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言えなかった過去はラムネ瓶の中で今も泡を立てている


キュポンッ。小気味のいい音と共につっかえていたビー玉が落ちる。シュワシュワパチパチ。鳴る音はまるで爆発までのカウントダウン。慌てて手を離し飲み口に唇をつける。砂糖に水、檸檬などの香料で味付けされたそれは夏の風物詩だった。

波打ち際で泡立つ海水のように、口に入れた瞬間一瞬にして泡になったそれをいつまでも恋しく思うのはどうしてだろう。穴に落ちてくるビー玉を舌で押し返し、口を離した頃には容量が半分まで減っていた。

「へたくそ」

手のひらに丸い跡が残っている。私は唇を尖らせ、さも不服ですと言わんばかりの表情だけを返す。目の前の君は呆れたように笑った。苦節数分、一向に落ちないビー玉に助け船を出した君の手を取らなかったのは悔しかったからだ。

「お前が唸ってるうちにアイスが溶けた」

「先食べれば良かったじゃん」

水滴が落ち制服の色を変える。コンビニの袋からアイスを取り出した君は包装を開けた。棒状のアイスは既に緩くなっていて、私は自分の分であるカップのかき氷に手を伸ばした。

「待ってた俺の優しさに気づけよ」

「頼んでないし人のせいにするくらいなら先食べろ」

「はー冷た、俺の心はこのアイス並みにキンキンです」

「あはは」

「感情の籠ってない笑い止めて」

公園のベンチで溶けかけたかき氷に手を付ける。すんなりとスプーンを受け入れたそれを口に運び夏の終わりを噛み締めた。夜の帳が降り始めた空はオレンジと紺色が混じり、中心辺りで境界線が引かれている。あんな飲み物ありそうだな。少し涼しくなった風を感じながらどうでもいいことを考えていた。

「で、本気?」

「本気だよ、嘘ついてどうするの」

「いや、お前のことだ。この期に及んで嘘でしたって言う可能性がある」

「私に対してのイメージ終わってない?」

シャリッと、隣から水色のアイスがかじられた音が聞こえた。自分の分に集中し、スプーンで突いては食べやすくしていく。けれど何となく。口に入れることが出来なかった。

「まじで県外の大学行くの?」

前日の雨が残した青臭い泥の匂いがした。踵だけ脱ぎ、爪先でローファーを弄ぶ。視線は伸びる影に向けられていた。

「うん」

風の匂いが変わったのに気づく度、別れが近づいていく。

「せっかく狙えるならそっちにしなよって言われて」

「叔母さんたちは許可してんの」

「うん、一人暮らし楽しみなって言われた」

「もう確定?」

「……うん」

手のひらの熱で溶けていくかき氷は飲めるまでになっていた。

「何で俺に言わなかったの」

「聞かれなかったから」

「聞かれなかったら言わないのかよ」

「いつも自分がやってることじゃん」

「それ言われたら何も言えないんだけど」

でもさあ。続く言葉は無かった。救急車のサイレンが遠のいていく。どこかからカレーの匂いがした。公園の前を子供が駆けていく。家路に急ぐ人々。温かな家庭。平凡な日常のほんの一幕。繰り返された毎日の中の、とりとめのない一日。

「……俺はどうすんの」

何それと馬鹿に出来なかったのは、言葉の裏に隠された意味を理解していたから。

「普通に生きていくだけ」

けれど突き放したのは、ここまで来ても尚、欲しい言葉一つくれないから。

「まじで冷たいやつ」

「どっちが」

「そっちが」

「……自分がでしょ」

あとほんの少し。たった一歩にも満たない距離を踏み出せば全てが変わるだろうけれど、出来ないのは臆病で未来を信じ切れない自分が、次があると口にしたからだ。

言い切れなかった君にやきもきして、そんなことするなら知らないと、勝手に突き放したからだ。

「遠距離って続くと思う?」

「知らない、てかその前に始まりもしてないんですけど」

「ね、俺も言った後に気づいたわ」

水色の欠片が地面に落ちた。ほどなくして蟻が群がり、溶けていくそれを必死に運ぼうとしては上手くいかず右往左往している。君の手に残された棒には何も書かれていない。まるで不透明な私たちの結末にも思えた。

「始める気なんてないなら言わないでよ」

鼻の奥がつんとして立ち上がる。ビー玉がまた、カランと音を立てた。君は酷く傷ついた顔をしていて、何でそっちが傷つくんだ、私の方がずっと傷ついてると言ってやりたかった。曖昧な関係を続けた先で幸福が待っているとは到底思えない。これを繰り返して大人になるのであれば、私は大人になんてならなくていい。

