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残り火に燃える: つか子と「あの人」 [ 1 ] 東京
「つか子はやさしいから。。。」それは褒め言葉でなく、母のまなざしはやさしいあまり自分を失ってしまうだろうつか子を気づかっていた。
第一章
TOKYO - PHILADELPHIA - POKHALA - NOVA SCOTIA
東京ーフィラデルフィアーポカラーノバスコシア
春浅く
TOKYO
1
「つかちゃんはよく泣いたよね。近所中に聞こえるくらい」幼なじみがそう言う。その泣きむしは大人になっても直らなかった。
「かわいそう。。。」と思うとすぐ涙が出る。うれしいことのあった人の話を聞いても泣き小説や映画の愛情あふれる場面では涙がとまらない。
感情過多。そのせいでかいろんな男にすぐ惚れてしまう。この移ろいやすい頻繁に訪れる惚れる感情と、つか子の心の深いところで繋がった愛情と両方とも溢れるほどあるのだから手にあまる。
その一方で、「ああ、また、つか子の『でも』が始まった」人の話を黙って聞く代わりに「そうは言っても、そうとは言えない。。。」と理屈をこねる。これは女の子は素直が一番という時代、目立った。
つか子は団塊の世代。戦争が終わり兵士が戻り大勢が生まれ大勢で育った。雑多に。戦前戦中に大人になった教師たちは次の世代の教育をどうしたら良いのか模索中だった。そのせいか学校での規則はずいぶんとあっても、くぐり抜ける道も見つかった。
朝礼で真っ直ぐならんで一列に「行進」するのだが、つか子は身体を列からちょっと外れたりしてみせた。「みんな一緒にきちっとする」のが苦手。大人になるずっと前からなぜか「期待される行動」をしたくない自分に気づいていた。でも目立つのもいや。こんなつか子なので、無意識のうちに、楽に自分が自分でいられる場所を探してきたのだろう。
2
16歳の時、初めて日本の外に出た。カリフォルニアの農家で一年間のホームステイ。
空港まで見送りに来てくれた人たちは口々に「つかちゃん、今のままでいてね。アメリカナイズされないで帰ってきてね」と言った。ただその中で一人父親の「何でもこわがらずに、とことん体験しておいで」と言う言葉がつか子の胸に残った。
パイが美味しいボイセンベリーの農家。二人の姉妹がいて、姉の方が同じとき日本の家庭で住んでいて、つか子は妹と一緒にスクールバスで町の高校へ通った。春になると近所の果樹園の花々が濃かったり薄かったりの桃色で通りの両側を飾る。夏には道沿いの溝で泳いだ。春学期になってバスのルートが変わり、17の教会のある美しく整った町の外には貧しい地域があるのも知った。
第二次大戦中、収容所に送られた日系人が10万人を越すカリフォルニア。その戦争の深い傷から19年、この高校ではつか子が戦後初めて日本から受け入れた留学生だった。米国は再び戦争に介入していた。
同い年の陽気なクラスメートと、一学年下の可愛らしいガールフレンドとの間に子供ができて、学年の途中で結婚して親になり、そのまま高校生活を続けているのにつか子は驚かされた。校長も、教師たちや事務職員まで一同サポートを惜しまずに彼が無事卒業するのを見とどけた。つか子が帰国してまもなく、このクラスメートは卒業するとすぐ兵役に取られ、ベトナムでその翌年に戦死したことを伝え聞いた。まだ幼さの残る妻とも母ともなったガールフレンドの嘆きはつか子の想像をこえる。
3
20代。
「あの人」に出会ったそのとき、つか子は自立しようと懸命になっていた。一緒に住んだカレと離れて生まれて初めて一人でアパートに移ったところだった。
それができたのは、つか子が女解放のリブに出会ったから。
