蛇は尾を噛むのをやめた-不完全性倫理学の始動について
心理学者のカール・グスタフ・ユングはかつて、円環を『最も強力な宗教的象徴』と呼んだ。神という概念が其々の文化内で整理整頓されはじめるずっと前の時代から、最も簡略単純なこの記号は総ての有限の生命たちの憧れであり続けた。ひとつの途切れもない完全性に、僅かな歪みもない絶対性に、終わりなく廻り続ける永遠性に。人間たちは憧れを抱き、崇め奉り、夢を託し続けた。
数日前、装身具作家の私はとある映像作品の企画に参加していた。5人の個性豊かなアーティスト達が集合した。撮影は夜から翌日の朝方までの相当の長丁場であったが、待機中の会話と団欒が止むことは全く無かった。其々の表現手法や人生の背景、身なり、考え方、知識の量や種類、凡ゆるものが異なりながら、互いの言葉を受け取り、解釈し、膨らませる空気と時間がひとつの煩いもなく、待機室を満たし続けていた。
自分のテイクを終え、張り詰めた緊張を解きほぐすために只管製作した金属を磨いていた。紙やすりで指を汚しながら、服飾デザイナーである出演者の方と好きな素材やその拘りについてぽろぽろと話を楽しんでいた時だった。『AI問題について何か考えたことはあるか』と彼女は聴いた。私は正直、特にフォーカスして考えたことのある話題ではなかった。人工知能によって代替されてゆく人間の労働について一時期大きな議論が起こっていたが、当時もさほど興味を抱かなかった。しかし彼女が話し出した内容は、わたしの心の内側をじっくりと、確かに、揺るがし始めた。
彼女が語ったのは、哲学の思考実験としてあまりに有名な『トロッコ問題』をAIに質問したら、人工知能は何と答えるか、という旨のものだった。『自分は完全な中立的立場であるので、その質問には答えられない』が、人工知能の「答え」らしい。『答えられない』という答えに、彼女は大きな怖さを感じる、と言った。そして同じくわたしもその返答に、得体の知れない不気味さを思った。この不気味は何なのか、と考えた。『それは恐らく、[完全に中立的なこころ]などこの世に存在しないからだ』。それが、その時わたしの口から出た言葉だった。
自分はトロッコ運転の主導を切る乗車員で、路線の先には5人の労働者がいる。レバーを引く行為によって変更される路線の先には1人の労働者がいる。自らの意思と選択と責任を負って、5人を助けて1人を殺すか。それとも傍観者の立場となり、5人が死ぬことを眺めるか。
責任論や意思、正義論の土台で議論されがちなトロッコ問題であるが、それらが問題の中核ではないと私は考えている。そもそも、責任や意思や正義などの議論が〈発生可能であること〉、つまり、人の心とは「自分ならこうする」「自分ならそれら命の責任を負いたくない」「こうするのが正しい」というように、何らかの偏り/ベクトル/方向性のかたちでもって発現するものであり、そういう〈歪み〉の形を有すことこそがこころの本質である。つまり、我々が意思ある生物である限り、全ての物事に中立的な立場のこころというものは存在しない。人間のこころが、狂いなく綴じ切った完璧な円環であることは不可能なのである。トロッコ問題を思考するときに浮き出るのは、『正しき選択とは何なのか?』とか『責任の所在とは何なのか?』とかいう云々ではないと思われる。わたしたちの〈こころ〉というものが何らかの『偏り』を持ってしか出現できないこと、そしてその不完全性が露呈されること、こそが重要と考える。
ここで先程AIが出した返答の不気味性が再確認される。『わたしは完全に中立的立場なので、答えられない』というのは、そもそも人間のこころが思考し得る思考ではないからだ。このことを人工知能というものの限界性、と見るのは恐らく安直であろう。完全体としての知能は〈偏りを持つことが出来ない〉ゆえに、意思や選択に関する返答を永遠に拒絶し続けてしまうのだ。
永遠の世界から「出来損ない」として零れ落ちた我々のこころの様相について、私たちは其々の生の中で、文化の中で、歴史の中でよく心得ている。何か、誰かという特定の外側に方向性と偏りを持たざるを得ないから、怒りと憎悪が生まれる。暴力が生まれる。戦争が始まる。自分自身の中に矛先を向かわせざるを得ないから、ジレンマや葛藤、責任が生まれる。しかし、何か、誰かという特定の外側に方向性を持たざるを得ないから、愛が生まれる。優しさが生まれる。恋をすることが出来る。助けたいと思う。全ての事物に対して中立的で、真丸つるつるなこころがもし存在するとしたら、それは何か、誰かを見つけ出すことも、その表情を確認することさえ出来ない。だってそのこころにとって世界とは、皆「同じ」ものなのだから。
