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<書評>『デカメロン』

『デカメロン Decameron』 ジョバンニ・ボッカッチョ Giovanni Boccaccio著 平川祐弘訳 2017年 川出書房文庫全三巻 原著は、1351年のイタリア、フィレンツェ

デカメロン

 翻訳者曰く、ダンテ・アリギエリ『神曲』に並ぶ、イタリアルネサンスが生んだ世界的かつ歴史的な名著である。そして、巷間に流説している艶笑物語集だけではないことが、実際に全文を読むことでわかる。多くの人が、まったく原典を知らずにいかにレッテル貼りをしているかの典型だろう。そして、この原典全文を日本語で読める喜びを、私は噛みしめている。人が言葉と文字を発明した、その最大の成果のひとつは、こうした人類共通の財産を堪能できることではないか。

 『デカメロン』は、一日毎のテーマにそって10人(女性7人、男性3人)がそれそれ物語るのだが、巷間に言われているように、性に関するおおらかな物語はたしかに多い。特に、僧侶や貴族階級の不倫や同性愛、バイセクシャルといったことが多く出てくる。一方で、当時のフィレンツェを中心にした、イタリア各地の土地柄や人々の生活がよく描かれている他、地中海世界を取り巻く十字軍やイスラム世界との関係も、いくつかの物語の背景になっている。イタリアの都市国家及びカソリック支配の歴史を勉強するのには、良い材料だろう。

 こうした多様さと面白さから、『デカメロン』は宮廷を中心にしたヨーロッパ社会でベストセラーになった一方、性的な話が多く出ていることから、厳格なキリスト教カソリックの社会では、禁書の如く忌避されてきた歴史を持っている。そして、いまでもそうした認識が多く流布しているのは、哀しいことだ。

 さらに、当時の常識であった、まるで奴隷のように扱われている女性の地位が低いことについては、現代のフェミニストからすれば言語道断の禁書とすべきものにされてしまうのだろう。しかし、タリバンのバーミヤン大仏破壊や幕末の志士が足利尊氏の木像を切りつけたのと同様に、後付けの価値観を過去のものに押し付けて無理やり適用することは、狂信的な行為かつまったくナンセンスでしかない。

 こうして、中世以降の教養人からは忌避されてきた『デカメロン』だが、水面下では、魔術や錬金術同様に、密かなロングセラーとして読み継がれてきた他、ルネサンスを起点とする人間中心主義(ヒューマニズム)の観点からは、素晴らしい人間賛歌である同時に民衆のエンターテイメントとしての大きな存在価値を持っていたことは、翻訳者の解説にあるとおりだと思う。

 この歴史的な古典として重要な『デカメロン』だが、最終日となる10日目の物語は、皆感動的な良いものなのだが、一方で無理に感動をもたらそうとして、様々な物語や人物設定に無理がある。特に第8話は、雄弁術全盛のローマ時代のものとはいえ、その難解な論理による詭弁とも言える長々と続く論述は、冗長としか思えない印象が強く、その結果物語の興を著しく損なっていると言わざるを得ない。また、最後の第10話も、現代から見れば、サディズムとマゾヒズムに満ちたやや異常な物語展開でもある上、ボッカッチョ自身も「著者結び」で弁解しているかのような記述があるため、かなり後味が悪い。

 結末に不満が残るものの、全100話は皆それぞれ趣向を凝らした好短編となっており、特に壁絵職人の悪友達が、ちょっと抜けている別の壁絵職人を騙す数話の物語は、まるで落語を聞いているようでとても面白かった。また、第6日や第7日に数話ある、女性が自分の過失をうまく言い逃れる話も良かった他、第2日の、数々の災難を乗り越えて、最後に幸福をつかみ取る物語も感動的なものが多かった。こうした多種多彩な物語にボッカッチョの才能がよく発揮されている。

 ところで、この全100話中で最も有名なものは、第5日第8話「ナスタージョ・デリ・オネスティがトラヴェルサーロ家の娘と婚姻する話」だろう。しかも、ナスタージョ自身のことではなく、ナスタージョが、騎士グイド・デリ・アナスタージが、自分に連れなくした女を死後の世界で犬に追いかけさせ、残酷に殺害する亡霊を森の中で見た場面だろう。あまりにも衝撃的かつ記憶に残る内容のため、かのボッティチェルリが絵画に残している(上記に掲載した本書三分冊の表紙の絵)。この追いかけられる女は無名(ボッカッチョは名を記していない)だが、求愛者に対して残酷だった若い娘が、地獄にも行けずに現生で亡霊となり、裸で叫びながら逃げているという強烈なイメージとなっている。
(なお、このエピソードを日本風に翻案したものを、以下の通り作ってみた。)

(横道に逸れるが)しかし、このエピソードは、ピエロパオロ・パゾリーニの映画『デカメロン』では再現されていない。パゾリーニ作品は、原作のエピソードをいくつかピックアップして構成しているが、この最も有名なエピソードを描くことはしていない。その代わりに、自分が演じる画家ジョットーのテンペラ画を製作するストーリーを新たに入れている(原典には、壁絵職人は登場するが、ジョットーのような画家は登場しない)。そのため、『デカメロン』というよりも、パゾリーニ演じるジョットーの映画になっている。また、一番美しいのは、このジョットーが絵を完成していく姿で、そこには芸術創作の根源的なものが描かれている。おそらくパゾリーニは、『デカメロン』という器を借りて、自分がジョットーになった映画を作りたかったのではないか。

 なお、翻訳者の解説によると、明治の文豪である尾崎紅葉は、第5日第9話の物語(主人公フェデリーコは、自分を振った女性をもてなすために、大切な鷹を料理する)を元にした『鷹料理』という短編を創作しているという。私と同じこと(というよりも偉大な先人になる)をした作家がいたということに、『デカメロン』の影響力の大きさを感じた。

 たまたまナスタージョの物語を翻案したものを作ってみたが、『デカメロン』には好素材が多くあるので、そのうち興が乗れば同じような翻案ものを作ってみたいと思っている。そういう観点から考えると、『デカメロン』とは、人類の財産となる歴史的な古典であるとともに、一種の物語創作の集合的無意識なのかも知れない。

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