<書評>『ガルガンチュア物語』、『パンタグリュエル物語』
『ガルガンチュア物語』、『パンタグリュエル物語』フランソワ・ラブレー著 渡辺一夫訳 岩波文庫全五冊(『第一之書』から『第五之書』まで) 原著は1532年頃発行 文庫は1973年発行
日本のフランス文学及び中世ヨーロッパ文化の大家渡辺一夫による、史上有名な翻訳である。渡辺は、ラブレーのこの作品を翻訳する際に、必要に迫られて中世ヨーロッパ文化を調べることになったが、その結果中世ヨーロッパ文化の大家になったと、昔大学の先生から聞いた記憶がある。ヨーロッパでは、渡辺と同様に、ミハエル・バフチンが『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』において、ラブレーを研究することによって、ヨーロッパ中世とルネサンスを研究した有名かつ重要な文献がある。(残念ながら、この本は現在絶版となっておりかつ中古本は高価なため、私は入手できない。せめて文庫版が出版されてくれたらと願うのだが、機会があれば図書館から借りて読みたい本の代表だ。)
また、(これも大学の先生から聞き、実際に確認したのだが)翻訳した本文と同じくらい、あるいはそれ以上の分量となる翻訳者による訳注があり、これを全て読み込めば、そのまま中世ヨーロッパ文化の勉強になるという、なんとも読む側に敷居の高さを感じさせるものともなっている。しかし、本書は、中世の識字層を対象にした大衆小説、荒唐無稽の講談話という類でもあり、かなり読みやすい本文でもある。この中世及びルネサンスという大きな歴史的な背景がある一方で、荒唐無稽な講談のような本文という、その差異の大きさにいささか驚くことになる。
ということで、「これは大変な読み物だ。生半可な気持ちでは読めない」と用心して、今日までずっと積読状態だったのだが、いざ読んでみると、内容がいわゆる娯楽読み物であるため、意外とすらすらと読めるのに驚いた。もちろん、渡辺一夫の秀逸な訳によること大なのだが、ラブレー研究の成果でもあるその訳注も、あまり長くない上に的確な分量になっているのが素晴らしい。まったく、難解でも難読でもない、ごく普通の読み物として愉快に読める本だったことが嬉しく、また最後まで楽しむことができた。ラブレーは偉大なり。
その中で、特に訳注で気になったものがある。それは、「ラブレーが初めて使用した」あるいは「ラブレーが初めてフランス語に取り入れた」、「フランス語として初めて使用された」とされるフランス語の単語だ。そして、それらの単語は、現在の私たちがカタカナにして使用しているものが多くある。特に『第一之書』と『第四之書』に多いので、それらを中心に、私の関心を惹いたところを紹介したい。
冒頭の数字は使用箇所のページ。「フランス語として初めて使用」という説明がないものは、「ラブレーが初めて使用したもの」である。また、参考に資するために、私自身による注釈等を(注)として加えた。また、フランス語表記に続けてカタカナで読みを付けた。
『第一之書』
P.72
Alezan アレザン 栗毛 フランス語として初めて使用
P.119
Barbe バルベ バルベロ馬
P.121
Boussole ブッソール 羅針盤
P.127
Automate アウトマテ 自動性 オートマチック 初めてフランス語に入った。
P.171
Stratagem ストラタジェム 策略 (注:ストラテラジー=戦術として日本でも使用されている。)
P.174
Hippiatrie イッピアトリ 獣医学
P.34(私の関心を惹いたもの)
Parpaillos パルパイヨ パルパイヨ国王。「パルパイヨ国」とは遠い異国・異教徒の国の義。中世民間伝説に見られる。ラブレー以降、16世紀において新教徒が「パルパイヨ」と呼ばれたこともあった。
『第二之書』
P.157
Encyclopedie アンシクロペディ 全智 (注:宗教的かつ哲学的な意味合いが強い。)(注:エンサイクロペディア=百科事典)
P.195
Pygmees ピグメエ ギリシア神話のピュグマイオイ(小人)のこと。(注:なおピュグマリオンは、キュプロス島を支配する王で、象牙でアプロディーテー=若い女性像を作り溺愛した⦅つまりダッチワイフとしていた⦆ところ、女神が王を哀れみ象牙像を生身の女性に変身させたという物語が伝わっている。