つか子の理解では、リブは激しい学生運動の中から生まれた。命をかけてでも社会を変えようと言っている運動体の中、デモをかける男たちの周りで、女の役割が台所やベッドルームで男の世話をする。。。といった人格の根本に触れる矛盾。そんな矛盾に目を向け挑戦 し、これは自分たちの求めている社会改革じゃないと女たちが主張する。
現今社会にまかり通っている慣習を一から疑い、身体ごと、自分の芯 に誠実な生き方を選ぶ。つか子はリブのおんなたちからものすごく大きな影響を受けた。目立つのを嫌い、おだやかに見えるつか子の外見からは想像できないほど、つか子の内側には大きな変化が起こっていた。
リブセン(リブ新宿センター)に初めて行ったとき自分の生き様がそこで出会う誰よりも冴えないだろうと思い、「生き方なっちゃナイ!と罵倒されるかと心底こわかった。ただ通い出したら、出会う女たちみんなの抱えている「お荷物」は自分にも身に覚えがあり、自分の「荷物」も他のおんなたちと共有できるのがわかった。生きていく上で「何か」を必死に求めてた当時のつか子、型破りで強烈、ものすごくあったかいおんなたちに囲まれたのはこの上ない幸運だった。この幸運はリブセンを離れ国を離れてからのつか子の人生の浮き沈みにまるで玉手箱の贈り物ようにずっとついてきてくれた。
おかげで、他の人から見た良き人生でなく自分の思うような人生を生きたいという願いが強く生まれた。それが20代で両親を嘆かせ心痛を与えることになった。同棲 したカレの家を出た時のことだ。そもそも日本の結婚制度そのものが女性差別につながっているのだから、結婚式とかできないと言って式などせずに一緒に住み、あげくにその家を三年後に出た。
そうして、つか子が移ったのが、渋谷の中心街からほんの少し引っ込んだ、びっくりするくらい静かな通りを曲がったところにある畳敷きの四畳半。トイレとほんの付け足しの小さな台所。風呂は無論ない。気持ちの良いぐらい簡単な住まい。
生まれて初めての一人暮らし。ほとんど誰にも知らせなかった、秘密のすみか。自分が見つけて、自分で決めて、自分で引っ越してきた、というと威勢 がいいが、実は、とことん正直になる瞬間には、カレがどのステップを取っても手助けを惜しまなかったことに思い至る。カレだけじゃない、何人もの友人にお金を借りてようやく実現した夢だった。数日間は都会の片隅にたった一人きりでいる自分に興奮して、夜、天井を見つめるばかり眠りはやってこなかった。
親の保護下でなくカレが守ってくれるのでもなく、つか子一人で歩きたかった。。。ただそれだけの理由で。。。
移ってすぐ近所の銭湯 に行ったら、12、3歳ぐらいの少女が、背中を流そうとする母親に「自分でする!」とむっとして言っていた。母親は「あんた一人では、うまくできないよ」と言って、そのまま少女の背中を流し続けた。「うまくできなくても良いもん」そう言いながら、顔を真っ赤にして不服顔で少女は体を固くして抗議していた。
そうなんだ。うまく出来なくて良いの。ただ自分の手でしたいんだ。
この引っ越しを後から電話一本で聞いた家族は、想像以上に反応が大きかった。ものすごく驚いたらしい。つか子が当惑するほど。
「もしカレとの関係がうまくいかなくなって、出なくちゃいけなかったのなら、なぜ一言いってくれなかったの。言ってくれさえすれば、家に戻ってくればよかったのに。。。なぜ、都会の真ん中で、若い女が一人住まいしなくちゃいけないの。家族がいないわけじゃなし。。。」
結局、「もう家族の縁 を切ります」とまで言われた。実際、これからしばらく家族に会うことはなかった。
そんなことではなかったのに。ただ自分の力で生きたかったんです。うまくできなくても、自分の背中は自分で流したかった。
3
リブセン・ドテカボ一座の放 ったミューズカル『女の開放』の田中美津さんによる歌詞(新)パワフルウィマンズブルースに:『たまたま、日本に生まれただけなんだヨ〜。たまたま、プチブルに生まれただけなんだヨ〜。たまたま、おんなに生まれただけだヨ、だけだヨ』がある。
