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<書評>『無限、宇宙および諸世界について』

 『無限、宇宙および諸世界について De L’infinito, Universo E Mondi 』ジョルダーノ・ブルーノ Giordano Bruno 著 清水純一訳 岩波文庫 1982年 原著は1584年におそらくロンドンで出版されたが、ヴェネチアで出版したとされている。

『無限、宇宙および諸世界について』

 ルネサンス後期イタリアのナポリ近郊に生まれた、修道僧かつ思想家であったジョルダーノ・ブルーノは、宇宙が無限であること及び万物はそのなかで合成解体を繰り返し、従って輪廻転生があることを主張するようになった。そして、そうした思想を展開した本書を出版したことや布教したことにより、異端審問所に目を付けられ、ヨーロッパ各地を逃亡する。最後は、信頼していたヴェネチアの支援者の裏切りによって、長期間光の射さない石の牢獄に閉じ込められた後、見せしめとして生きながら火刑に処せられた。

 それから二百年ほど経った後、彼の思想は高く評価されることとなり、現在の宇宙論の先駆けとして、多くの歴史家より高く評価されることとなった。しかし、彼の考えは科学論よりも哲学論であったため、現在の宇宙論と同じものとみなすことにはさすがに無理がある。そのため、コペルニクスやケプラーが科学者として評価されている一方、ブルーノは異端思想の殉教者というイメージが強い思想家である。

 ところで、本書の全体は、ブルーノ自身を反映した登場人物であるフィロテオが、その弟子エルビーノやフラカストリオの助けを受けながら、アリストテレス宇宙論(天動説)に固執する、ブルキオやアルベルティーノからの質問に対して、丁寧に答える形式―五つに別れた対話―として構成されている。なお、ブルキオは、「もう帰ってくれ、帰ってくれ、アリストテレスより賢明な方々よ。(中略)諸君は、数多い学者たちの流れにも逆らおうとするほど、思い上がっているのだ!」、「君はアリストテレスより学者かもしらんが、あいにく君は獣だよ。(中略)悪魔も君たちもたいして変わりはないわ」と捨て台詞を残して第三対話で退散してしまう。これは、ブルーノが生きていた当時の、一般教養人のごく自然な反応であったと訳者が解説している。

 一方、最終の第五対話だけに登場するアルベルティーノは、最後に「私は今まで輝く遊星の全体を見る機会に恵まれなかったけれど、それでも私の知性の閉ざされた窓にかすかにあいている隙間を通って射し込んでくる光線で、これが人工の光でもソフィストの灯でもなく、また月やその他の小さな星の光でもないと認めることができます。だがもっと深い理解は将来のこととして、これからはその準備をするつもりです」と言って、フィロテオ=ブルーノの説明に感化されて退場する。

 ブルーノとしては、(反宗教改革により、長く禁書にされてしまったとはいえ)本書を読む人たちが、このアルベルティーノのような感想を抱くことを期待していたのだろう。しかし、それには十九世紀半ばまでの約二百五十年も待たねばならなかったのは、ブルーノも想定できなかった長さになったと思う。地球が太陽の周りを回り、宇宙に太陽や地球のような星が無限に存在しているという、今では小学生でも知っていることだが、改めて考えると、人々の思考(つまり、強固な先入観)が変わるためには、長い時間がかかることを思い知らされる。

 一方では、ブルーノのように「早く生まれてしまった者」は、いつの世でも理不尽な対応を世間から受け、人類への多大な貢献と反比例するように悲惨な人生を送らされてしまう。もしブルーノが二十世紀に生きていたら、ノーベル文学賞を受賞するくらいの栄誉を得ただろうが、十七世紀に生きていたため、因習姑息な社会に殺されてしまった。この矛盾は一体なんなのだろうかと、いつも考えてしまう。新しい思想についていけない社会というのは、人類にとってマイナスでしかないのだが、しかしそうした因習姑息な社会に対する啓蒙と教育というのは、永遠の乗り越え難いテーマなのだろう。

 以上のような読後感を私は持ったが、ブルーノの本書における主張のポイントや、現在の宇宙論や哲学論等から見て、面白そうな箇所がいくつかあったので、それらを抜粋して紹介したい。なお、末尾に<個人的見解>として、私の理解を参考までに付けた。

P.72(第一対話)
フィロテオ あなたの求めている解決を理解するには、まず第一に、宇宙は無限にして不動なのだから、それを動かす者を探す必要はないのだ、ということに気づかねばなりません。第二に、無数にある諸世界のうちには、土だとか火だとかその他星と呼ばれる物体を構成しているさまざまの種が含まれていて、それらはすべて内在原理によって自ら動いている。その内在原理とは私が別の場所で明らかにしたように霊魂そのものなのです(以下省略)。

<個人的見解>
 これはアリストテレスが、宇宙を動かすための存在を無理矢理導入したことに対する反論であり、コペルニクスの地動説を拡大解釈したものとなっている。なお、その内在原理とされた「霊魂」とは、日本語で意味するところのスピュリチュアルなものではない。それは、現代物理学で言うところの、素粒子を動かす力(電力、磁力、重力、大きな力、小さな力)を意味していると思う。

P.75(第一対話)
フィロテオ ・・・さて私に言わせるならば、事物のうちには、言ってみれば、運動を起こさせる二種類の原理があると考えるべきです。その一つは有限な基体の理に従った有限なもので、これは時間のうちで動かします。もう一つは、その全体が万物のうちにあって万物のうちに霊魂全体を存在せしめるような霊魂の霊魂として存在する世界霊魂の理に従った無限のもので、これは瞬間に動かします(以下省略)。

