【短歌+】左様なら
左様なら左様ならばと願い込め会えない予感のさようならを言う 潮騒が君の名前を呼んでいる別れたあとの儀式のように 願いよりきっと祈りに近いから誰かに届く誰かの愛が
誰かと出逢ったならば、その誰かとはいつか別れる。それを軽やかに思うときもあれば、涙があふれるときもある。
外国語だと、グッバイ、アディオスというのは、「神のご加護を」というような意味合いで、再見、は「また会いましょう」的で、アニョハセヨは「安寧に、お元気で」の意味合いだそう。
「さようなら」の語源は「左様であるならば」。わかりやすく言うと「そのようであるならば」。日本語のそれは「別れのときがきた」ということをそのまま受け入れているような感じがする。
別れのときがきたんだね、そうなんだね、じゃあ、そういうことだね、うん、そうだよね。
また会おうねとも、平和にねとも、元気でねとも、神さまによろしくねとも、言わずして、全部のことを言っているように思える。
たぶん、祈りなんだろう。誰かだけではなく、どこか全体に届けるような祈りなんだろう。
さようならと言うとき、そこに込められているそれは、宇宙を巡っている気がする。
だから、また会えるかもしれないし、心に残り続けるかもしれないし、軽めの一期一会かもしれないし、何もないままかもしれないし、優しい思い出になるかもしれない。誰かと誰かの魂が出会うということは、そういうことか、左様であるならば。