ここで知った「たまたま」という世界観にはつか子は頭をなぐられたような衝撃 をうけた。自分が自分でいるのは、血のつながりとか血統とかじゃない、ほんの「たまたま」つか子はつか子なのだ。目から鱗 が落ちた。。。という表現があるが、つか子にとり「たまたま」はそれだった。つか子は考えた。そうだとすると、つか子がパキスタンの路上商人 であってもおかしくはない。ペルーの農夫であってもガーナの少女であってもいいわけだ。
「たまたま」はつか子が海外にわたるときも、もらい受けた息子たちの母親になったときも、ずっとずっと後も生きる指針になってつか子をひっぱり続けてきた。
4
同じとき、つか子は偶然のきっかけで将来の職業を選ぶことになった。高校留学十年後日本に戻ってきたホームステイの家庭の「姉」に日本語を教えてほしいと言われたのだ。たまたまそのとき日本語教授法という耳慣れないコースができたのを知って、それを取り日本語を教える仕事に就 いた。今ではめずらしくないこんな仕事は、当時はほとんど知る人がいなかった。
女一人都会の真ん中に住んでいることへの家族の心配、理由ともいえない理由で別れたカレのつか子との関係への不安、それを知りながら、それが重くのし掛かる気持ちを自分の心から遠くに押しやって、つか子は大都会で初めてたった一人生きる自分に酔っていた。
表参道の瀟洒 な語学校の建物までアパートから歩いて通った。どこかで耳にした阿久悠作詞の「ニンゲンはひとりの方がいい。ニンゲンはひとりの方がいい。。。泣かなくてすむから」を口ずさみながらステップを踏んでいた。泣いてしまうのは自分だと思っていたつか子。ふり返ると、自分を愛してくれたまわりの人間だったのだろうか。
この語学校では主に20代後半ないしは30代の欧米人、そして少数ながら香港からの中国人、マレーシア、ナイジェリア、サウジアラビアなどからの学生が集まった。
教師たちはつか子のような若い女性が多かった。都会の独立独歩の「強い」女性たち。その意味では、つか子にとっては先輩にもあたる女性たち。そのうちの一人の言葉「朝起きて下着をつけるとき、今夜は、どこで、どんな人と一緒になるかわからない。。。その気持ちの弾 みで、下着をつける。」あからさまな内容につか子の方が赤面した。
言った彼女はほどなく妊娠してその相手と結婚することになって職場を去ったが、その時も「また、戻るからネ」と、現役を完全に退くわけではないということを公言した。彼女の話だけでなく家族の心配は根も葉もないことでもないというのは程なく分かったが、それはつか子を魅了し不安にする材料にはならなかった。毎日の世界が急にぐんと広がった。
語学校だけでは家賃や生活費を払うにも足らないので、個人授業も持った。生 まれて初めて、仕事がない、それは、即 お金がない、それは、即食べられないということなのだというのを経験したのもこの時だった。
惚れっぽいつか子は、次々に惚れた。その人は、ものすごくカッコ良い車を持っていて、車と同じくらいカッコ良かった。そのかっこよさだけに惹かれたというとあまりに浅はかだが、自分に惹かれているつか子を意識して、「今は、誰とも付き合う気がない」「なぜなら」と、その人に打ち明けられた。「彼女がいたのだが、数ヶ月の間、夜中酔っぱらっては、彼女の家に行き、その後、ずっと連絡することもなく訪ねることもせずということを続けていたら、その彼女が苦しさ余って、つい最近、喉をかっ切って自殺を図った」というのだ。幸い助かったのだそうだが、「さすがに今、誰とも付き合う気がしない。」
そういう話を聞いたら恐ろしい男だと距離をおいたらいいのに、つか子は、ふだんのクールな彼からはうかがえない、いくらか辛そうに言う様子になお惚れ込んでしまった。