<個人的見解>
 私は、この記述にアインシュタインの相対性理論の先駆けを見た気がする。つまり、時間と空間との関係を述べており、時間については、我々の知っている三次元の時間に加えて、四次元(以上の次元)の時間概念があると述べていると思う。

P.122(第二対話)
フィロテオ ・・・さらにつけ加えておくと、この無限にして巨大なるものは何らの特定の形態ももたず、外物に作用する感覚も持っておらぬにもかかわらず、一つの生きものなのです。なぜならば、それは自らのうちに完全な霊魂をもち、生命ある全体を包み、その全体であるからです。(中略)そしてその全体には、中心もなければ端もないのです。さらに言えば、軽重による運動も、無限なる物体には妥当しません。無限のうちにある完全無欠の物体にも、それ本来の場所にあって自然の配置におかれている無限の部分にも、軽重は云々できません。繰り返して言えば、軽い重いは、絶対的なものではなくて相対的なものなのです(以下省略)。

<個人的見解>
 これは、アインシュタインの相対性理論そのものではないだろうか?そして、これをブルーノが独自に見出したとは思えないので、誰か―おそらく地球外生命体―によって教えられたのではないかと、私は推測している。

P.161(第三対話)
ブルキオ それでは、他の世界にも、この世界と同じように、住んでいるものがいるのでしょうか。
フラカストリオ 我々と同様、もしくは我々より上等ではないにしても、劣っていることもないでしょうね。理性的でいくらかでも目覚めている頭脳ならば、この世界と同様ないしそれ以上だとわかっている数知れぬ諸世界に、この世界と同様ないしそれよりすぐれたものが住んでおらぬとは、想像しようがないからです。それらは、太陽であるか、もしくは、太陽から我々と変わらぬ神聖で豊かな光線の放射をうけているもので、この光線が、その反射した力にあずかる周囲のものたちに(我々と同じ)幸運を与える源泉であり主体であることは、たやすく了解されるところです。つまり、宇宙の主要成員は無数無限であり、同じような容貌、特権、能力、性質をもっているのです。

<個人的見解>
 まさに、これは地球外生命体の存在を明示したものであり、その語り口から推測すれば、これは想像上のイメージを述べたものではなく、実際に地球外生命体に接触した経験から語られているものと思われる。

P.229(第五対話)
 フィロテオ それ故、天の彼方に場所、空虚、時間が存在するかと訊ねる必要はない。なぜならば、ただ一つの普遍的場所、果てしない空間があるのみで、これを空虚と呼んでも一向に差支えないのだから、そこには我々が生まれ育っているこの地球同様、無数にして無限の天体が存在しているのです。この空間を我々は無限と言います。というのもそれが有限でなければならぬような都合も、理由も、可能性もなければ、そう感じられもせず、そのような性質もないからです。そのなかにはこの世界と類似の世界が無数にあった、それらはこの世界と異種のものではない。理においても自然の能力にかけても、つまり受動力でも活動力でも、何一つ欠けるところはありません。我々が存在しているこの空間のなかにあるものは、これと何ら異なることのない本性を具えた他のあらゆる空間のなかにも同様に存在しているのですから。

<個人的見解>
 これは、実際に地球型惑星やそこに住んでいる地球外生命体を見てきたような言い方だが、私は、ブルーノは実際に見てきたことをそのまま書いているのだと思う。それはまた、ブルーノが自分を訪問してきた地球外生命体のUFOに乗って、短時間の宇宙旅行をしてきた経験を基にしているのだろう。

 なお、つい最近まで最新科学によって否定されてきた、ブルーノを筆頭に近代までの宇宙論で存在を主張されてきた、宇宙空間を占める物質としての「エーテル」だが、これまで「真空=何もない空間」とみなされた部分を最新の装置で計測し推論した結果、そこに何かがあることが判明している。しかも、その何かとは、宇宙空間の大半を占める未知の物質であるとして、この物質を「ブラックマター(暗黒物質)」と称している。これはそのまま「エーテル」と同じ概念であった。

P.256(第五対話及び全体の末尾)
アルベルティーノ 私は今まで輝く遊星の全体を見る機会に恵まれなかったけれど、それでも私の知性の閉ざされた窓にかすかにあいている隙間を通って射し込んでくる光線で、これが人工の光でもソフィストの灯でもなく、また月やその他の小さな星の光でもないと認めることができます。だがもっと深い理解は将来のこととして、これからはその準備をするつもりです。
フィロテオ あなたともっとお近づきになれればたいへんうれしいことでしょう。
エルビーノ では夕食を始めましょうか。

<個人的見解>
 アルベルティーノが、フィロテオやエルビーノの説明を理解した最後の会話(対話)となる部分だが、特にエルビーノが夕食を始めようという終わり方に、酷く興味を惹かれた。この夕食とはいったいなんなのだろう。アルベルティーノが感化されたことのお祝いだろうか。あるいは、近世前期のイタリアの知識人―修道僧など―は、夕食の前に議論を酌み交わす習慣があったのだろうか。

 そして、その夕食のメニューはどんなものだったのだろう。もちろん、ワインは必需品だ。そして、固いパンと(たぶん豆の)スープもあるはずだ。これ以外には、何もないかも知れない。もしかすると豚肉や鶏肉があったかも知れないし、海の近くなら魚もあったろう。いずれにしても質素なものだったと思う。しかし、その夕食を囲む人々の顔は、食欲以上のものを心身に取り込めたことの満足感で一杯だったのではないか。

 今はブルーノの生きた時代とは異なるが、私もこうした心身ともに実りある豊かな食事をしてみたいものだ。もちろん、メニューにはビールやサワーがあり、フライドポテトや枝豆が欲しい・・・。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、世界各国の都市について書いたものです。>


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