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不登園の次男が、幼稚園を退園。合う教育を選びに行く時代。

 我が家の不登園児、次男くん。2022年3月31日の昨日、幼稚園を退園しました。
 たった1年でしたが、「こういうタイプは合わない」とわかっただけでも、行ってよかった!私にとっても保護者イベントに参加したり、近隣にママ友ができたりしたので、本当にこの1年行ってよかったです。

 「これは合わない」は「これが合う」の道標べ。
 そして「僕はこういう人」を紐解く、大事な資料です。

私はこれまで、幼保合わせて5つの園を利用しました。

 そんなわけで、改めて「僕に合う幼稚園探し」をしています。

 転居などの関係で、長男の分と併せると、これまで国内外合計3つの幼稚園と2つの保育園を利用しました。小学校と比べたら「幼稚園」というのは断然変えやすく、幼保無償化の制度もありますので、日本の幼稚園はとても有り難いなぁと感じています。

 幼稚園と比べると、「保育園」は働くお母さんのための場所なので、基本的に子供が登園渋りに陥るような対応が少ないと感じました。イベントも少ないため、園で過ごす時間が長くなること以外は、子供の負担が少ないと感じます。
 今回不登園になった次男も、3歳まで保育園は行き渋ることがなく、むしろ帰りたがらないくらいでした。

 一方で「幼稚園」は「幼児教育」を施す場所です。その幼稚園が「教育」をどう表現するかで、園児のキャラクターによる適正が大きく変わってきます。私は幼稚園の利用3つ目にして、今回それを実感しました。

 そして今回の見学希望先、転園すればに6つめの利用となる幼稚園に問い合わせをしたときに、幼稚園による違いを実感しました。

 教育も「なんのためという目的」が大事だと感じたので、そのお話をします。


なにを「目的」に据えているか

 幼稚園に見学の申し入れの電話を入れたときに、預かり保育の有無などを聞きました。「給食のある日だけ預かりをしている」とのことで「給食」の話題になったのです。

 そこで電話口に出てくださった園長先生が
「給食導入の目的は、お母さんの負担を軽減することが、母子の笑顔を増やし、子供の幸せに繋がるからです」と仰っていました。

 私は給食のある幼稚園に問い合わせをしたのが初めてで、給食の有無はそこまで気にしていなかったのですが、この園長先生のこの「目的の持ち方」に、感銘を受けました。

 今までのように、普通に幼稚園選びをしていただけでは気付かなかった「当たり前の考え方」かもしれませんが、昨日まで利用していた幼稚園とはお母さんへの対応が違っていたので、これは園児に対しても同じだろう、と直感的に思いました。


管理に応えたあとの「やり遂げた感」

 昨日まで利用していた幼稚園は、とても管理が行き届いた幼稚園でした。
 預けるにも安心感があり、何より距離が近かったし、もしもの災害時の対応なども心配をせずに済みました。お弁当も無理をする必要はなく、お弁当を注文できるチケットがあったので、お母さんの負担軽減も考えてくれていたと思います。

 管理が行き届いていたので、私達お母さんに対しても「このようにしてください」という指定は、正直多かったです。毎朝の準備で「忘れてはならない、遅れてはならない、プリントを読み込んでおかなければ」という緊張感がすごかったですが、強制されていたわけではないし、失敗して怒られるわけでもないので(家に取りに帰るパターンはあります)、私が勝手に緊張していたとも言えます。

 私はこれを「鍛えられている、私も教育してもらっている」と、好意的に受け取っていました。
 幼稚園も頑張っている、だから私も頑張ろう、という思いがあったと思います。

 でもいつの間にか、常に完璧な準備を目指すことに疲れていたと思いますし、それは次男も同じだったと思います。朝、次男を送り終えただけで、いつも疲れていました。
 これまで経験した保育園や幼稚園の送迎後にも「送ってホッとする」はありましたが、「ホッとする」というよりは、比にならない「やり遂げた感」でした。