通い始めた女性解放のグループ、「リブセン」の仲間の一人にその話をしたら、バカな男だというのでなく、女がバカだというのに驚かされた。恋をするなら、太る恋、やせる恋は解放された女のすることではないと。それを聞いて頭では分かっても、感情ありあまりついのめり込んでしまうつか子は、やせる恋をした彼女の気持ちがわかりすぎるくらいわかってしまう。
生涯を共にしようという相手でないのは初めからわかっていながら、つか子は彼にただただのぼせ上がった、男の電話を待つなどということは強い女にあるまじき行為だと知りつつもつか子は我を忘れた。クールを看板にしていたカッコイイこの人が出会って数ヶ月後のある日、つか子の眼にただ人生に疲れた男と見えたのをつか子は日記にこう記した。[彼はまるで砂漠でお金はたんとあるのに、ないと生きてはいけない水がないのに初めて気がついたといったふう。 自分と彼の生き方はまるで正反対で決して一緒になどなれないのを二人とも知りながら、たった今を生ききる上でなくてはならないものを与えてくれる相手だと直感して互いを求め合ったのだろう。] これが二人で会う最後になった。
5
あの人と出会ったのは、東京の真ん中でこうして初めて一人住まいをしながら仕事を通していきなりグンと広がった世界を体験し始めたときだった。
つか子があの人に会う前に愛したカレのこと抜きには話を進められない。
カレはつか子にとって人生に二度は出てこないといった、どこかの神話にある、二人の人間が実は一つの卵が割れて二つになり、世界中に散らばって会えることもあるが、それはマレだと思えるような相手だった。なぜ、そのカレとの家を出たのだろう。
仮に、そのカレはつか子の思ってるように、つか子の卵の片割れだったと想定しよう。昔々の大昔二人は一つの卵だったとしても、いったん二つに割れたなら、もう一度ひとつになるなんてできっこない。だが、それをしようと願うのも人間の人間たるところだ。カレとつか子はそうしたかった。ひとつになりたかった。そうなれないことに気づき始めて苦しんだ。自分がそこを飛び出したい気持ちにかられたことに気がとがめた。
つか子が出なかったら、いずれはカレが出たことだろう。もう息が出来ないほどだったから。実際、カレはカレで自分の人生を自分の相手を見つけた。どちらが先に出るかはそれほど意味がない。当人たちにとっては大問題なのだが。
カレは社会の常識はどうあれ、自分の心に忠実に行動する人だった。つか子が信じるには、カレは常に、英語の表現にある「決まりきった箱(規制/常識)をやぶってその外に出て考えようとする」人だった。こういった資質を持った人だったので、別々の道を歩き始めてから、カレの人生が目覚ましく展開するのを知って、感嘆の思いはしても驚かされることはなかった。カレは仲間をつくり斬新 で地域をこえた社会に広く長く影響を与える運動体を創り上げた。その過程を楽しみながら。
6
カレと別れてから次々に惚れた人は、カレと違い、つか子がひとつになりたいと思うような相手はいなかった。その時のつか子はそんな関係を求めていなかった。
ただそこにある日「あの人」が現れた。克明に綴った日記から「その頃」が蘇ってくる。
[「あなた、やさしいね」] [「うん、ワルイ意味でね」]あの人の日本語は母語でないのが信じられないくらいうまかった。「その通り」それは書いてない。つか子の思っただろう心の中だ。それを読むとその時飲んだコーヒーの味も香りも思い出す。
ページをめくると、どこにももっていけなかった20代の熱い思いがつか子の胸を打つ。
[好き。とっても好き。それで? 好き。そのあとなし]
あの人。。。
人にどう見られるかなんて全く平気で感情をまるごと身体でもってあらわす、今まで会ったこともないそんなあの人につか子はすぐさま惹かれた。一緒にいると身も心もリラックスできて、ふだんセーブしがちなつか子が言いたい放題、会話がポンポンはずんで、ああ楽しい〜、今生きてるっていう感じ。幸せって感じたっていうのともちがう、同じ人間だ、そういう思い。そう、あの人と一緒だとそれまであるなんて知らなかった自由な自分がとび出してくる。会えてよかった、生まれてきてよかった。。。