なお、この神話を基に20世紀イギリス社交界の物語としたのが、バーナード・ショウの演劇『ピュグマリオン』で、ショウ自身が1938年に映画化した後、1956年にアラン・ジェイ・ライナーが、自ら翻案した『マイフェアレディ』をブローウェイで上演して大成功し、その後1964年にオードリー・ヘップバーン主演で映画化され、世界中で大ヒットした。そのため、現在ではギリシア神話やショウのことは忘却されてしまい、ヘップバーン映画としてのイメージが強いのは残念なことだ。
また、1962年セルジュ・ブールギニョン監督の映画『シベールの日曜日 仏語題Cybèle ou les Dimanches de Ville d'Avray シベールまたはアベレー村の日曜日、英語題:Sundays and Cybele 日曜日とシベール』も、このピュグマリオン伝説を題材にしている。なお、この「シベール」という名は、古代ギリシアから見たアジアである中近東地域で崇拝されていた、大地母神キュベレーのフランス語あるいは英語読みである。
つまり、ピュグマリオンというよりも始原的な大女神(デーメーテールやウェヌス=ビーナス)をイメージしている。もしも映画の内容を見て「ロリコン映画」と揶揄する人がいれば、こうした背景を熟知していただきたいものだ。
『第三之書』
P.25
Prosopopee プロソポペ ラブレーがギリシア語から採用し、自身の説明では「人間の変装、仮装」としている。なお、渡辺一夫の翻訳では「仮装行列」。
P.68(私の関心を惹いたもの)
Valentin ヴァランタン 渡辺一夫の注釈をそのまま引用すると、「ロレーヌ地方のナンシーの町では、四旬節(注:カソリックで行われる断食期間、ただし、日曜日は除く)の第一日曜日に、舞踏会その他の娯楽が催され、その年の美男ヴァランタンと美女ヴァランチーヌとが王・王妃に選ばれた。ラブレーの時代には、この催しが五月一日に行われたのであろう。
(中略)ヴァランタンはgalantin(注:ガランタン 優美、艶っぽい、立派等の色事に関する単語)と同義であろうし、二月十四日聖ヴァランタン祭日に鳥類が交尾するという伝説から、人々も恋を語り合った。この時でき合った男女をヴァランタン、ヴァランチーヌとも呼んだ。この習慣は、フランスではバイユーBayeux地方その他に、イギリスにも見られた。メーヌ、ロレーヌ地方でも行われる習慣」
(個人的な付記)日本のチョコレート会社の商魂による「バレンタインデー」とは、月とスッポンくらいに大きく異なる来歴・由来であり、むしろ上記伝説を損なう弊害すらあると危惧する。
P.106(私の関心を惹いたもの)
Les souppes(soupe) de prime レ・スぺ・ドゥ・プリメ 暁の勤行の肉汁麺麭(パン)。「スープ」は、本来麺麭(パン)に肉汁をかけたもの。
『第四之書』
P.17
Catastrophe カタストロフェ ラブレーがギリシア語から作った新語。ラブレー自身、「終わり、結末(結果)」fin, issueと語義を規定している。十六世紀において、この語は大体この義にしか用いられず、現代近代の語義(顛覆、破局、呪わしい事件・・・)はほとんどなかった。
P.18
Can(n)ibalesカンニバル・・・misant(h)ropesミザントロープ・・・agelastesアジェラストいずれもラブレーの新造語と考えられるが、前二者のみがフランス語として生き残る。尚、「カンニバル」という語は、既にラブレーによって、その『第一之書』第五十六章、『第二之書』第十二章、第三十四章に用いられているし、「ミザントロープ」という語も、既に『第三之書』第三章でギリシア語形のまま用いられている。いずれも目新しい語として、ラブレー自身により次のごとく註解されている。
「カンニバル=アフリカの怪物のような住民。犬のごとき面構えをし、笑う代わりに吠え続ける。」「ミザントロープ=人間を嫌い、人々との附き合いを避ける。アテナイのティモンはかく渾名された。」「アジェラスト=笑うこと絶えてなく、物悲しくて、無愛想なの義。パルティア人に殺されたクラッススの伯父に当たり、一生涯に僅か一度しか笑うのを見られなかったというクラッススは、かく渾名されたが、ルキリウスや、キケロ『善と悪との最高なるものについて』五や、プリニウス七の記述の通りである。」(以下省略)
(注:カンニバルは、食人種または残忍な人、ミザントロープは、人嫌い、交際嫌い、とそれぞれ仏和辞典⦅白水社『新仏和中辞典』⦆にある。)
P.23
Sarcasm サルカスム ラブレーは、「突き刺すような辛辣な愚弄」と解義している。フランス語として最初に用いられた例となる。(注:仏和辞典では、嘲罵、風刺、皮肉。)
P.31
Categorique カテゴリーク ラブレーは、この語を、「十全な、明白な、断固たる」と解義している。フランス語として最初に用いられた例。
