父の命日に思うこと
2019年11月14日、父は肺がんのため亡くなりました。
肺がんの告知をされたのは、最悪なことに私の誕生日でした。
この前日、胸が苦しいと救急車で搬送。ストレス解消のために、弱いくせにとんでもない量のお酒をいつも飲んでいました。休みの日は朝から。昼で仕事終われば昼から
だから、診断されてなかったけど恐らくですが
アルコール依存ではなかったのかな?
だから運ばれた時も、アルコール中毒じゃないかと思ったよ。搬送の時も、救急隊員からかなり、アルコール飲んでるよね?って言われてたそうなので
父に趣味はありませんでした。仕事頑張って帰ってきて、ストレス解消のためにお酒弱いくせに、度を超えて飲み家族に八つ当たりというか絡む。お酒の勢い借りて
暴言や自己中心的な行動。そして、アルコール飲み過ぎですから、自分のしたことは翌日とか覚えてない。
でも、八つ当たりされたり、絡まれた私たちはもう、腹立たしくて仕方ない
もちろん、飲み過ぎて記憶ないだけの行動するから止めたよ!でも、絶対に聞こうとしなかった。
この人には何を言ってもダメだ
そう思って、実家にいた妹や母は離れて暮らすことになりました。それも、父にバレないように内密に、アパートを探し、引っ越しも最低限の荷物を運ぶ
夜逃げみたいだよね
一気にいなくなると怪しまれるから、少し遅れて母が離れていく。離婚はしなかったけど
そして、父は1人に急になった。
急に1人にされて、余計にストレスだったのと、誰も止めないからアルコールの量ひどく増えたんじゃないの?
でも、前兆はガンの発覚前にありました
発覚の半年前のこと。離れて暮らしていても連絡取り合っていた母が私に言った
肋骨骨折した時に、肺に影見えるから大きな病院行けって言われたらしいよ。
しかも、それを言われたのは介護福祉士試験の前日
翌日に試験を控えていて、最終の基礎知識チェックしていた私は動揺より怒りでした
明日、試験なのに集中力削ぐようなこと言うな
別に試験終わってからでいいのにって思ったよ。言われてもすぐ受診する人ではなかったし、その前からわかっていたんだろうしさ。
そして、私の誕生日に発覚
最悪な誕生日プレゼントだった。
転移はなかったけど、手術も放射線治療も出来ないため、抗がん剤しか方法はない
そして、ゆあの誕生日に抗がん剤治療がスタートという、もっと最悪なプレゼント。
元々、お酒ばっかりで不摂生だったからか抗がん剤治療、一回目でもう体力奪われたらしい
なぜ、『らしい』という他人事なのか
酒癖悪く、八つ当たりの一番の標的は私だった。障害の娘を産んだことや再婚して、相手のお子さんも障害あることを絶対に喜ばなかった。私が離婚してしばらく実家にいても、ゆあが標的になることもあった。
それもあり、家族の中で連絡は家族から聞いていても会いにも行かないし協力もしなかった。
一回目の抗がん剤治療で、体力が落ちて次の抗がん剤治療に行けなくて、副作用で食欲は落ちて、貧血もあり輸血したときのこと
この日、バレーボールのイベントに行くため東京へ行った。輸血なんて知らなかったし飛行機でスマホ使えなかったからね。
羽田空港に降りて、荷物を受け取るために歩いている時に
これから輸血する。どこにいる?
え?羽田空港。戻れないからね
自分の親が輸血するだけ体調悪いのに、娘は東京にいた。そして戻る気もなく、心配の言葉すらないことにどう感じたんだろう?
ひどい娘なのはわかるよ。でも、過去にされてきたことに対する気持ちもあったから関わり持ちたくなかった
何回も言われたよ。
家族なんだから、金銭的にも精神的にも身体的な介護もやってよ
過去にされた嫌なことされた。関わりたくないって思っても、父が体調悪いからって家族なんだから当たり前に支えろと?
ふざけるなと思って、私は拒否。電話にも出なかったし、10月からもバレーボールのリーグのために何回か東京や神奈川に行った
特に11月のリーグに関してはめちゃくちゃ、間に合わなくなるから行くなって妹にも言われたよ
そして、11月11日に
ホスピスに行くかどうかの話になるから、何が何でも来いと
行ったよ。肺がんだと言われて初めて
しかし、個室に移されていた。その日の朝にトイレで動けなくなり、ほとんど話せる状態ではなかった。
事前に聞いていたのは、これ以上の抗がん剤治療は出来ないから在宅介護かホスピスに行くかを本人交えて医師から説明
でも、行ったら
話すのがやっとで意識は朦朧としていた。髪の毛は全て抜けて、こんなにおじいちゃんだっけ?ってぐらい。さらに痩せていた
医師から言われたのは
あの状態では退院はさせられない。医療用の麻薬を使用する。そうなると転院も出来ないからここで看取ることになります。もう数日です。会わせたい人がいたら会わせてほしい
そういう話でした。医療用の麻薬を使用すると眠気強くなりせん妄も出るでしょうと。
職場には前から話はしていました。一切関わってこなかったけど、死が近いということは呼ばれる可能性高いこと。その時は行かないといけないこと。
もう数日と言われたため、連絡して休みをいただいた。しかし、指定された日まで命がつながったら
復帰はする。でも、いつ呼ばれるかわかりません。と
でも、私の中で親の死が近いと実感した時に、自宅で涙溢れた。
いくら憎んでいても、こんだけ涙溢れるのかと。
父は私が休みをいただいている期間だった
2019年11月14日1時52分に亡くなりました。
泣いたのは危篤の時のみでした。亡くなってからは
泣く暇を与えられなかった。真夜中に葬祭ホールへ搬送して、それでも眠れるわけなくてすぐに葬儀とかの打ち合わせ。
何時に枕経のために坊さん来る
こういう手続きが必要だからこの日中に
連絡が必要な方に連絡
気付けば朝に。真夜中に亡くなっていたから子どもたちは旦那に預けていたこと。準備のために帰宅したり。
お昼前後から父に会いに来てくださる方々への対応。
まだまだ打ち合わせ。
葬儀とかの日程を会社に連絡して、いつから出られるか。
バタバタで睡眠も取れない状況でした。
2年経過したけど、最期に言葉を交わせたこともあり、後悔はありません。