その後すぐにあの人にはつい半年前から妻がいるということを知った。
[どうして会っちゃったんだろう。。。 ]つか子はうめいた。
[「キライ。大好きだから」]これはあの人。
[わたしはどこに行くのだろう。
抑えてもおさえても爆発してくる思い。
どうしてあの人に惹かれなければならないのか]
このときのつか子は「今の結婚制度は女性差別だ」という考えで自分の生を生きていた。生きようとしていた。それで世間の思惑はどうであれ、あの人が結婚しているのならもう一歩も進めないとは考えてはいなかった。いや、たいていのことは「世間」がこうというならそれに異議を申し立てるかその反対の道を行こうとしていた。
そうじゃなく、会ったことのない、自分と同じ女、その女を一人の男のために苦しめる、その図に耐えられなかった。そう苦しんだことのあるつか子はその痛みも知っている。
女を苦しめる、男をはさんで。それはつか子を打ちのめす。その気持ちを超えるにはつか子は自分の生な感情をころして、狂わなくてはできなかった。つか子は自分が狂えることも知っていた。でも、できなかった。
狂った心は内に向かった。
[自分が火の玉と化してしまっているのを知っている]
[待っている、燃えて、結局苦しむことになる。そして苦しませる。なぜ? あの人に向かって炎エネルギーが爆発したがっている。でもあの人はよその人。あんなに踏むばってきても。。。内心は炎と手足を絶たれた情熱]
[出口がない!]
つか子は「こうしたい」と「こうありたい」の狭間でゆれにゆれた。それでも「こうありたい」を選ぼうとしていた。
他人は「男と女のことだ、男はどうなのだ、男は?」というかもしれない。が、つか子は女の自分が自分はこうするというのは全く自分の問題だと考えていた。そう考えようとしていた。どんな動き方をあの人がしても自分は。。。と日記でいっている。 [ あの人がどう動こうと、私はこう動くしかない。生きるってこういうことと私は思うから。それを選んで生きるしかない。だけど、生きるって悲しいことでもあるって思う。あの人をなぜ好きで、なぜ愛するのか]
[どう生きたらいいんだろう。。。]
[今ゆっくりとじっとしていたい。この苦しさを自分一人で受けとめて。。。]
それでもこんな弱音、本音もはいている。
[会いたいな、一度腕の中で。。。]
[生きるって、たいへんだ]
そうかというと、理想の関係を掲げる。
[こびずに こび合わずに 男と女
オスとメスでなく 出会う 人と人でなく やはり男と女]
そしてまた悲しさにしずむ。
[人の存在は悲しいと思う。一つに自分のおもいがどうにもならないこと、も一つに、溶け合いたい、人間と。なのに、いつまでも厳然と離れている]
つか子の動き方へあの人からのプレッシャーは一切なかった。あるなんて思いもしなかった。あの人が「どうしようかと思ってる」というのにも、つか子からは何の押しもしなかった。自分の方へ引いたりしようなどと思いもしなかった。駆け引きなし。
これはつか子やあの人が特別だったのでなく、時代の落とし子だったからだろう。自立した女も男も自分自身の選択ができる。どんな名前で呼ぼうとも、フェミニズム、いや男女同権は社会の一定の人々の間では受け容れられ始めていた。そして一部であれ、社会には女が仕事をして収入を得、自立独立するのをサポートする風潮が生まれてきていた。
日に何千何万とある女と男の別れに、つか子とあの人が恨みつらみのない別れ方が出来たのはそんな時代のせいでもあったのだろう。
7
だからといって、別れの辛さはつか子を避けて通ってはくれなかった。容赦なし。初めは嵐のように、ときにとび上がるほど胸が痛んだ、忘れようと必死になった。
