<伝奇短編小説>芸達者な眠り猫
「眠り猫」と言えば、日光東照宮にある名人左甚五郎作の浮彫が有名だが、猫は用がない時には眠っているが、分が悪いとなった時も居眠りの振りをするようである。
時は江戸時代後期、奥州のある大名に仕える侍がいた。一匹の年寄りの虎猫を飼っていた。そして、既に剣術の時代でないこともあり、その侍は、何よりも芸能が好きだった。冬のある晩のこと、侍は、人形浄瑠璃の芝居を、「この子がぜひ観たいというのでな」という理由で、女房一人を留守番にして幼い息子と二人で見物に出かけていった。
一人屋敷に残された女房は、いつものように囲炉裏の近くで着物の繕いなどをしていたが、その傍で寝ていた虎猫が、突然女房に話しかけてきた。長年飼っている年寄りの猫であり、年とった猫は化けるとはいうものの、さすがに人の言葉を話すとは思いもしないことなので、女房は酷く驚き、虎猫の顔をまじまじと見つめた。
すると、その虎猫は、まるで長年女房に使える女中頭のような口調で、
「奥様、おひとりで縫物とはさぞお退屈でしょう。旦那さんと坊ちゃんがお楽しみの浄瑠璃を、ひとつこの私がやってみせましょう」と言うなり、「義経千本桜」の「道行初音旅(みちゆきはつねたび)」を演じ出した。
「恋と忠義はいずれが重い、かけて思いははかりなや、忠と信のもののふに君が情けと預けられ、・・・今は吉野と人づての、噂を道のしおりにて、大和路さして慕いゆく」と、虎猫は見事に吟じてみせた。
これを聞いた女房は、虎猫のあまりの芸達者振りにさらに驚いたが、思わず「いやあ、お前がそんなに浄瑠璃が上手いとは、これは旦那さんにもお伝えせねばならないな」と言った。すると虎猫は、「いえいえ、奥様、これは私と奥様との間の内密なことにしてください。そうでないと、私は化け猫と言われて、この家を追い出されてしまいますから」と、他言しないように、女房に強く願った。
こうして虎猫からきつく言われていた女房は、主人と子供が帰って来た時に、思わず虎猫のやった浄瑠璃のことを口に出しそうになったが、近くでいつものように居眠りしている虎猫の姿を見ると、さきほどの約束のことを思い出した。そして、針仕事をしながら、主人と子供が観てきた「義経千本桜」のことを、嬉しそうに聞いた。途中で、主人が「道行初音旅(みちゆきはつねたび)」の口真似をしたとき、さすがに女房は「こりゃあ、旦那さんより虎猫の方が上手いわ」と思い、ふと虎猫を見た。虎猫は、薄目を開けて主人の吟ずるのを聞いていた。外では、雪が降り始めたらしい、しんしんと雪が積っていく音が聞こえてきた。
数日経った日のことだ。村はずれにある古刹の僧侶と碁友達であることから、その僧侶が侍の家を訪ねてきた。ひとしきり碁を打った後で、茶を飲みながら世間話をしているうちに、僧侶は囲炉裏端で眠る虎猫を見て、急に思い出したように話しだした。
「ところで、三日ほど前の夜のことだが、その日は良い月夜の晩だったので、ふと庭を見ると、そこに威勢の良い狐がやってきて、何やら踊りを踊っている。おそらくは、満月の夜に踊る習わしなのかも知れないが、そこで狐がこんなことを言っていたのじゃ」
「どうにも虎猫が来ないことには、踊りが上手くいかない、早くここに来て欲しいものよ」
この狐の言葉を聞いたかのように、間もなく虎猫がやってきて、赤い手拭を被って狐と一緒に踊り出した。僧侶はその踊りを見ていたが、なかなか手慣れたもので、これが初めてではないと見えた。しかし、虎猫と踊っていた狐が、途中で踊りを止めた。
「今夜は、どうにも調子が出ない、・・・これで止めるべ」
