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小説「息子と卵」

 私たちの息子はいかにも子供らしく、朝早くから起きてゲームをするかと思ったら登校時間になっても眠り呆けていることもしばしばで、小学生の真ん中だからか大人顔負けの口をきいたかと思えばそこはやはり子供なのでしょう、寂しいからと私たちの布団の中にもぞもぞと入ってくるなど甘える部分がまだ残っており、そんなときには夫婦二人で目を合わせてクスクス笑うなどして、ああ、そうか、この瞬間を幸せと言うのか、としみじみしながら夜の情緒に浸ったりしているのです。
 ただし、息子はもう生きてはいませんでした。
 霊とかお化けとかそういう類だとはじめは思っていたのですが、どうやら息子は日々成長しているようで、昼間に一体どこをふらついているのか知りませんが家に帰るなり学校で起こったことなどを事細かく自慢げに話し、お腹が空いただのおやつが少ないだのとぶつぶつ小言を言いながら宿題に向かう姿はまさに生きているとしか思えず、実際に私たちはこの子が死んだとは今でも信じることができないのです。
 成長する幽霊とでも言うのでしょうか。
 しかし、それでも息子は息子。私たち夫婦には他に子はおらず、この子のためになら死んでもいいという気概で生きてきたのですから、例え抱きしめることができないとしても、それでも愛おしい我が子なのです。ただ、ふと思うのです。本当にこのままでいいのだろうか、と。いえ、私は別に勉強が得意だったわけでもないので、あまり論理的な思考はできないのですが、もしかしたら私たちは「生きている」ということに対して少し思い入れが強すぎるのかもしれません。
 先日、台所から息子のあっ、という声が聞こえてきました。
「卵落としちゃった」
 見ると、キッチンには卵の欠片とその中身が散乱していました。私は息子を特に叱りもせずに、仕方ないなといった表情で床を布巾で拭きましたが、そのときでした。体中の毛穴が開いたのです。
「卵?」
 息子は確かに今までどんな物体にも触ることはできませんでした。だって、そりゃ、当たり前でしょう。どこの世界に物に触れる幽霊がいるというのでしょうか。
 ただ、それからすべてがおかしくなっていったのです。
 息子が卵に触れてからというもの、逆に私たちが卵に触れられなくなったのです。
「卵の幽霊ってことかな」
 妻は苦笑いをするだけで、それ以上なにも言いませんでした。
 卵の幽霊。一体これはどういうことなのでしょうか。そもそも卵というものは生きているのでしょうか、それとも生きていこうとしている段階のまだ未発達な状態のことなのでしょうか。いえ、きっと命だとは思うのですが、それでも幽霊に卵など存在するのでしょうか。卵は成長の象徴です。成長する幽霊。私たちにはもう訳の分からないことでした。まさか、卵の幽霊が存在するなんて……。
 魂について、私はとんと知りませんし、そんなもの自体をどう扱っていいのかも分かっておりません。人間は死ぬと3グラムだか体重が減るそうで、それを魂の重さと呼んでいるそうですが、もし魂があるとしたら、息子の魂とは一体どこからきてどこに向かっていくのでしょうか。生まれる瞬間、息子の魂はどこから来たのでしょう。妻の魂が分裂したのか、私と妻の魂を足して割ったのか、それとも別のどこかからやってきたのか。――
 ああ、もう訳が分かりません。
 そうです、問題はそこなのです。正直、魂がどこから来ようが、息子が生きていようが、卵がこれからどうなろうがどうだっていいのです。
 問題は、私たちが本当に今この瞬間も生きているのか、という事なのです。
 ええ、というのはですね、信じられないかもしれませんが、近頃私たちが触れないものが増えてきたと言いますか、逆に息子が触れるものが増えてきたと言いますか、いえ、それでいいんです。もしこれで息子が生き返ってまた昔のようにランドセルを背負って学校に行く姿が見られるのなら私たち二人は喜んで命を差し出します。
 ただ――。
 今朝、卵の一つにヒビが入っていたのです。卵は日々成長しています。一体、なにが生まれるのでしょうか。そうして、私たちはどこに向かうのでしょうか。
 もうこの部屋で触れるものはこのスマホぐらいのものでしょうか。後は触れたり、触れなかったり。ああ、一体この世界はどうなっているのでしょうか。私たちはいつの間にか、生きていることに裏切られたのでしょうか。
 ハハっ。それならそれで構わないのですが、ただ一つ問題があるのです。それは息子のご飯を用意しようにも、触れる食材が日々減っていっているので、このままだと食べ盛りの息子があまりにも可哀そうで……。
 ええ、そうなんです、はい、よろしくお願い致します。……はい、そうです、息子の好物は、もちろん卵料理でした。



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※2021年6月の作品です。


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