[「いつかもう友だちとしてもいられなくなるかも、それがコワい」]そう言ったあの人。それが二人だけで会った最後の日になった。
[苦しいな、超えられるけど] つか子はそんなに苦しい時でも、自分が超えられるのを知っていたのだろうか。あの人はそんなつか子、一人で生きていけるつか子を知っていたのだろう、あの人なしでもやっていけるつか子を。
ただあの人に知られないところで、何週間も気力のわかないまま過ごした。
[どこか弛緩してると思う。気力に欠けている。今、逃げ続けてはいけない。。。]
高揚した時には、別れないでも続けられる道も考えてみた。
[生活を分かち合うのでなく、存在のぶつかり合いとして。。。]それができないのはそう思ってすぐに気がついた。愛してる二人が互いと関わるのに一部分だけなんて、それは全くないと同じくらい辛くとうてい出来ることではない。あの人にしても同じだろう。半分だけなんてそんなうそっぱちの人生は送れない。
そのあげく、20代のつか子にこう言わせた。
[拒否して生きる孤独]
[会わなくなって数ヶ月経っていても あの人のことを思わない日はない。。。]
[一つの思いを生きようとするとき、それは時に厳しすぎてウソになってしまう] 心のどこかではウソと知りつつ歩を進めたつか子。
残ったのは[見果てぬ夢。。。]
そしてある日、つか子の胸で暴れ回った怪獣はおとなしくなった。。。嵐はおさまった、かのようだった。
その静まった嵐はただずっとずうっとつか子の胸の底にたまって静かに息をし続けた、何十年も。
それがある日いきなりつか子の目の前にあらわれた20代の日記で、長いあいだ眠っていた思い、心の底の叫びが呼び覚まされた。
そうしていったん蘇った記憶はつか子を離してくれない。
今、そのときの熱い思いが再び芽を出して自分を呼んでいる。それに応えようとしている自分。。ただすぐ近くにあの人を感じたい。
ほんとのほんとを言えば、天にものぼるほど楽しいだろうと想像するのは、中華街かなんかでいろんな店を二人で冷やかしながら歩きまわり、通りがかりの喫茶店の前であの人が「入ろうか」とつか子をさそってくれる瞬間。そしてお茶を飲みながら[「時間がない時間がないって言ってるうちにもう10分たっちゃったヨ」]って、マジメなときにも、人生何でもけっこう面白いといったふうにあの人が軽く言ってくれるとき、そうそっくりあのときのように。
うそでもいい。いや、ウソがいい。
そんな何でもない一日を過ごしたい。あの人の家族のことも自分のしたこともしなかったことも何もいらない。むずかしいことなんて一つもいらない、何の屈託もない二人でただあったかい一日を一緒に過ごす、それがほしい。
遠い夏につか子があれほど欲しかった日のように。
8
あの人がつか子の前を去って数ヶ月のある日。
[朝靄と霧雨、みどりとつつじの花の中、朝の光の中を歩いてくる。。。] あの人。[どこかきれいすぎてる、整いすぎてる。。。] 息ができないとあがいていたつか子、そんな自分をもてあましていたつか子は胸の内で泣いた。つか子はあの人に崩れていてほしかった、自分よりもっともっと崩れていて欲しかった。
あの時だって、胸の内でなく、大勢の人の通る往来であの人に抱きつき大声あげて泣くことができたのなら、
つか子は身と心が一つになった自分を生きることができたろう。
あの人にも往来の人たちにも「抑えることのできない愚かな女」と見下されながら、
そうやって、はんぱじゃない、丸ごと全部のつか子。生なつか子を生ききれたなら、
自分の中のウソとまことの違いが見えただろう。自分の声を真っ正直に聞くことができて次なる人生に自分の選択と言えない選択なんか避けることができたかもしれない。たとえそうできなくても、少なくともそうしている自分を知りながらすすむことができたことだろう。
あのとき泥沼深くまで自分のどこも残さずに身を投じて生きられたのなら。