これを聞いた虎猫も、「そうだな、俺も帰るとするか」と言いながら、寺の庭をすたすたと去って行った。その姿を見ていた僧侶は、「その時の虎猫は、まさにこの家の囲炉裏端で寝ているこの虎猫にそっくりだったのじゃ」と、主人に真剣な顔で言った。
間もなく僧侶は帰って行ったが、主人との話を傍で聞いていた女房は、虎猫との約束を忘れてしまい、思わず主人に、先日の虎猫が浄瑠璃を吟じたことを話し、「お寺で狐と踊った虎猫は、うちにいる虎猫に相違ないのではないですか」と、おずおずと伝えた。
主人は、僧侶に続く女房の言葉に非常に驚いたが、
「それでは、そのことを和尚にも伝えねばならないが、何分にもさっき帰ったばかりだから、明日の夕方にでも寺に寄ってみるか」と言って、その夜は大人しく寝ることにした。
侍は、僧侶が怪しんだ狐と虎猫のこともあり、なかなか寝付かれなかった。そこで、布団に入ることはせず、一晩中囲炉裏端で酒を飲んでいた。外では、また新たに雪が降りだす音が聞こえているが、囲炉裏端はずっと火があったので、とても暖かく、そして、酒を飲んでいることもあり、侍はいつの間にかそこで寝入ってしまった。気づいたときはすでに朝だった。外を見ると、既に雪は止み、庭に深く積もっていた。
まだ女房が起きてくる時間ではないので、侍は縁側の窓から良く晴れた空の向こうに見える、雪化粧した山の風景を眺めた。山も谷も、いつもと変わらず長閑なものだった。しかし、妙なことに、働き者の女房がいつまで経っても起きてこない。さすがにこれは変だと思って、女房が寝ているところへ行って見ると、女房が、首筋を鋭い牙で噛み切られて死んでいるのを見つけた。
驚いた侍は、思わず女房の身体を抱き起したとき、飼っていた虎猫の毛が少し落ちていくのを見た。侍は、これはきっとあの浄瑠璃を吟じ、寺で踊っていた虎猫の仕業に違いないと悟った。しかし、なぜ女房を殺したのだろう、もしかすると、浄瑠璃と踊りを女房に知られたことが理由なのか、あるいは虎猫が女房を手籠めにしようとしたのだろうか。何にしても、化け猫の仕業だから、これは何とかしないとならない。そう考えた侍は、奥の間にある刀を腰に差して立ち上がった。そして侍は、家の中外に隠れているかも知れない虎猫の姿をくまなく探してみたが、どこにもいなかった。侍からの仕返しを恐れて、虎猫は既にどこかへ逃げていったらしい。家の外には、雪の上に虎猫の足跡が点々とあり、遠い山の方までつながっているのが見えた。
侍は、女房を葬る際に、僧侶にこのことを話した。僧侶によれば、寺に来ていた狐も、同じころからぷっつりと来なくなったという。そして、僧侶は「たぶん、狐と虎猫には、あの山の霊が取り憑いていたのだろう」と語った。「山の霊なら、人が敵うわけもない・・・」と侍は言って、僧侶の弔いの経を聞きながら、静かに手を合わせた。その時だった。亡き妻を弔うように、どこからか「道行初音旅(みちゆきはつねたび)」を朗々と吟ずる声が聞こえてきた。おもわず二人は顔を見合わせ、あわてて寺の本堂の裏に逃げ、必死に経を唱えた。その唱える経は、少しばかり浄瑠璃の節回しに似ているように聞こえた。
そうして二人が逃げてからも、浄瑠璃を吟じる声は朗々と流れていたが、しばらくするとその吟じる声が、まるで山の中へ吸い込まれるように、だんだんと小さく消えていった。その後、侍と僧侶は本堂の裏から出て来て、妻の葬儀を続けた。そして、妻の亡骸を埋葬し、葬儀の全てを終えた後、侍と僧侶は、酒を酌み交わしながら二人だけで夜を過ごした。二人は、一晩中狐と虎猫のことを語り合っていた。その日は良く晴れて、寒気は強かったが、月がとても綺麗な晩であったという。
*注:『遠野物語』にあるエピソードを基に創作しました。
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