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死が生きる希望となりうることについて
幸せを認識すると死にたくなっていた。
せっかく我が脳が何の無理もなく幸せを感じているのだ。こんなこと滅多にない。今のうちだ。死ぬなら今だ。今しかない!と思っていた。
28歳。いや29歳だったか。市役所勤務。障害福祉支援課の精神障害担当。パート。市民が福祉的な制度を受けるための手続きを担う。その業務のひとつに、「他人の診断書を読む」というものがあった。読むというか確認。市民が福祉制度を受けるために診断書が生きるかどうかの確認である。
私はその仕事が好きだった。
精神障害者の診断書をいくつも目にした。大切に読んだ。全裸でカーテンにくるまるという異常行動をおこなってしまいそれがどうしても止められない人、己の意志とは裏腹に他害を止められない人、本人にネグレクトの意識はないけれど子育てを放棄してしまっている人、子どもの前でハンガーを使って自殺未遂してしまう人(「ハンガーは首を吊るものじゃないよ」という小学4年生の少女の言葉が頭から離れない)もっともっと、人の数だけ、何千何百とエピソードは存在した。
読むたびに、どの人も私の近くにいると思った。私も人生の分岐のうえでは彼らと同じ場所にいると思った。それは絶望だろうか?私にとっては救いだった。ふとした瞬間に死が目の前に現れ死に囚われてしまう私にとって救いだった。
「幸せだと死にたくなります。幸せなうちに死なないと、と思います。」と、ある診断書に書いてあった。
ああ私じゃないか!と思った。その瞬間泣いていた。仕事中だった。
同時に、私のような人も福祉的な支援を受ける対象になるのだと気づいた。その気づきは今まで己の中に無かった扉を作った。叩くことも開くこともできる扉ができた。革命的だった。
今でも衝動的に死がよぎるけれど、そのたびに他者の死への欲求の手触りを想像する。そうすると、己の生きたいとか死にたいとかいうその意識から一旦離れ、他者の生死に意識を向けることができる。これも革命的な出来事のひとつだった。他者が必要だった。
結局仲間を欲しているのだなあと解釈した。
気づけば死にたかった今日を生きていた。