そうできなかったつか子。そして「あやうい所でとどまっった」そんな自分に自立した女の誇りまで感じていたつか子。
海辺の砂の上に立って寄せては引く波で足の下の砂がうばわれていくのをどうすることもできずに立ち続けようとがんばっていたつか子。がんばりきれたのは自立した女の強さだと思っていたが、そうじゃない、身体全体を海に投じる勇気がなかったから。
だから残りの命を数える今、若い頃生ききれなかったつか子は自分を嵐の海に投じ波の間に間におどろうとしている、今の今になって。
いつかどこかで読んだそば通の告白が心に残っている。通の人が世間に教えられたように、汁はいつも必ずほんのちょっとだけつけてそばを食べていたのだが死の間際になって「ああ、一度でいいから丸ごとどっぷり汁につけて食べたかった。。。」と言ったという。どんなに心残りだったことだろう。
そんなこと言えば、つか子だって、一度でいいからあの人の胸でしゃくりあげながら「あなたなしでは生きていけない」と叫んでみたいと心のそこで思わなかったと断言できるだろうか。
でもその時の自立しようと懸命だったつか子は、心の中は熱く燃えていても、女としての生な思いははけなかった。
恨みつらみのないきれいな別れ方のできた二人、それを誇らしくも思っていたのだが、本当の本当はどうだったのだろう。本当はふたつあったのだろうか。自立している自分を誇らしく思ったつか子と打ちのめされながらも痛みは自分の胸の内に秘めて通り抜けようとしたつか子。
つか子も「あの人」もあまりにも「優しい」ので、どちらもこれ以上傷つけたくない、傷つきたくないというやさしさが、人生にいく度もない体験から大切な「何か」を奪ってしまった。
関係の終わりを避けることで終わりにし、互いにどんな気持ちで過ごしたのかわかつことなく、自分の思いは自分にとどめ、相手の心の動きに「遠慮」のあまり介入せず、それで、人生の一つの大切な体験を丸ごと味わわずに通り抜けてしまった。
ワルイ後味がしたのではなく、あるはずの後味がない、味わえなかった。プツンと切れた糸。無論、去ることで、答えが出たわけなので、曖昧な最後というわけではない。
ただ、短い間でもあれだけ女と男として関わった時期があったにしては、もったいない別れ方をしてしまった。
それがつか子の日記をして、[。。。今、心の奥底から叫び出したい。天地に向かってほえたい。。。]と言わせている。
そして40数年後のつか子をして、息も詰まるほど今一度会いたいと言わせている。それは関係を蘇らせたいという願いからでなく、その昔始まった二人の繋がりをふさわしい終わりで飾りたいという思いなのだ。
9
遠いとおい昔の人についにメールを書いた。すると、すぐに自動的に「今、旅行中で、十日後まで、メールの読み書きが不可能」とあった。それでもその後、数時間もしないうちに返事がとどいた。
「近いうちに返事を出す」という返事にならない返事だった。
それから4、5日たち、「覚えてる」という一言の返事がきた。別のメール住所からだった。こちらも3、4日置き、「できたら会いたい」と書いた。すると、「僕も」とだけ返事がきた。
それだけで充分だった。
それで、しばらくそのままの姿勢でいたかった。もうこれでいいと。
すると向こうから数日後、「どこで?」
「行ったことのない国の空港で」
「?」
「ネパールは?」
「ない」
「ヒマラヤのふもとのポカラで」
「オーケー」
2、3日後、あの人から。
「いつ?」
「いつでも」
「いつでも?」
「うん、いつでも」
「じゃあ。明日」
「それは、むちゃ」
「一ヶ月後の同じ日」
「うん」
こんなにすんなり事が進むとは思ってもいなかった。あまりにもすんなりで、ふだんから夢みがちなつか子には、これが夢のつづきなのかどうなのかどうもはっきりしない。
10
20代・最後の年。出国。