私も子供も、すでに十分頑張っていた

 こんな風に生活していたので、見学先の園長先生のこの言葉に、

あなたはすでに十分頑張っている。あなたはそのままでいいんだよ。

 と、言ってもらった気がして、なんだか心がほかほかと暖かくなりました。

 同時に、私はこんなにも頑張っていたのか。私が頑張るということは、次男にとっても、相当の緊張と頑張りだったことだろう、と思いました。

 保育園を利用していた頃は、準備の手間はあるけれど、毎日準備するものは同じだし、忘れてもどうにかなるから気楽でした。むしろ先生との連絡帳のやり取りは、楽しみだったりして。

 なのでこんなに「幼稚園に行くための準備」に対して頑張っていたことにはたと気づいて、衝撃でした。もちろん、私が勝手に「頑張っていた」だけなんですけどね。

「幼稚園にやめますって言ったよ」と次男に話したときに、次男が泣きそうな顔で「ほんとう〜!!!」と、喜びましたた。

 私は他の幼稚園との違いを実感したことで、これまでの幼稚園は「小学校に続くための教育」をしてくれていたんだな、と思いました。
 「年中さんになったらこんな成長がある、年長さんになったらこうなる、そして小学校へ続く」という話を聞いていたからです。

 でも、見学先の幼稚園での教育の目的は、どうやら違うようです。


教育ってなんだろう

 私は思わず、「教育って・・・」と考えました。

 そこで私は、「小学校に馴染むようにする」というのは、「今欠けているものを補う」という発想だと感じました。幼児の年令に応じた成長段階を経ながら、小学校へ向かうという考えです。

 一方で「お母さんの負担を軽減することで、母子の笑顔の機会を増やし、子供を幸せにする」という考えは、「既にあるものを引き出す」という発想だと思いました。

 このような形で「お母さん」として信頼してもらうと、「もっと子供と笑顔でいる時間を増やしたい!」と、思わず感じます。「こうお母さんしたい」という意思が導かれるので、自ずと行動が自主的になります。
 きっと子供にもこう対応してくれるんだろうな、と思いました。

 欠けているものを補おうとすると「管理的」になりますが、
 すでにあるものを引き出そうと思うと「自主的」になります。


「目的」の置き場所

「お子さんのために、どうぞあえて壁になってください」と、
 これまでの幼稚園から言われたことがあります。

 「頑張らなくていい」「ありのままでいい」
 そういった風潮に対する警笛でもあり、子供を信頼するからこそ、あえて壁になりましょう、というお話だったと思います。

 わたしも子供の壁になろうとするタイプではないので、そのときは「こういう考え方もいいなぁ」と思い、それで心に残っているのですが、きっとこれも、大切なのは「なんのために、という目的」です。

 当時は良い!と思いましたが、今の私は、子供の人生を信頼するからこそ、「その子に必要な壁は自然とやってくるから、あえて親が壁になる必要はない」と思います。

 「自分で洋服を着る」という小さなことも、本人ができる・できないに関わらず、「やって」に答えることで「お母さんはあなたを受け止めるよ」と伝えるために、やってあげてもいい、と思っています。

 そうやって着替えを手伝っても、こうして記事を書いている間などは放って置きっぱなしですし、牛乳をこぼしたりすることがあっても、布巾やティッシュで拭いたり、なんだか上手くやっているなぁ、という印象です。

 我が家は息子たち2人の不登校と不登園のセットで、私は「1日1回くらいは外遊びしないと」とせっせと子供たちの生活管理をしていましたが、これでは自立に繋がらないと思い、やめました。
 今の私は「自立」を促すためという目的のもと、子供たちを放っておき、日々ほとんど自分のことだけをやっています。

 なので、「壁になる」も「手を出す」も「放っておく」も、なんのために?という目的が大事、と言えますね。


信頼と自主性

 夫と共有している我が家の「子育て目標」は、自分で考えて自分で行動できる、自主性のある大人になってもらうことです。
 他にも「何歳までに」「こんな風に」という細かい目標設定はありますが、ざっくり言うと「自主性」です。

