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【書評】『哲学の使い方』

哲学は市民の教養として

本書は、これまで大学や研究機関の中に閉じ込められがちだった哲学を、市民の生活や社会の現場で使えるものとして解き放とうとする試みです。著者の鷲田清一氏は、哲学を専門家だけのものにせず、誰もが使える道具として捉え直すことを提案しています。

そもそも哲学とは何か。本書によれば、哲学は特定の対象領域を持つ学問ではありません。むしろ、人々が日常生活で感じる違和感や疑問を掘り下げ、物事の根本を問い直す営みです。そして、既存の考え方の枠組みを解体し、新たな視点を切り開く力を持っています。

また著者は、哲学には「強度」があると指摘します。それは、論理的な厳密さだけでなく、問題の本質を捉える鋭さや、異なる立場の人々の対話を紡ぎ出す力のことです。この強度は、専門的な知識よりも、物事を根本から考え抜く姿勢から生まれます。

現場から汲み取る哲学

本書の特徴的な主張は、哲学は現場から学ぶべきだという点です。著者は、医療や介護、教育など、さまざまな現場で働く人々の実践知に注目します。そこには、理論では捉えきれない豊かな知恵が存在しているからです。

たとえば、看護師や介護士は、患者や利用者一人一人に合わせて柔軟に対応する技を持っています。また、教師は子どもたちの成長に寄り添いながら、教育の本質を体得しています。こうした現場の知恵を「哲学として汲み取る」ことが重要だと著者は説きます。

この「汲み取り」の作業には、二つの側面があります。一つは、現場で培われた暗黙知を言葉にして共有すること。もう一つは、その知恵の中に普遍的な意味を見出すことです。これは、現場と理論を往復する営みといえます。

対話の場としての哲学カフェ

著者が実践してきた「哲学カフェ」は、この考えを具体化した取り組みです。これは、市民が集まって哲学的な対話を行う場です。参加者は、所属や立場を離れて、人生や社会の根本的な問いについて語り合います。

哲学カフェでは、正解を求めることよりも、問いを深めることが重視されます。異なる経験や考えを持つ人々が出会い、互いの視点を摺り合わせることで、新たな気づきが生まれるのです。

特徴的なのは、ファシリテーターの役割です。哲学の専門家は、議論を主導するのではなく、参加者の対話を支える黒子に徹します。これは、市民一人一人が主体的に考える力を育むためです。

思考の肺活量を鍛える

著者は、哲学的思考には「肺活量」が必要だと説きます。これは、すぐに結論を出さず、問題の複雑さに耐える力のことです。現代社会では、効率や即効性が重視され、じっくり考える余裕が失われがちです。しかし、重要な問題ほど、簡単には答えが出ないものです。

そこで必要になるのが、「ぐずぐずする権利」です。これは、問題について十分に考え、他者の意見に耳を傾け、自分の考えを熟成させる時間を持つ権利です。著者は、この「ぐずぐず」こそが、深い理解や創造的な解決につながると主張します。

また、思考の肺活量を鍛えるには、異なる分野や立場の人々との対話が欠かせません。多様な視点に触れることで、自分の考えの限界に気づき、より広い視野を獲得できるからです。

市民の武器としての哲学

本書は、哲学を市民の「武器」として位置づけます。それは、社会の問題を批判的に検討し、新たな可能性を構想する力となるものです。著者は、この武器を使いこなすために、いくつかの心得を示しています。

まず、問題を多角的に見る習慣です。一つの視点に固執せず、さまざまな角度から検討することで、より深い理解が得られます。次に、他者の声に耳を傾ける姿勢です。異なる意見や経験から学ぶことで、自分の考えを豊かにできます。

さらに、概念を創造する力です。既存の言葉では捉えきれない現実を、新たな概念によって表現することが必要です。これは、社会の課題に取り組む上で重要な能力となります。

哲学の新しい可能性

本書は、哲学の可能性を大きく広げる試みといえます。それは、専門家の研究対象から、市民の生活や社会を豊かにする道具へと、哲学を転換する提案です。

著者は、この転換が現代社会にとって重要だと考えています。技術や情報が急速に発展する中で、人々は価値観の混乱や意味の喪失に直面しているからです。そこで必要になるのが、物事を根本から考え直し、新たな意味を見出す哲学の力です。

本書は、哲学を難解な学問としてではなく、誰もが使える実践的な知恵として提示します。それは、市民一人一人が主体的に考え、対話し、より良い社会を築いていくための指針となるでしょう。

著者の鷲田清一氏は、長年にわたり哲学の研究と実践に取り組んできた哲学者です。本書には、その豊富な経験に基づく深い洞察が込められています。哲学を身近なものとして捉え直したい人はもちろん、社会や人生の問題について考えを深めたい人にとって、示唆に富む一冊といえるでしょう。


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