つか子がアメリカに移り住み、結婚した相手はというと、カレとも正反対、「あの人」とも全く違う人だった。哲学が専門で日本に仏教の研究に来ていた。この夫との結婚についてつか子が思いうかべたイメージは、同じ方向に向けて、手もつながずに歩いていく二人、決してひとつにはなれない、そう思いたくなるような誘惑も心にうかばないような、落ち着いた 淡々 とした関係。
一つの愛情関係が終わった時、人は、その反動で、極端に反対側に走るというが、それだったのだろうか。そうだとしたら、つか子のように感情過多で密な関係をもとめずにはいられない者が、淡々とした落ち着いた関係を選んだ、その結果が見えなかった、見ようとしなかったというのはどんなものだろう。それが毎日の結婚生活の底のない寂しさにつながることになるとは思い至らずに飛び込んだ。つか子にはその先を読み取れなかったとはいえ、その相手になった者にとってその関係は一体どうだったのだろう。
つか子の日記には、知り合った初めの頃の思いが綴ってある。[彼のあたたかい沈黙が好きだ。。。] 将来どういう関係になったとしても、あたたかい思いが通い合ったころがあった、そしてそれが出発点だったと知るのは救いだ。
彼から、クエーカーの精神で始まったフィラデルフィアのコミューンの話を聞いて、その運動体に大いに気持ちが惹かれた。あれだけ一人暮らしを求めたつか子だったが、二年目に入り、それは長期的にはつか子が求める生きていくかたちではないと思うようになっていた。
彼の言うコミューンでは日々の折り合いをつけながら、七、八人から十人ばかり三階建ての大きな家に一緒に住むと聞いて、つか子の気持ちは好奇心で踊った。「非暴力で、社会変革を、今!」それを生活をひっくるめて共同で創り上げる!
つか子は自分のもつ「資本主義の国アメリカ」というイメージと全く合わない夫となる人の話のコミューンに半信半疑だったが、自分で実際に体験しなくてはという思いで胸を膨らませた。
今、日本を離れることは、別の意味があるのもわかっていた。
もう数ヶ月会っていない、これから何年も会うことのない 「あの人」。それでも日本にいる限り会える可能性がある。いつかどこかで自分のせいでなくあの人に出会う。。。心ひそかに抱いてきた「風船」のような思い、今、その糸を手から離す。。。これで、つか子の内に巣をつくった葛藤 から「自由」になれる。。。
仕事場には9月には戻るからと言って出たのだが、アパートも引き払い戻ることはないだろうという思いだった。
清水の舞台から飛び降りるという表現がある。三十歳になろうという年の夏、米国東部、フィラデルフィアのコミューンに向けて発った。
行く先に何が待っているのかは未知、ただここに残る理由はもう見つからなかった。
ーーー
残り火に燃える:つか子と「あの人」
プロローグ : わたしのダブルに会っちゃった
第一章 : 春浅く
第二章 : 春深まる
第三章 : 夏の夜明け
第四章 : 秋の光
エピローグ : 強 烈 な 瞬 間
残り火に燃える:つか子と「あの人」 プロローグ
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [ 1 ] 東京
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [2] フィラデルフィア
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [3] ポカラ
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [4] ノバスコシア 編集中
残り火に燃える:つか子と「あの人」 エピローグ
長編:[完 ]残り火に燃える:つか子と「あの人」プロローグ・本章・エピローグ:編集中
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