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<書評>『神よりの逃走』

『神よりの逃走 Die Flucht vor Gott』マックス・ピカート Max Picard 坂田徳男・佐野利勝・森口美都男訳 みすず書房1963年 Eugen Rentsch Verlag, Zurich, 1934

『神よりの逃走』

 学生時代、大学の生協で思わず衝動買いしてしまった本。ちょっと刺激的な書名に惹かれたのだが、ピカートがどういう人間かも知らずに買ってしまった。その時は、たぶんニーチェの「神は死んだ」の延長にこの本があると勘違いしたのだと思うが、すぐに勘違いだったと気づいたこともあり、ずっと本棚に「積読」状態だった。

 あれから45年経った現在でもマックス・ピカートは良く知らないし、日本でも著名な哲学者ではないようだ。代表作としては、『われわれ自身の中のヒットラー』、『沈黙の世界』、『ゆるぎなき結婚』があるが、いずれも私は未読であり、これから読む予定もない。なお、一般的な肩書としては、スイスの元医者でその後保守的かつ宗教的な哲学者として、ナチスが台頭する歴史を踏まえた政治・社会批判の著作を発表したとされている。

 本書を読みだして最初に戸惑うのが、「逃走」という言葉が著者によって独り歩きしていることだ。いきなり「逃走」という言葉を、自由自在に使われても読者は理解できない。そして、翻訳者による「逃走」概念の説明や解説はない。また巻末の解説は、ひたすらピカート称賛の文言だけであり、本書の内容の解説にはなっていない。これでは、(私を含む)一般的な読者は、読みづらいまたはわかり辛いという印象しか持たないのではないか。

 そうした中で、私は本書を、例えばニーチェの著作を読むような気分(つまり、法律文のように語句の細かい規定をした哲学書ではなく、イメージに満ちた小説や散文詩を読む感覚)で読むことにした。実際、言葉の深い意味を気にせずに読んでいくと、不思議と読みやすい文章に見えてくる。そして読み進むうちに、どうやらこの「逃走」は、一般的な意味での「逃走」ではなく、著者が独自に意味を与えたかなり特殊な言葉(用語)であることが益々鮮明になってくる。しかし、著者は「逃走」に与えた独特の概念について、何ら説明せずに文章を進めていく。これは正直言って理解が難しい。そのため、この「逃走」とはどういう意味なのかを探りつつ読書を進めることが、本書を読むためのテーマになった(もしかしたら、それが著者の狙いだったのかも知れないが)。

 さらに読み進めるうちに、引用文献や原注(及び訳注)もない本書は、著者が思いついたことをまるで文芸書のように書き連ねている印象が強まり、それは確信となった。私が本書に対する読書方法として選択した小説や散文詩のイメージは、結果的に正解だったようだ。そして本書は、文芸書や哲学書というよりも、一種の散文的な宗教書であるという思いに変わっていった。つまり、著者が言わんとする宗教的な思想を散文詩的に表現しているということだ。それは、古から預言者と言われた人たちが行ってきた表現方法でもある。そうして読み進めるうちに、書名となっている「神よりの逃走」を条件づける「神」及び「逃走」という概念が、少しずつ頭の中に入っていくように感じた。

 こうして主要な語句の理解が進む一方で、私にとって強い関心がある「言語」という章が出てきた。もちろん、ここにおける「言葉」とは、現象学や構造主義言語学等による「言葉」ではなく、著者が述べる「神よりの逃走」と関連する「言葉」として述べられている。しかし、本書全体に「逃走」という用語が必ず章題に使用されている中で、ここに「言葉」というものを見つけたとき、私は一種のオアシス的なものとして、それまでの文脈から少し違っているものを感じた。

 その私がオアシスのように感じた文章は、P.128にある以下のものだった。

「この組織によって言葉はリズミカルになる。そしてこのリズムは三重のものだ。・・・つまり、一つのリズムは言葉から言葉へのうごきによって発生する。しかし言葉から言葉へのリズムが存在するだけではなく、また言葉から沈黙へのリズムがある。何故なら、あらゆる言葉、この位階的秩序のあらゆる構成要素の後には、小さな休止があるからだ。だから、言葉から沈黙への、この第二のリズムが形成されるのである。その次ぎに、更に第三のリズムがある。そして、これが最も美しい。それは、沈黙から沈黙へのリズムだ。この三重のリズムのなかで、言葉は跳動するのである。言葉は重くてもかまわない。それでもやはり、三重のリズムによって動かされるのである。」

 ここにある「沈黙から沈黙への第三のリズムが最も美しい」という表現は、私の大好きなサミュエル・ベケットにおいて見事に文学作品化されている。ベケットの使用する「沈黙」や「間」という「言葉」は、まさにピカートが指摘したところの最も美しい文学表現であった。またこの美しさは、日本の詩人吉田一穂の作品にも見出せる。言葉は、饒舌であることは次善である。最善は何よりも沈黙であり、その沈黙をつなぐリズムを看取できる者こそ、文学を味わい尽くせる者ではないだろうか。(たしかに沈黙をしたら言葉は喪失する。そこに見える・聞こえる言葉はない。しかし、そこに言葉を見ること・聞くことこそが文学の神髄だと、私は考えている。)

 さらに文学について述べた箇所がP.162にある。

文学はまるで一つの自律的な機械装置のように機能する。・・・・・だから人間は逃走することができる。彼は文学に頓着するには及ばないのである。書物はひとりでに生れ出る。まるで人間の手を借りることがないように、一つの文学作品が他の文学作品を製造するのだ。文学のこのような自動的(オートマティック)な仕掛けの種は、一つの作品は決して或る現象に関してその全体を述べず、ただ一部だけを述べるから、残されている何事かを言うべき別の作家が常に続いて現れ得るというところにある。例えば自然主義はただ人間の外的な情況だけを把握したのであるが、そのやり方はあまりにも示威的でまた過激であったから、内的情況もやはり存在していることを誇示するために表現主義が生まれて来ねばならなかったのだ。欠如のからくりによって文学は生き伸びているのである。」

 本稿は、文学について、文学という芸術についてその一面しか述べていないと思われるが、それでもこの見方はなかなか面白いし、特に「書物はひとりでに生れ出る」というところに、核心をついているものを感じる。なぜなら、私は文学作品とは、原因と結果、素材と製品のような因果関係から生まれるものではないと思っている。作家は、天啓ともいうべき己に書くことを要請するなにものかを感じて、創作している。作家は、「自ら書く」のではない。「誰かから書かされている」のだと思う。

 ところで、私が関心を持つ文学や言語から離れて、ピカートが本書で述べている内容全般を総括的に述べてみたい。私は、本書は一種の宗教的告白書であり、その書き方はニーチェの作品に近いと感じた。そして、ここで告白されているピカートの宗教的世界観とは、神と人との関係が、存在の全てであると見なしており、そこから逃走している現代人(同時代人)の生き方に対して強い(文明)批判を述べている。しかも。その批判するための文言は、ニーチェが得意とした神話的・物語的・詩的な表現であると私は読み取った。

 もちろん、ピカートが本書で主張した内容を、私が正確に受け取れたとは思えないし、そこまで読みこなす力は私にはなかったが、それは私一人の責任というよりも、ピカートの難解さと特殊さとに多く起因すると責任転嫁しても許されると思う。やはり、本書からピカートの主張を100%読み取れる人はかなり少ないと思う。そして、もしも丁寧な訳注や語彙の解説があれば、読み取れる人の割合はいくらか増えるのではないだろうか。

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