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【書評】『知の体力』

知識を活用する力を育てる

生命科学者であり歌人でもある永田和宏氏による本書は、現代の若者たちへのメッセージとして書かれた教育論です。知識を詰め込むだけでなく、実際の場面でそれを活用できる力、著者の言葉を借りれば「知の体力」をどう育てるかについて論じています。

大学教育の本質を問い直す

著者は、高校までの教育と大学教育は明確に区別されるべきだと主張します。高校までは正解のある問題を解くことが中心ですが、大学ではむしろ正解のない問題に取り組むことこそが重要だと説きます。例えば、沖縄の基地問題のような社会課題には明確な答えがありません。しかし、だからこそ最高の教育を受けた大学生たちが真剣に考えるべき問題なのだと著者は訴えます。

著者は現在の大学教育の問題点として、手取り足取りの指導や、企業のニーズに応えることばかりを重視する傾向を指摘します。特に近年の「質保証」の動きには警鐘を鳴らしています。大学は学生の可能性を開く場であって、一定の「質」を保証する場ではないというのが著者の持論です。

失敗から学ぶことの大切さ

本書で繰り返し強調されているのが、失敗経験の重要性です。著者自身、物理学から生命科学へと転向し、企業研究員から大学教員への転身を経験しています。そうした経験から、若いうちの失敗や挫折はむしろ糧になると説きます。特に大学時代の「落ちこぼれ」体験は、社会に出てから遭遇する困難に対する「予防接種」として有効だと述べています。

「みんなと同じ」を超えて

現代の若者の特徴として、著者は「みんなと同じ」であることへのこだわりを指摩します。一人で食事をすることを避けたり、LINEの返信に即座に反応しなければならないと感じたりする若者たちの姿に、著者は懸念を示します。しかし、本来人は違っているからこそ個性的な存在なのであり、その違いにこそ価値があるのだと説きます。

二つの世界を生きる意味

本書の特徴的な主張の一つが、複数の分野や世界に関わることの意義です。著者自身、研究者であり歌人という「二足の草鞋」を履いてきました。そのことで周囲の目を気にし、後ろめたさを感じた経験も率直に語られています。しかし、異なる世界に身を置くことで得られる「風通しの良さ」こそが、柔軟な思考と創造性を育むのだと主張します。

コミュニケーションの本質

本書では、現代のコミュニケーションの在り方についても鋭い指摘がなされています。LINEなどでの短いやり取りは「用を足す」には便利ですが、真のコミュニケーションとは異なると著者は指摘します。相手の言葉の「間」を読み取り、言葉にならない思いを感じ取ること。それこそがコミュニケーションの本質だと説きます。

心理学者の河合隼雄氏から学んだという「眠るように相手の話を聞く」という姿勢も印象的です。相手の話をただ受け止めることの重要性を、著者は自身の経験も交えながら語っています。

知識を生きた力に

本書は、知識をいかに実践的な力として育てるかを論じた教育論であると同時に、現代社会を生きる若者たちへの温かいエールでもあります。著者は、安易な答えを示すことを避け、むしろ読者自身に考えることを促します。それは本書の主張そのものでもあります。すなわち、与えられた正解を覚えるのではなく、自ら考え、試行錯誤する中でこそ、真の「知の体力」は育つのです。

文系・理系の枠を超えて展開される議論は説得力があり、教育関係者はもちろん、学生、そして子を持つ親にとっても示唆に富む一冊となっています。著者の豊富な経験に基づく具体例も、抽象的になりがちな教育論に説得力を与えています。

結びとして、本書は単なる教育論を超えて、現代社会に生きる我々すべてに、知識や学びの本質的な意味を問いかける貴重な著作と言えるでしょう。


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