Petrifies ペトゥリフィエ 石がお化けになるように この語が用いられた最初の例なる由。(注:仏和辞典では、petrifierとあり、化石にさせる、茫然自失させる。)
P.81(私の関心を惹いたもの)
Le digne veu(voeu)de Charroux ル・ディニェ・ヴー・ドゥ・シャルルー シャルルーはポワトゥー地方の町。この町の修道院には、キリストが割礼を受けた時の包皮の断片が聖遺物として残されており、それが「聖願Saint-voeu サンヴー」、「誓願digne voeu ディニェヴ―」と呼ばれていた。
P.207
Herbes carminatives エルブ・カルミチーヴ ラブレーは、この語を、次のごとく解義している。「人体内に溜まった瓦斯(ガス)を消し去り或いは駆除する草。」尚、carminatif(注:カルミナイティフ 腸内ガスを駆逐する、腸内ガス駆逐剤)は、ラブレーによってフランス語になった。
以上のとおりだが、次に各巻の内容とその感想を記したい。
『第一之書』はパンタグリュエルの父であるガルガンチュアの物語であり、その最後に、ラブレーが理想的な場所として描いた「テレームの僧院」の情景が描かれてる。それは、旧教対新教の悲惨な宗教戦争に巻き込まれた、温厚な福音主義者ラブレーが、自然の中で心地よく生活する姿を理想郷として書き記しており、ほのぼのとした物語の大団円となっている。
『第二之書』からは、これ以降の主役となるパンタグリュエルが登場する。そして、渡辺一夫の研究によれば、この『第二之書』が『第一之書』に先立って書かれたそうである。そのため、どこか壮大な物語の初めのような雰囲気を持っている。そして、パンタグリュエルの生涯がガルガンチュア同様に描かれているが、この後に続編を次々と書くことは想定していないため、これだけで完結した物語となっている。一方、『第三之書』以降は中心人物になっていく、パニュルジュ、エピステモン、カルバラン、ユステーヌ、ジャン修道士らが、一部は『第一之書』から既に登場しているが、この『第二之書』で登場し、重要なわき役として活躍する。
『第三之書』は、パンタグリュエルの家来である有能な騎士パニュルジュが、結婚するか否かを廻って各種の相談や占いをする物語として展開していく。そして、その都度結婚して最悪なものは、妻が浮気をされること=寝取られ亭主になることとされ、このフランス語である「コキュcocu」が繰り返し出てくる。もう「コキュ」になるかならないかが、人として男子として、生涯の目標でもあるかのように書かれている。
そこで思うのは、中世フランスでは(十字軍遠征などで、夫の長期不在が多かったこともあり)妻が他人と密通することが日常的に発生しており、しかもそれが露見することも普通であったということだ。さらに、「コキュ」にされた男を、わざわざ晒し者にする習慣もあったようで、そのため故意に他人の妻を寝取り、特定の相手を攻撃する手段としても「コキュ」が使われていたということも容易に想像できる。なんとも不可思議な世界が、中世フランスにあったということだ。
『第四之書』は、パニュルジュの婚姻を決めるための神託を得るために、遠洋航海に出る話であるが、途中から婚姻や神託の話題は消えてしまう。そして、最終の第六十七章は、同時代の英語版の翻訳者が訳すのを控えたという、イングランド王のエピソードを含む壮絶な糞尿譚になっている。
とりわけ痛切に感じるのは、当時のヨーロッパ人にとって便秘というのが日常的な問題だったことだ。古代エジプトのファラオの好物が、消化促進をするモロヘイヤのスープだったというくらい、肉食の人々は如何に定期的に排便するかが課題だったようだ。そして、当時は当たり前にあった拷問をすると、皆大量に排便したということから、これを逆手にとって、自らに拷問してもらったり、または恐怖心を与えてもらったりすることで、大量に排便するエピソードが描かれている。
特にイングランド王がフランスの紋章を描いた「おまる」を使用したというのが、皮肉たっぷりで笑わせてくれるのだが、これはイングランド王としては許せなかった表現だろう。もっとも、そのためにイングランドで禁書になったとは聞いていないが。(なお、禁書になったのは中世フランスであり、ラブレーの描いたものに反カソリック思想があるため。)
