東浩紀さんの「弱いつながり」を読んだら、ずっと嫌いだった「観光」を好きになった。
観光という言葉がずっと嫌いでした。
観光というと、そこに住んでいる人の生活も文化も理解せずに、土足で踏み込んで、なんとなくわかった気になって帰ってくる。
何を得るわけでもなく、何か変化するわけでもなく、ただ行って帰ってくるだけ。そんな観光になんの意味があるのかわからず、ずっと嫌いでした。
この観光嫌いの考え方を、揺さぶってくれたのが、東浩紀さんの「弱いつながり」という本でした。
2015年の紀伊國屋じんぶん大賞に選ばれた一冊で、検索ワードという身近なテーマをもとに、SNS時代の人生論を伝えてくれる、自己啓発のような、哲学書のような本です。
この本の中で、東さんの考える「観光と哲学の関係」には驚かされました。
「哲学とは一種の観光である。」
観光客は無責任に様々なところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去って行きます。
哲学者はそのような観光客に似ています。
哲学に専門知はありません。哲学はどのジャンルにも属しません。それは、さまざまな専門をもつ人々に大して、常識外の視点からぎょっとするような視点を一瞬なげかける、そのような不思議な営みです。
観光には、自分を変化させる力があるということです。
ここでいう観光は、なにも哲学的な用語ではなく、特別な意味もなく、観光です。旅行で京都・沖縄・北海道・アメリカ・中国にいく。まさにその観光です。
観光で自分を変える、ということは、一人で行った方がいいとか、貧乏旅行した方がいいとか、ユースホステルに泊まって旅人と交流をした方がいいとか、そう思うかもしれません。
しかし、そんなことは一切必要ありません。
ただ、行けばいいのです。泊まりたい良さげなホテルに泊まればいいし、地元の名産と言われているものを食べればいいし、(実は現地の人は食べないとしても)観光地で写真を撮ればいい。
特別な「観光」スタイルは必要ありません。ただ、行けばいいだけです。
軽薄で表層を撫でるだけのこの「観光」がなぜ自分を変化させるきっかけになってくれるのか。
昔ながらの「自分探しの旅」や「バックパッカー」ならまだしも、ただの「観光」にそんな力は本当にあるのか、そう思うかもしれません。
その理由は、「かけがえのない個人」など存在しない、からです。
「かけがえのない個人」というものがあるなら、「自分探しの旅」に出てインドで貧乏旅行をして、一人で世界一周をして、見つけることができるかもしれません。
でも、そんなものが存在しないとしたら、自分を変えるために変えるべきは、環境です。私たちは環境に規定されて生きています。
とは言っても、住む場所を変えるとなるとそう簡単には、そう頻繁には変えることができません。でも、観光なら、週末だけでも、夏休みの数日だけでもできてしまいます。
そして、この気軽で軽薄で、表面的な移動が、自分を変えるきっかけを作ってくれるのです。
私たちの日常生活は、ほとんどがスマホとパソコンと共にある生活です。そして、そこに表示される情報は、最適化されたものです。Yahooニュースも、Googleの検索結果も、SNSのタイムラインも全てが最適化されています。
その情報を毎日摂取しながら、私たちは生活をしています。思考しています。判断・決定しています。
この状態を脱するために、どうすればいいか。それは検索ワードを変える必要があります。検索ワードを変えれば、検索結果が変わります、アルゴリズムが変化します、タイムラインもニュースも。つまり、見えてくる世界が変わります。
この環境の変化によって、自分が変わるのです。
とは言っても、私たちは、知らない言葉を検索できません。検索できるのは、知っている言葉だけです。当たり前ですが。この検索ワードを変えるために、必要なのが移動であり、観光です。
観光をする=移動をする、それによって、検索するワードが変わります。東北地方の土地の名前を調べるかもしれません、名産と言われた魚の名前を調べるかもしれません、知らなかった風習を調べるかもしれません。
そうすることで、普段の、SNS・グーグル検索・あらゆるアルゴリズムにノイズを混ぜることができます。
その結果、見ていた情報が少しだけ変わります。知らなかった世界のほんの一端が見えてきます。ここに、自分が変わる可能性があります。
「観光」はとても軽薄に見えます。見えていました。しかし、そこにこそ、現代らしい新しい生き方がある。自分を軽やかに変えていける可能性がある。
観光したい、そう思えるようになりました。