、神を喜ばせようと神の御前で遊んだ。また彼が地上の世界で遊ぶことは人間の子供たちとともに彼(永遠の知恵)の楽しみであった、と語り伝えられている。

<参考>『箴言』の該当箇所は以下のとおり。(『聖書』日本聖書協会より)
第8章30-31「わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。」

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