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「凄い」ひと : 読書感想文



2011年の震災から、もう大分時間が経ったけれど、今だに引っかかっている事がある。
喉に刺さった小骨より、もっともっと小さい気もするけれど、ふと気付いた時、膨大に膨れ上がる。

その話しを誰かにしても、
誰もが無言になる。
忘れてしまったわけじゃないけど、
「もういいんじゃない?」
そんな感じなんだと思う。



だけど、
一人だけ。
希望の牧場の写真を使って巨大なコラージュ作品を作っていた人がいた。

その人と私は、
「凄い人だよね。」
と、口を揃えた。

こんな人が存在するのか

そう思わずにはいられない。
そして、
人とは?
国とは?
生きるとは?
そもそも命とは?
…と、
考えずにはいられなくなる。

よく考えれば、
震災はただのトリガーなんだと思う。
震災は輪郭を顕にしただけだろう。

その時、
何をするか
何を選ぶか

本当は、
何を選んでも不正解も正解もないんだとは思う。
正解がないって、その人自身の価値観で何を選択するかになってくる。


その人と私は
まだ答えが出せないのかもしれない。
みんなが切り捨てた事をまだこだわっているのだろう。



その人が

この本を貸してくれた。

針谷勉:著「原発一揆」

吉沢さんと言う牛飼いが、震災から2年、殺処分せず牛を買い続けた実録。
本は2年間の話だが、吉沢さんはまだ放射能汚染された牛たちを飼い続けている。
美談としてでもなく、道徳としてでもなく、ただ自分が正しいと思ったことを選択しただけ。

でも、
その人も私も
「凄い人だよね。」
と言う言葉しか出ない。

この本で初めて『棄民(きみん)』と言う言葉を知った。
そんな言葉が存在すること自体、驚きだった。

捨て犬、捨て猫があるなら、捨て人と言うのもあるのだろう。
人は他の動物とは違う、どこかでたかを括っていたから、棄民と言う言葉が衝撃だった。

吉沢さんは、三度目の棄民を感じながら、放射能汚染された牛を飼い続けている。
ペットを飼うのとは違う。
自分の財産を牛の餌代に変え、労力を殆ど牛の世話に使い、資本主義に反するように生産性のない300頭の牛を生かし続ける。

私には出来ない。
例えそれが正しい事だと思っても。
それが正しい事だと、自分を納得させる事も出来ない。自分自身を犠牲にして馬鹿みたいだと自分を責めるのが目に見える。
牛を殺処分する事で自責の念に駆られ、自死した人もいたが、それも私には出来ない。きっと自分がかわいいし怖さもある。
そして自らが飼う牛を殺処分する事だって出来ない。
まるで、生きる事も死ぬ事も出来ずに宙ぶらりんだ。何を選ぼうと、
「これでいいんだ。」
と、割り切る事が出来ない。

だから私には吉沢さんを
「凄い人」
としか、表現できない。

そもそもが、
人生の迷子。
何者にもなりたくない私。
一生懸命歩いて、歩いてる最中にこんな風に何かに引っかかって目的地を忘れるみたいな…。
時々不安になる事もあるけれど、それを否定も拒否もしていない。
そんな基準の私が私の物差しで吉沢さんを図ろうとしても無理な話。



じゃあ、
なんでこんなに引っかかっているのか?



恐らく私は吉沢さんを間違っていないと思っている。
杉原千畝さんが、ユダヤ人にビザを発行し続けたのと同じだろうと。
棄民と棄牛の違いだろうと。
だから、
吉沢さんが最後に、
自分の選択は間違っていなかったと、幸せの光に包まれて欲しいだけなのだ。


吉沢さんが幸せの光に包まれているのを想像すると、何故だか私も幸せな光に包まれてしまう。







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