 あくまで「私たちなりの目標」であり、子供に「こうなれ」と強制するものではありませんが、「自主性」は大きな軸となる子育てテーマです。

 その意味では、家庭での教育も「既に必要なものはある」という信頼の元に子育てしていこう、と、今回の幼稚園の違いを見て、改めて決意しました。


それぞれにフィットする教育を選ぼう

 退園した直後なので、新しい幼稚園を贔屓するような内容に見えるかもしれませんが、その辺は文章に表れていたとしても「個人の私感」であると、ご理解いただけるとうれしいです。

 これまでの幼稚園には本当に感謝していますし、素敵な幼稚園です。
 それに、キチンとした体制の中で「補い、習慣を積み重ねていく」やり方が合う子は、一定数います。ひょっとしたら、日本の全体の半分くらいの子は、そうかもしれません。

 「普通の公立小学校」がフィットするタイプでもあり、私のように緊張感を持って頑張らなくても、「他人の期待に応えなくていいこと」を理解し、「適当にやれる」タイプとも言えます。

 管理型の生活の中では「自主性」が養われにくいとは思いますが、学校外で培える能力でもあります。
 私も不登校期があったものの、普通の公立校を卒業しています。それでも自分の意志はハッキリしていますし、この性質については元から自覚してもいましたが、外に出すようになったのは大人になってからです。

 ウチの子達のように、元から「私はこうしたい」という意思がハッキリしていたり、「闇雲に習慣に従うことに抵抗がある」「なぜ、なんで、と、理由や目的を問う習慣がある」タイプの子には、この管理型のやり方は苦しいです。その場合は、どんどん合う場所を探して移ったら良い、と思っています。


分断ではなく統合

 教育も、これまでの一元的なやり方ではなく、それぞれの子供に合ったものに変わっていこう、という動きがあります。
 これまでのやり方を守ろう、とする意見もあると聞きます。

 旧制度派と現代型派で、分断される必要はないと思っています。
 対立から進化はありませんし、
 「教育を良くしたい」という思いは、どちらも同じだと思うからです。

ここでも大切なのは「なんのために」という目的であり、それを共有することです。

 私はこの「立場の違う人と協力すること」を、夫婦関係を通じて学びました。夫婦関係は人間関係の基礎をじっくり学べるので、これは他の場面でも同じです。(参考記事

 それに、もともとの日本の公教育(義務教育)の制度ができたのも「国力を上げるため」でしたし、そのために教育は現代型に変わる必要があると言えます。
 同時にコレまでのやり方が合う子が漏れる側にならないために、旧制度が守られる必要もあります。

 その意味では、まず「全員が教育を受けられること」が肝要です。
 増えるばかりの不登校をこのまま放っておくのは、この先の日本の国力という点では確実に不利益であり、彼らが海外に教育移住をする現状を見ると、国力が外国に漏れているとも言えます。

 こういった子が公立校に通うのに、「支援級」以外の選択肢ができたら画期的だと思っています。近所の公立校で合った教育が済むなら、こんなにラクなことはないです。

 しかし現状が変わることが一朝一夕では難しいことを思うと、公立校以外で教育を受ける際にも経済的補助があるべきだと思いますし、新しく学校を作る先生たちにも、ぜひ学校設立の経済的補助や、学校経営にも財政的補助を付けて欲しいと思います。新しいチャレンジができる場が増えてほしい。

 そしてなにより、子育て世代である私達と、教育を受ける本人が「教育を選んでいく」ことこそが、結果的に教育改革をすすめると思っています。


教育を選ぶことで、意思表示しよう

 「何も言わない」のは「現状でOK」のサインです。

 より良い未来を望む皆様、私達の子供が作る、将来の日本のためにも、ぜひ声と態度で、望む教育の意思表示をしていきましょう!

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