記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画「コクリコ坂から」で生徒たちが残そうとしたもの


映画「コクリコ坂から」で、生徒たちがカルチェラタンの存続にこだわったのは、なぜでしょうか。その意味について思案している中で、私の大学時代のことが思い出されてきました。

京都大学(旧)学生集会所

私が京都大学に在学していた頃、キャンパスの片隅に、「学生集会所」という建物がありました。現在は取り壊されて面影はなくなってしまいましたが、当時はまだ現役で、音楽関係サークルの部室(私たちは「BOX」と呼んでいました。)が集っていました。私が所属していたサークルの部室も、当時はその一角にありました。

当時の学生集会所は、100年以上の歴史を刻んできた木造の建物で、決して快適といえる環境ではありませんでした。

ただ、サークルの活動時間外に部室を訪れると、過去の演奏会のCDを聴きながら上回生が当時の思い出を語っていたり、たわいもない話に盛り上がっていたりと、そこには、学生時代ならではの穏やかな時間が流れていました。

当時の学生集会所は、利用時間や利用方法にルールはほとんどなく、まさに「自由の学風」が体現された場所でした。深夜までお酒を交わしながら談笑にふけっていても、だれにも邪魔をされることはありませんでした。

学生集会所の歴史は、明治44年にさかのぼります。当時の大学総長の演説によれば、学生集会所は、総合大学として異なる専門を持つ学生たちが一堂に会して知的交流を行うことを目的とした場であり、無償貸与とし、課外活動のほか、飲酒や遊戯(囲碁、将棋など)も禁止しないことが謳われていたそうです。

開館当時の理念が、100年の時を経て、学生たちに脈々と受け継がれていました。

カルチェラタンと学生集会所

学生集会所は、まさに、映画「コクリコ坂から」に登場するカルチェラタンさながらでした。古びた木造の建物、そして、混沌とした雰囲気は、作中のカルチェラタンを思わせるものでした。

私が学生の頃、カルチェラタンと同様、学生集会所をはじめとする学内のサークル棟について、取壊し計画が進められていました。大学側からは、取壊しに伴って新しい施設が割り当てられる案が当初から提示されていました。ただ、一部の学生から、(部室の利用条件が改悪されることで)大学からの締め付けが厳しくなってサークルの立場が弱くなるのではないかとの意見が呈されて、長年にわたる大学・学生間の交渉に発展しました。

形は違えど、カルチェラタンの存続を巡って生徒たちが直談判に向かう姿は、学生集会所の当時のことと重なるものがありました。

学生集会所は、私が大学を卒業した後、正式に取壊しが決まりました。今では、当時の面影はありません。

時代の流れの中で老朽化された建物が取り壊させるのはやむを得ないことですが、思い出の場所が姿を失ってしまったことには、物悲しさを覚えます。

カルチェラタン取壊し反対運動の意味

さて、映画「コクリコ坂から」の中で、生徒たちがカルチェラタンの取壊しに反対し続けたのは、なぜでしょうか。

合理的に考えれば、カルチェラタンが取り壊されて新しい建物に置き換わったほうが、課外活動も充実するはずです。それにもかかわらず、生徒たちは、カルチェラタンの存続にこだわりました。

カルチェラタンは、生徒たちが、教員からの干渉を受けることなく、自由に学び、交流し、精神的な成長を遂げられる場であり、「自由の校風」を象徴する存在です。そして、カルチェラタンがそのような存在であり続けられるのは、何よりも、諸先輩がカルチェラタンの理念を継承し、守り続けてきたからであろうと想像されます。

カルチェラタンの取壊しは、そのような諸先輩が継承し続けた「自由の校風」の理念を、教員からの干渉によって失うことを意味していたのであろう、と感じました。

カルチェラタンをみんなで掃除した意味

物語の中盤、生徒たちは、カルチェラタンの存続を訴えるために、館内の大掃除を始めます。

これは、「きれいになれば取壊しの判断を考え直してもらえるかも?」という子どもながらの安易な考えによるものでしょうか。決してそうではないと思います。

生徒が団結してカルチェラタンを掃除することで、「自分たちの力でカルチェラタンを守っていける」ことを教員たちに伝え、「自治の精神」を訴えたものであると感じました。

それまでのカルチェラタンは、生徒それぞれが好き好きに利用し、ただ混沌とした場所でした。ここでいう「混沌」とは、ただ散らかっているというだけではなく、精神的にもお互いが共通理念を失ってしまっていた、という意味です。

大掃除は、ただ散らかっている状態を解消したのみならず、「カルチェラタンを存続させたい」という共通理念のもとに全員が団結し、精神的にも混沌とした状態を解消したことを意味しているように感じました。

カルチェラタンを大掃除して、直談判の末に取壊し計画を撤回させた生徒たちは、「自治」を獲得し、教員から干渉を受けることのない「真の自由」を獲得したのだと思います。

真の自由が失われた現代社会

現代社会は、インターネットが普及し、自由に好きな意見を発信できるようになりました。ただ、これを「真の自由」と呼んでよいかは、疑問があります。

私たちは、インターネットで情報発信する際に、「炎上しない無難なことを書いたほうがよいかな」「Googleの順位が上がりやすいネタを発信したほうがよいかな」など、社会やデジタルプラットフォームの強大な力に翻弄されています。

また、現代社会では個人主義が加速し、「一致団結して自由を獲得する精神」が軽視されています。

日常の場面においても、オンラインサービスを利用する際には、知らず知らずのうちにプロファイリングされ、リコメンドなどの様々な機能を通じて自分の趣味嗜好を決定されて、選択の自由を制約されています。

私たちは、無意識のうちに、「真の自由」を失ってしまったのかもしれません。

金曜ロードショーの放送はまもなく

本日9時から、金曜ロードショーで「コクリコ坂から」が放送されます。在りし日の学生集会所の思い出に浸りながら、改めて鑑賞したいと思います。

事務所サイトで執筆したコラムの紹介

所属する法律事務所のWebサイトで、法律に関するコラムを定期発信しています。ぜひ、こちらもご一読いただければ幸いです。noteでは、事務所サイトでは取り上げづらい個人的見解や、日々の業務とは離れた社会問題への考察を主に発信しています。

ITベンチャーなどビジネス向けの最新テーマを主に取り上げたサイト「Web Lawyers」はこちら

身近な日常の法律テーマを主に取り上げた事務所公式サイトはこちら


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集