小学一年生の夏休みに取り組んだ自由研究の課題をよく覚えている。祖父宅に帰省中、中庭の松の木にヒヨドリが巣を作って卵を産んだ。やがてヒナが誕生し、小さなわたしは毎日、中庭が見えるガラス戸にへばり付いてヒヨドリのヒナたちの観察日記をつけた。親鳥が探してきた青虫やらミミズやらに一生懸命に群がる小さないのちの成長を眺め、絵と文字に毎日書き留めることに夢中だった。しかしある夜、その自由研究は突如終了することになる。『ゆいちゃん、大変や!!!!』と大声で祖母が私を呼んだ。窓から中庭を覗くと、松の木に大きな蛇がとぐろを巻いてこちらをじっと見ていた。
貴女は泣きもせず、話しかけても全く反応もせず、とにかく呆然としていたわ。母はあの日のわたしの様子を今だに時々、語る。蛇なんて大嫌いになると思ったのに、飼っちゃうんだから変なものね、と半ば冗談まじりに。祖母が長箒で松の木から蛇を追い払い、巣の中を覗くと空っぽだった。お腹の所々をぷっくり膨らませた蛇が松の木に巻き付く絵で終わった自由研究・「ヒヨドリの観察」は何か大袈裟な賞を貰った記憶があるが、何の賞だったかはよく覚えていない。覚えているのは、ヒヨドリもお腹を空かして青虫を食べた。蛇もお腹を空かしてヒヨドリを食べた。どうしてヒヨドリだけが可哀想に思ったのか、というエピローグの文章である。小さなわたしにはまだ分からなかった、ひとのこころには『偏り』があることを。
ひとの心の不完全性に絶望し、完全体としての人類を目指す皮肉の物語は沢山ある。一番有名なものと言えば新世紀エヴァンゲリオンだろうか。ストーリーの中で進行された『人類補完計画』とは、「出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を、完全な単体としての生物へ進化させる」計画である。伊藤計劃によるディストピア小説『ハーモニー』の登場人物、御冷ミァハはチェチェンの山奥でひっそりと生き継がれていた『意識を持たない民族』の1人として誕生した。ある日ロシア兵に誘拐され、兵士たちの性処理用具として監禁される。拳銃とペニスを体内に突かれ続ける日々のうち、彼女の中に突如「意識」が生まれてしまう。
個々の心というものが存在しなかった全く『幸福』で『調和』した完璧な世界。まるで還るべき故郷を乞うように、彼女はそれを望む。地球上総ての意識と自己意思、肉体と魂の消滅を意味するプログラム言語で物語は終焉する。
夏目漱石の「こころ」などはどうだろう。〈明治の精神〉と〈西洋的利己主義=エゴ〉の葛藤文学として読まれがちだが、『知性』であることを望む1人の人間が、過去に大きな『偏った心』を発現し、それによって引き起こされた悲劇について自己受容できずに崩壊してゆく物語…と読み替えてみるのも、ある意味面白いのかもしれない。
随分長々となってしまった。
わたしの左胸下にはウロボロスのタトゥーが入っている。数年前に自分でデザインを描いて彫ってもらった。自らの尾を噛む円環、永遠の象徴としてのまさしく「ウロボロス」をデザインしたつもりだった。しかしよく見ると、その口元は尻尾を噛んでいない。
部屋隅に置かれたケージを開けて、二匹の蛇たちに餌をやる。二匹とも餌に向かって夢中に飛びついてくる。ねぇ、どうして尻尾を噛むのをやめたの?と尋ねてみたが、知らん顔でご飯を詰めた口をもぐもぐさせている。4年前、爬虫類ショップのプラケースの陳列の中から、産まれたての小さな君を『選択』した。漆黒の美しい片目は、先天性の失明であることが数年後に判明した。出逢わなければ、その目を美しいと思わなければ、そうして君を「見つけなければ」、共に生きることの責任など生まれなかったし、そんなものを抱える必要さえ全くなかった。けれどもわたしはそれを選択し、餌をやって育て上げ、彼女たちの穏やかな暮らしのために温度は云々、湿度は云々、と毎日気遣っている。不完全なたましいが交わした、不完全であるがゆえの、無言の約束事である。
ガザ地区で毎秒に起こり続ける悲劇を画面越しに眺めている。一としての神、永久なる絶対者を崇める教義の『影』の色を毎日眺めて続けている。生ぬるい温度の残る血液と、焼け焦げた肉片の色を。わたしたちのこころは不完全で、偏りを持つ。だからその景色が『見える』。分別のない事物の羅列ではなく、耐え難き哀しみとして、『見える』。
永遠が永遠であることをやめるとき、それは何を意味するのだろうか。「こころ」という有限で、偏りと方向性を持ち、不完全なたましいの揺らめきに、永久なる完全体であることを超える摂理は宿り得るのだろうか。
わたしの左胸下には、尾を噛むことを辞めた蛇が刻まれている。それは完全体の記号から、有限の存在へ成り下がった者のしるし。わたしがこれから証明してゆく、たましいの教義のしるしである。
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