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<閑話休題>自己陶酔と自己中心、そして自己満足

〇 12月のある日曜の夕方、地下鉄のホームへ降りる長い階段を、老夫婦が手を取り合い助け合って、ゆっくりと降りている姿を見た。とても微笑ましい姿であり、また年を重ねて、夫婦で助け合い信頼しあってきた時間の流れがにじみ出るようで、とても美しいと思った。もっとも、その脇を無作法な人たちが駆け足で、老夫婦にぶつかりそうになりながら駆け下りている姿には、まったく閉口したが。
 
 しかしこれが若い男女が手を取り合って階段を降りていたのなら、全く微笑しいともなんとも思わない。「そんなことは、他所でやってくれっ!」と叫びたくなってしまう。さらに、高校生のカップルなら、もうひたする憎らしい感情しか湧いてこない。なぜかと思えば、自分が老人であるから(嫉妬)ということが一番の理由なのだろうが、高校生の側にも「自分たちの世界に自己陶酔している」、「他人のことなど気にせずに、自己中心に振舞っている」というのが見えてくるため、そこから妬ましいという嫌悪感が湧いてくるのだと思う。
 
 なお、元気な高校生は妬ましく、よろよろしている老人には同情するのかと言えば、これは違うと思う。また、その老人の姿に自分の明日の姿を見たということでもない。だいいち、我が家はそんなに仲良くない?から、階段で手を取り合って降りるようなことはしないと思う。もしかすると、私は階段をゆっくりと降りて、妻はちゃっかりエレベーターを探して自分だけさっさと降りていると思う。それは、要領の良さとかそういうことではなくて、私は楽で安易な方と苦しいが実りがある方の二者選択をする場合、必ず苦しいが実りある方を選んできたからだ。つまり、「エレベーターを使わずに階段を必死に降りる自分」が嬉しいのだと思う。まあ、これも自己陶酔とか自己中心と揶揄されたら、それきりだが・・・。

〇 昔、私が学生だった頃は、東京の美術館(特に竹橋の近代美術館や品川のもうなくなってしまった原美術館などの現代美術関係)や博物館は、日曜でも人が少ない、私にとっての最高の憩いの場所だった。それは、ちょうど団塊の世代が皆仕事をしていたため、日曜であっても、美術館や博物館に行く人は少なく、彼らは遊園地やデパートに家族連れで押しかけていた。そういうわけで、私のような学生、しかも現代美術とか民俗学・考古学に関心があるような者ぐらいしか、わざわざ美術館や博物館に行くことはなかった時代だった。
 
 ところが、団塊の世代が大量に定年退職した後、彼らは暇を持て余したあげく、(既に公共の図書館は、病院の待合室に代わる老人の居場所になっていた上に)大挙して美術館や博物館に押し寄せてきた。それまでは、美術鑑賞とか展覧会に行くとしても、せいぜい大手デパートの催し場ぐらいしかなかった大勢の人々が、そのまま働いていたときの、そして遊園地やデパートに押し寄せていた勢いを再現するかのように、静謐だった美術館や博物館に雲霞の如く蝟集してきたのだ。そう、美術館と博物館は、もうかつての非日常の異世界的な雰囲気を失ってしまい、どこにでもある日常の場所になってしまったのだ。
 
 これはもう、私にとっては「貴重な憩いの場所」を奪われたとしか思えない、まるでゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が崩壊したようなものである。とにかく、人の数と言うのは一種の暴力だと思う。近年オーバーツーリズム(観光公害)と言われているものも、こうした類だろう。そして、ただ人が多く、多方面のプレッシャーを与えられるというそれだけで、人込みを人ゴミだと感じてしまう私は、傲慢・自己中心と言われても仕方ない。
 
 そういうわけで、今はどこか新たな憩いの場所がないかと探している。しかし、ガード下の居酒屋も駅の立ち食い蕎麦屋も街中の中華屋も、みな、団塊の世代が押し寄せる場所になってしまっているから、なかなか良い場所が見つからない。そういえばこの気分は、1970年代までの素晴らしかったジャズが、今やうるさいだけのものになってしまったという感覚と同じだ。人びとが大挙して押し寄せるその姿からは、音楽以前の騒音としか聞こえない、まるで暴走族の狂乱した排気音で攻撃されているような音が聞こえてくるのだ。
 
 残された道は、世捨て人として、山寺にでも籠ることしかないのだろうか。・・・しかし、ここにもわざわざ、団塊の世代の登山者・ハイカーが大挙して押し寄せてくることだろう。しかも、自らの装備不足・準備不足を補うための、都会のコンビニエンスストアを利用するのと同じ感覚か、または「変人のいる場所」としての観光先として。

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