息子のムダな行動を一緒に楽しんでみよう
大人になると効率を考えて、ムダなことをしなくなる。
少なくとも、私はムダなことに時間を費やしたくない。
しかし、息子は違う。
ムダな行動が大好きだ。
例えば、道路に書いてある「止まれ」の白線の上をはみ出さないようになぞって歩く。
車が来るかもしれないから、やめて欲しい。
それに、早く家に帰りたいからまっすぐ歩いて欲しい。
そんな私の思考を余所に、息子は全てなぞり終えて、満足そうに近寄ってくる。
今朝もきゅうり🥒を切りたいと言って、包丁を使いたいと懇願された。
何をするのか、どんな意味があるのか、全く理解出来ないまま、一緒に包丁を持ってきゅうりをぶつ切りにした。
これ、どうするの?
「ママ、見て。ロケット。」
切ったきゅうりを3個並べてロケットの様に並べた。
おーぉ、スゴいね。
で、このまな板に残されたぶつ切りきゅうり、どうするの?
息子の自我や主張が明確に行動へと移される様になってきて、私の仕事は増えていく。
しかし、私がムダだと思ってしまう事を、息子は楽しそうにやっている。
人が楽しいと思って、やっていることに、
「そんなムダな事やめなさい❗️」
と頭から否定してしまう事は、
「人生を楽しんではいけないよ。」と
教えているに等しいのではなかろうか。
そんな思いが過る。
現に、私は楽しいことを優先されなかった子ども時代を過ごした。
楽しく友達と放課後校庭で遊んでいれば、母親が迎えに来て、強制的に帰宅となった。
門限を守らなければ、家に入れて貰えなかったし、母親の思う通りに行動しなければ、逆鱗に触れた。
子どもの頃に植え付けられた呪縛みたいなものは、なかなか消えてくれない。
好きでやっていることを親に否定されたら、まず親を嫌いになる。
尊重されたから、言っていることに耳を傾けよう、となるのが人間というものだ。
親子だからと言って、例外ではない。
ここ最近、息子に、
「ママ、キライ。ころすよ。」と、
言われた事があった。
息子のワガママも多少はあるのだが、私の機嫌や気分によって、高圧的な口調で対応してしまっていたのだろう。
私の正解ではなく、息子の正解を探して声掛けをする必要がある。
私が言いたい事が、息子の求めている答えでは無いことも多々ある。
日々の共感の積み重ねで、どれだけこちらに心を振り向かせてくれるだろう。