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うらしまたろう
小学6年生の時、私のクラスは荒れていた。
初めて6年生を受け持つ華奢で優しい女の先生が担任というのも手伝って、かなり反抗的なクラスだった。
反抗的なグループのトップに3〜4人の男子がいて、中でも今野くんは酷かった。
暴力なんかがあったわけではないけれど、先生の言う事は全く聞かず、いつもふざけてみんなを巻き込んで、よく先生を泣かせていた。
私は先生のことが大好きで、その大好きな先生を困らせるクラスが嫌だった。かといってそれをどうにかするような度胸もなかった。いつもぐちゃぐちゃなクラスの様子を隅っこの方で見て、ひとりでふがふが怒っていただけだった。
特に今野くんのことは大嫌いで、あの人がここにいなければクラスはもっと平和になるのにと思っていた。
夏休み前、今野くんが入院の為しばらく学校を休むと知らされた。
その時は検査をしているところで、詳しいことはまだ分からないようだった。
まぁ、これから夏休みだし、夏休みが終わったらまた戻ってきて悪さばかりするんだろう。どうせ。またクラスを、先生を、ぐちゃぐちゃにするんだろう。どうせ。
そう思って、夏休みに入った。
夏休み明け、今野くんは学校に来なかった。
大きな病気が見つかって、治療のためにまだしばらく入院すると先生が話した。
大きな病気の内容について話があったか無かったかは覚えていない。
先生の表情から、思ったよりも深刻なんだろうということは理解できた。それでもいまいちピンとこなくて、しばらくって何日くらいなんだろうな。と、ぼんやり考えた。
しばらく入院することが決まってから、先生の提案でお見舞いの寄せ書きを書いた。
私はそれでも今野くんのことが嫌いで、病気だろうがなんだろうがクラスをめちゃくちゃにしたことは許さないと思っていた。
早く元気になってね。
色紙にそう書いて、まるで自分の文字じゃないような気持ちで眺めた。
制服が長袖になって、上着を着るようになっても、今野くんはまだ来なかった。
今野くんがいなくてもクラスは何も変わらず、荒れたままだった。
それはまるで、ずっと今野くんが居るかのようでもあったし、最初から今野くんが居ないクラスかのようでもあった。
冬休み前、今野くんの入院が思ったより長くなっていて、卒業式までに退院できるか分からないと知らされた。
先生は今野くんが卒業式に出られないかもしれないと言いながら少し泣いていた。どうしたらいいか分からない空気がクラスの中に流れた。
3学期、今野くんがいないまま小学校生活の終わりが見えてきた。より一層、今野くんがいない学校生活に慣れてきて、より一層、居ないことが自然になってきた。
卒業式の練習が始まった。
一人ずつ名前を呼ばれて、一人ずつステージに上がって卒業証書をもらう。その練習をした。
そこで今野くんの名前を久々に聞いた。今野くんのことを少しだけ思い出した。
今野くんがステージに上がって、みんなと同じように卒業証書を受け取る姿は想像できなかった。
私は誰も上がらないステージから目を逸らした。
そのまま次の人の名前が呼ばれた。
卒業式の数日前、今野くんが卒業式に出られることになったと知らされた。退院はまだできないけれど、式の日だけ一時的に外出が許されたとのことだった。
車椅子に乗っていること。少し痩せたこと。髪の毛と眉毛が抜けていること。前までと様子が違うと思うかもしれないということも添えられた。
その時の空気は、後にも先にも感じたことがない。
安堵や、喜び、そんな単純なものじゃなかった。
どうしたらいいんだろう。どんな顔をしたらいいんだろう。今野くんはどんな顔をして来るんだろう。どうするのが正しいんだろう。何と声をかけたらいいんだろう。何を言って良くて、何を言ったらいけないんだろう。
"今野くんが卒業式に出られて良かったよね"というオブラートのような薄っぺらい言葉の内側に、そうではない感情が明らかに渦を巻いていた。
あの年齢で、あのタイミングで、あの今野くんに対してだったからこその空気だったんだと思う。
式にだけ出て教室には来られないと聞いた時、残念だと言う先生の"正解の表情"をよそに、私たちこちら側の空気は少しホッと柔らかくなった。
卒業式の当日、それぞれがそれぞれの卒業でいっぱいいっぱいで、体育館に行くまで今野くんのことは頭の中に無かった。いや、無かったわけではない。頭の真ん中に来ないように端に追いやっていた。きっとみんなそうだった。誰もそんなことは言ってなかったけれど、きっとそうだった。
体育館に入場した時、まだ今野くんは居なかった。最後尾で入場することもなかった。
不在のまま、卒業式が始まった。
1組の人から順番に名前を呼ばれ、元気に返事をして、ステージに上がって、校長先生から卒業証書をもらった。
私のクラスの番になった。
今野くんはまだ居なかった。
先生が出席番号順に名前を呼んだ。
私も呼ばれて、練習通りにやり遂げた。
今野くんの番になった。
今野くんはまだ居なかった。
先生が今野くんの名前を呼んだ。
体育館の横の扉が開いた。
