映画館に向かう途中で『哀れなるものたち』を観るのを辞めた訳
『観てないのに/読んでないのに批判をするな』とはよくある文句だと思う。しかしそれは、自分が触れたくないものについて言語化すること/しておくこと、とは全く別次元の話であると私は考える。批評家の仕事でもしているなら別だけど、1人の人間が受容し、咀嚼可能な世界には限界がある。そしてわたしたちは、自分がその身体のうちへ受け入れる世界について、選び取る権利がある。
元々映画を積極的には観ない人間である。視覚的イメージへの感覚が結構敏感なため、「映像」という形式で脳みそに情報を流入することに結構な疲労とパワーを要するから。けれども去年、映画のチケットを随分安く買える立場になったのもあって、もう少し「映像」という文化に触れる回数を増やしていこうかな、と考えた。これと言って観たい作品がある訳ではなかったが、何やら周りでは日本公開直後の『哀れなるものたち』が褒め称えられていた。カットを眺める限り、美術も良さそうだなぁと軽い気持で外出し、映画館に向かう前に喫茶で休憩を摂っていた。あらすじくらいは確認しておこう、と公式サイトを開いた。
そこには身籠った身体のままで身投げした若い女性が風変わりな脳科学者によってその腹の中の胎児の脳を移植され、大人の女性のかたちをした幼児として生まれ変わり、純粋無垢な子供の心で自由を求め、世界を冒険しながらハイスピードに成長する…という概要がさらりと書かれていたが、何やら注意事項として過激な性描写と年齢規制が付されている。少し調べてみると、彼女の「冒険」とは性快楽への気付きが起点となっているらしい。つまり性的快楽にまつわる凡ゆる文化規制や解釈、コントロールに無知なまま、〈欲するまま〉の態度で外の世界に飛び出す彼女の存在とは当然、欲望の構造に都合よく絡め取られ搾取され続ける。要するに、主体的選択のつもりで快楽を解放し続けては変態男たちの罠に嵌り続ける=〈無知〉〈幼児性〉の女性が、経験や知識といった〈学び〉を通してどうやって自分が本当に望む性の主体性を獲得してゆくか?というフェミニズム的な意図のストーリーらしかった。
ここまで情報を得たところで、映画館に行くのをやめた。それはフェミニズムの表現としては失敗だ、と思ったから。そして、そういう世界を過激な描写で脳内に焼き付けられては堪らない気持になってしまう、と思ったから。
知的成長や経験の重要さを端的に説くのは間違いではない。けれども、今現在も刻々と進行中の社会の搾取構造の中でその重要性を唱えるのは余りに危険だと思う。自由や主体性の糧として知恵や経験を上げるとき、その逆側で浮かび上がるもの。それは、『搾取されること』の原因を無知さや幼児性、経験の浅さや知識の無さに還元してしまう事である。フェミニズムの目的とはむしろ、知恵や経験を自主的に獲得するのに難しい環境下に置かれ、零れ落ち続けてしまう女性たちを救うことではないのだろうか。
具体例として、知的障がいを抱える女性が自覚できないままに危害を加えられ続け、悲惨な状況になってから状況を把握される事例とか。経済的な困難から学校に通えない/公共施設へのアクセスさえも知らないまま〈無抵抗に〉性産業の中で生き続ける少女たちとか。自由の原因が知識や成長といった概念に紐付けられてしまったとき、今まさに救われるべき多くの女性たちを逆に救うことが出来ない。自由への希望とは、其々の人間の主体性の中に委ねられていてはならない。フェミニズムの目的とその根底とは元来、社会と構造の側が責任を負っていなければならないものだと思う。
エンドロールの付近には「わたしは新しい自分とクリトリスを大切にする」という主人公の絶叫と、どんな困難の中にあっても本=知識を手放さない彼女の描写があるらしい。知恵の獲得によって完成される性の主体性、女性の自由は確かに、存在しては良いと思う。ただ、その解釈が取りこぼし続ける人間たちのことを考慮したことはあるのだろうか。そしてその者たちこそ、フェミニズムの本来の目的として定められている者たちではないのだろうか。
否定的な感想が周りに殆どないゆえ、こういうことを書くのは正直、若干怖気つく。
ただひとり友人が『疲れた、これを自由と履き違えるのは間違いだ』とだけ吐き捨てていた様子を伺って、やはりあの時、観なくて良かったな、とは思っている。
配信元がディズニーという事もあり、イスラエルへの軍事支援事業を拒否する人々がこの映画にノータッチであるのも一つの理由かなとは思う。恐らくこのストーリーに疑問を投げかける可能性があろう人々は、観る/観ないの選択の余地にすら立っていない。
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