人類を含み、生物は生存するためにいかに食物を体内に取り入れるかを苦心してきたが、それを消化し、さらに排便するということも同じくらい重要だということが、このラブレーによる糞尿譚からわかる。しかし、ものがものだけに、この手の話題は笑い話になっても真剣に取り上げる者がいないのは、仕方がない。なお、中世の医者は尿を調べて診断したため、糞尿を好む職業のように揶揄されていたらしい。ラブレーも医者兼教授として活躍していたので、そうした面からもこの糞尿譚を書いた気がする(もちろん、当時の異端審問を避けるためや、旧教徒及び新教徒の狂信振りに対する皮肉も当然あるのだろうが)。
最終巻となる『第五之書』は、偽作の可能性が高いとされていることもあり、引用したくなる箇所は皆無だった。フランス文学や中世ヨーロッパの専門家ではなく、また日本語に翻訳したものでしか判断できない私でも、この『第五之書』は、文体等の詳細な部分ではなく、全体を貫くトーンというか何か作家独特の癖のようなものが、『第四之書』までとはまったく違っているのを感じることができた。
ただし、解説にあるとおり、その中にラブレー自身が残した覚書または草稿もあったのではないか、と思われる部分もいくつかあった。そして、そうした部分は、『第四之書』までと同様の読み物としての面白さが感じられた。不思議なものである。
翻訳者の渡辺一夫が、「長い苦難の道のり」と繰り返し解説や後記に書いているように、本書の翻訳は至難なものであったことは、私のような門外漢にも良くわかる。いや、私のような者が「よくわかる」などと言うのは文字通りおこがましいことだ。しかし、いかに面白く読めたとしても、本文と同じくらいの訳注を参照しながら読むのは、普通の例えば推理小説を読むようにはページ数が前に進まないものである。私は、一度に二つの章を続けて読み、その後に訳注をまとめて読むという形で読み進めたが、これが若い頃のような訳注を逐一見ながら全五巻を一気に通読するようなことは、今の年取った心と身体では、とてもできない相談だった。
これまでの私の読書歴において、作品が長大であることから読書に最も苦労したのは、エルンスト・カッシラーの『シンボル形式の哲学』全四巻だった。これは訳注も多かったが、文章の句読点が切れずに長く続き、また複雑な比喩や引用を多用しているため、非常に難解だった。
次が『アラビアンナイト』全十八巻だったが、これは、注釈はあまり気にならない分量であり、また文章も平易なのだが、何しろ十八巻というのは壮大な長さだった。そして、この『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』も、読書に苦労したものとなった。そのため、翻訳者が全巻翻訳を終えた感慨に比すれば、月とスッポンの差はあるにしても、私なりに読了した感慨はそれなりに大きいものがある。
そして、全巻を読み終わることで、翻訳者同様に(しかし、比較にはならない低レベルだが)、ラブレーと彼が生きたフランス・ルネサンス時代について、多少とも詳しくなった気がする。少なくとも、例えば学校の歴史の教科書に「ラブレー」とか「フランス・ルネサンス」という文字があり、それが試験に出るから暗記しているのとは、ほるかに遠い場所にあるイメージだ。これらの単語や文字の中に含まれた一種の血肉を感じ、またフランス十六世紀の匂いのようなものを肌で感じることができたように、私は思っている。
そうした点では、渡辺一夫が意図した、ラブレーとフランス・ルネサンス文化への入門書としての役目は十分過ぎるくらいに果たしているし、また歴史と文学を学ぶ者にとっては良い啓蒙書になっていると思う。そうした効果があるだけでも、無理難題と言われたラブレーの本を日本語に翻訳した意味は十分にあると、おこがましくも私は称賛したい。そして、この書評は、著者ラブレーに対するよりも、日本語の『ガルガンチュアとパンタグュリエル物語』を世に出した渡辺一夫に対する、大いなる讃辞になれば良いと思っている。
もちろん、ラブレーやフランス・ルネサンス文化を研究しても、それが為替レートに影響したり、何かの品物が爆発的に売れたり、誰それの歌や芸がヒットしたりするわけではない。また、大金持ちになれるわけでもないし、政治上の特別な効果があるわけでもなんでもない。つまり、「無用の学問」なのだろうが、むしろそうした「無用の学問」こそが、人には必要なことではないだろうか。そうした渡辺一夫の声が、フランソワ・ラブレーの声が、ガルガンチュアの声が、パンタグリュエルの声が、パニュルジュたちの声が、この壮大な読み物から互いに反響しあって聞こえてくるようだ。これが「人類の遺産」ということなのだろう。
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