車椅子に乗った今野くんが居た。車椅子を押されて、ゆっくり入ってきた。
今野くんはすごく痩せていた。顔色が少し悪く見えたのは眉毛が無かったからかもしれない。頭には耳まですっぽり隠れるニット帽をかぶっていた。
車椅子が静かにステージの階段下まで到着した。
大きな男の先生2人に両脇を抱えられ、ヨロヨロとなんとか数段の階段を上がった。今野くんの足にはほとんど力が入ってないように見えた。
無理矢理上がらなくてもいいじゃん。と、私は思った。
なんとかしてみんなと同じようにステージで卒業証書を受け取らせてあげたい。と、この方法になったらしい。
後ろの保護者席からは鼻をすする音がいくつか聞こえた。
ステージ下でマイクの前に立つ担任の先生を見た。
泣き虫の先生は泣いてなかった。
顔を真っ赤にして、口をぎゅっと閉じて、真っ直ぐ今野くんを見ていた。
両脇を抱えられて階段を降りる今野くんを見た。
少し俯いて、恥ずかしさと悲しさと怒りと情けなさのようなものが入り混じった笑みを浮かべていた。
私は目を逸らしたかったけれど、それはダメなんじゃないかと思って逸らさなかった。
クラスメイトは誰一人泣いていなかった。前とは違う今野くんをただ見ていた。
卒業式が終わった後、教室に戻っても誰も今野くんの話はしていなかった。
みんな今野くんが嫌いでしなかったわけじゃない。できなかった。きっとそうだった。
家に帰って母親からその話題を出されるまで、私も今野くんの話はしなかった。
中学に入って、私は今野くんと同じクラスになった。
教室に今野くんの席はあったけれど、今野くんは居なかった。
私は新しい制服を着て、知らない小学校出身の人とたくさん知り合った。
勉強、ヘルメットをかぶって自転車通学、部活、怖い先輩……新しいことがたくさん始まった。
今野くんが居ないまま、新しい事にどんどん慣れていった。
初めての夏服になっても、今野くんは教室に居なかった。
居ないことが当たり前になって、居ないということも考えなくなった。
初めての夏休みが始まって、終わった。
初めての合服になっても、今野くんは居なかった。
ぽつりぽつりと冬服の人が出てき始めた頃、担任の先生から今野くんが登校してくることになったと知らされた。
今野くんのことを思い出した。卒業式の今野くんと、もっと前の今野くん。どちらの今野くんが来るんだろうと考えた。どっちも嫌だなと思った。
数日後、今野くんが教室に来た。
ニット帽は深くかぶったままだったけれど、卒業式の時ほど痩せてはいなかった。車椅子にも乗っていなくて、松葉杖をついて自分で歩いていた。表情も卒業式の時よりは元気で、照れ臭いのを隠すように笑っていた。
私はホッとしたのと同時に、またあの今野くんが戻ってくるのだろうかと不安にもなった。
でも、登校し始めて数日経っても今野くんは静かなままだった。
仲間はずれというわけではなかったけれど、今野くんには友達ができなかった。
ひとりぼっちというわけではなかったけれど、今野くんはひとりだった。
みんなと話をしないわけではなかったけれど、みんなと話が合わなかった。
みんな今野くんの知らない共通の思い出ができていた。
みんな笑うタイミングが今野くんと違っていた。
今野くんを置いて、みんな少しだけ大人になっていた。
ある時、6年生の時のクラスメイト数人と今野くんが話をしていた。
一緒に悪さをしていた男子もいた。
今野くんは嬉しそうな楽しそうな照れ臭そうな顔をしていた。
「お前ら6年の時いつも一緒に居たのに、最近あんまり一緒に居ないよな」
と、誰かが言った。
「あの頃、今野めちゃくちゃ面白かったから。今あんまり面白くねぇもん」
と、男子が答えた。
ハハハと笑い声が聞こえた。今野くんも静かに笑っていた。
「あの頃はなぁ、俺も若かったからなぁ」
小さくそう言った時の顔は、卒業式の時の顔と同じように見えた。
私は心が苦しくなった。ぎゅーっと締め付けられるようだった。悲しいというよりは悔しかった。
なんだよ。なんでヘラヘラしてんの。あんた本当は悪い奴でしょ。悪さばっかりして、みんなを巻き込んで、先生を泣かして、ゲラゲラ笑って。すげえ悪い奴でしょ。私はあんたなんか大嫌いなんだよ。
そう考えて、体に力が入って、泣きそうになった。
それからも今野くんはずっとひとりだった。
ひとりぼっちではなかったけれど、ずっとひとりだった。
2年生になって、クラスが別々になった。
そこからのことは何も知らない。
今野くんに友達ができたのか、最初は苦戦しているように見えた勉強は大丈夫になったのか、どの高校を受験して、どの高校に進学したのか。
何も知らない。
たまに廊下で見かけることはあった。
ニット帽を脱いだのも、松葉杖がいらなくなったのも、廊下で知った。
ただ、誰かと笑いながら歩いている所は見なかった。
今となってはもう、今野くんを思い出すことはほとんど無い。
でも、卒業式の時の表情と、みんなと話していた時の表情は忘れられない。
今、どうしているんだろう。
私は今野くんのことが大嫌い。
でも、どこか私の知らないところで幸せになってくれてたらいい。
この曲を聴いて、今野くんを思い出した。
最初から聴いてもらいたいのに、途中からしか載せられないのが悔しい。