今この瞬間に、選んでくれない恋なんて私を幸せにはしてくれないのだから。

「ごめん」

制服を着た最後の夏が、そっと終わりを告げた。




ドリップパックに沈んでいく黒茶のお湯が、粉を濡らしては香ばしい匂いを部屋中に充満させる。空いた窓から青臭い泥の匂いがした。降っては止んでを繰り返す雨はどっちつかずをまだ続けている。

パックを外しゴミ箱に投げ入れてマグカップ片手にソファーへ腰を下ろす。マグカップに口をつけたら熱くて、思わず口を離しテーブルの上に置いてソファーに足を伸ばし読みかけの本を開いた。自分だけの神様にさよならをするお話だ。

尊敬する人、憧れの人。勝手に崇拝しては裏切られたと感じ攻撃的になって神様だった人を傷つける物語は、馬鹿げているけれど人間なんてこんなものだと言うに等しい話だと思う。

『ラムネの瓶が音を立て――』

たった一文。カランとビー玉が音を立てた気がした。夜の帳が降り始めた夕暮れの色が、カシスオレンジの色をひっくり返したものにそっくりだと気づいたのは大人になってから。あの頃の幻想は現実に結びついていく。

まだ何も知らなかった私が、手のひらに跡を作りながら必死にビー玉を落とそうとしている。

マグカップに再度口をつける。飲める熱さになったそれにはまったのはいつからだろう。あれほど苦くて飲めるものじゃないと言ってたくせに、歳を取れば取るほど苦みを美味しいと思えるらしい。大人が皆、コーヒーばかり飲んでいるのも最初は格好つけだったのかもしれないが、いつしか苦みが旨みに変わってしまったのだろう。

私も、その一人だったりするけれど。

ページをめくっても、ラムネの瓶の描写がどうしてか脳内に残り続けていた。私の人生にずっと、あの夏の終わりがこびりついて離れてくれないからだろうか。ビー玉に隔たれて出にくいラムネのように、過去を飲み干せたら全部忘れられるのかもしれない。

本を閉じ窓の外に視線を向けた。雨はようやく止んでくれたらしい。ベランダの手摺が濡れている。窓に跳ねた泥に、拭くのが面倒だと思いながら再びソファーに身体を預けた。

目を閉じれば炭酸の音が聞こえる。シュワシュワパチパチ。弾ける度に思い出を泡のように消していく。こびりついていると思ってたくせに、よくよく思い返せば半分以上が色褪せて消えている。声も顔も、どんどん薄れていく。それでいいと思っているのにも関わらず、消えて欲しくないと願っているのは人の性だろう。

私は私を幸せにするために生きたいのに、私を幸せにしてくれない思い出を今でも大切に頭の中に仕舞い込んでいるなんて馬鹿みたいな話だ。

ああでも。きっと幸せだったのだろうな。終わるまでの瞬間全てが輝いていて、些細な日常が幸福で満ちていた。指先一つ、触れるだけで全身が熱くなる恋なんて、もう一生味わえそうにない。

だって大人になってしまった。身体接触なんて今更だ。指先一つでときめいていたら利用されて捨てられる可能性が格段に上がるだけ。もっとずっと先まで経験したら、指先一つで照れることなど出来なくなる。

でも。

テーブルの下に置いていた箱を開ける。コロン。音を立て落ちてきた水色のビー玉が白いカーペットの上に転がった。

「いつまでも忘れられないのはこれのせいかも」

あの時自分から言葉を口にしていたのなら。少しは何かが変わっただろうか。今更何度も思い返しては目を伏せる。どこで何をしているかも分からない人。連絡先はあるものの、一生送るメッセージがないであろう人。優柔不断で何も変えようとしなかった結果終わった恋路。

今ならどうなるだろう。考えても仕方ないことを時折考えてしまうのは、人である故なのだろうか。

「くだらないね」

ビー玉を拾い、親指と人差し指でつまんではガラス越しに世界を見る。広くはないけれど私の楽園になった部屋に、あの頃の思い出はこれ一つ。ビー玉越しに見るという子供のような遊びをしていると、不意にスマートフォンが震えた。

メッセージの差出人はガラス越しでは分からない。仕方なくビー玉を握り締め視界を元に戻した。

差出人は君だった。驚き過ぎてメッセージを開けることを躊躇った。けれどそこに書かれていた一文に、私は噴き出し呆れ笑いをしてしまう。

「何だそれ」

思い出は、目尻から零れ落ちた涙と共にまた移りゆく。


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