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ジグソーパズル
地元にとても古い商店街があった。狭い空間にぎゅうぎゅうに詰め込まれた店の殆どはシャッターを下ろしたままで、一日のうちで賑わう時間なんて全く無いような寂れた商店街だった。今となってはそれもまた味があるとされて、お洒落なコーヒースタンドや古着屋さんやバーなんかがどんどん増えているらしい。
そうなる前の商店街は夜になると一層怪しい空間だった。申し訳程度に設置されている電灯は黄ばんでいて、そのせいで空間全体がほんのり黄色かった。地面に敷き詰められたレンガもボロボロで、ひび割れたり欠けて剥がれたりしている部分が沢山あった。
いつも22時頃だったろうか。大して近道でもないというのに、私はバイト帰りには必ずそこを通った。ただ通っているだけだという顔を作りながら、心の中にはある目的を持っていた。
必ず会えるというわけではなく、タイミングに規則性があったわけでもない。たまたま私がそこを通った日に、たまたまそこに居たら会える。そんな低い確率だった。
「また夜遊びしとんか」
私が近付くと、いつもその人は冗談を言った。
「いや、バイトじゃって」
私はその冗談に上手く冗談を重ねることが出来なかった。それでもその人はいつも私を冗談で迎えた。
その人の事は詳しく知らない。詳しくどころか全く知らない。知ろうとしない方が良いような気もした。名前も、年齢も、職業も、何も知らない。想像するに年齢は40代に乗ってるか乗ってないか位だったろうと思う。もしその予測が当たっているとするなら、当時20代前半だった私の倍くらいの年齢ということになる。
「はよ帰らんと。親が心配するで」
「もう寝とるわ」
それなのに私は全力でタメ口だった。怖いもの知らずだったと今になって思う。おかしな人だったらどうなっていたことか。まあ、充分おかしな人ではあったけれど。
すっかり剥げて、かろうじて店名が読める看板を掲げた青果店。その二軒隣。閉まったままの錆びたシャッターの前にいつもそのおじさんは居た。汚いんだかダメージ加工なんだか分からないジーンズに、首元がよれたTシャツ。無精ひげと、薄い煙草のにおい。地面が汚いこともお構いなしに胡坐をかいて座って、いつも古そうなギターを抱えていた。いわゆる、路上ミュージシャンというやつになるのだろう。でも、そう呼ぶにはあまりにも肩の力が抜けていたし、人通りのない場所だし、歌もそこまでたくさん歌っていなかった。だらだらと弦の調子を整えたり、ギターを抱えたままぼーっとしたり、煙草を吸ったりしながら、たまに気が向いたら歌を歌う。その程度だった。
歌も私の知らないものばかりで、誰かのカバーなのか、自分で作った歌なのか、私には何も分からなかった。この人のギターや歌は、何かを達成したのか、何も叶わなかったのか、何かに立ち向かい続けているのか、何かを諦めたのか。知りたい気持ちと知らない方が良いのではという気持ちがいつも頭の中で言い争いをしていた。
おじさんの歌声は綺麗というより深い、透き通るというより複雑。聞き取れる限りの歌詞も同様で、一度聞いただけでは簡単に飲み込めない印象だった。まさに『詩』という感じだろうか。ただ、おじさんが作ったかどうかは知らない。
「なんか今の曲、狂気を感じる」
基本的に自分からは口を開かなかった私が初めておじさんの歌に感想を述べたのは、星空が出てくる綺麗な歌を聴いた時だった。私の感想に対してなのか、私が発言したことに対してなのかは分からなかったけれど、おじさんはフッと笑って煙草を吸い始めた。少しの間待ってみても、私の発言に対して何かを言ったりはしなかった。
「なんかこの曲は愉快な気持ちになる」
今度は悲しい歌の時にそういう感想を持った。おじさんはまた少し笑って、また何も言わなかった。綺麗な星空の歌で狂気を感じた時も、悲しい歌で愉快な気持ちになった時も、私はその感想を変だとは思った。歌を理解できていない。言葉を汲み取れていない。歌が本当に伝えたいことを私は感じ取れていない。そう思った。それでも何故かその歌が私の中に入ってくると、途端にそういう感覚が生まれてそういう感想を持ってしまう。本当はそれをおじさんに言うべきではなかったのかもしれない。失礼だったのかもしれない。それも薄々理解できていたけれど、少し笑って何も言わないおじさんのリアクションが好きで、私はそれをやめなかった。
大学を卒業した私は就職せず、フリーターになった。周りの友人たちが大きな会社に入社したり、大学院に進んだりと真っ当な人生を歩む中で、私はアパレルのバイト生活を続けた。だから皆が『入社式』『同期』『配属』など地に足のついたことを言っている中、私はずっと宙ぶらりんだった。
「ユカさん、見事にうちの大学の就職率下げましたねぇ」
バイト先の店に遊びに来た大学の後輩は、宙ぶらりんの私にそんな言葉を投げかけた。その顔は笑っていた。無邪気な笑顔でも、バカにした笑顔でもなく、引いているような苦笑いだった。嘘のない人だなぁと思った。
「いやぁほんまに申し訳ないわぁー」
仕事で鍛えた見せかけの笑顔を作って冗談っぽく返答しながら、初めて日が高い時間帯におじさんのことを考えた。
その日の帰り道、いつもの場所に行ってもおじさんは居なかった。だからどうしたということはなかったけれど、少し残念な気持ちになって、なんとなくいつもおじさんが座っている場所に同じように胡坐をかいて座ってみた。座ってみると当たり前に地面が近く見えて、近くで見てみるとレンガの状態は想像以上に酷かった。
割れて剥がれて飛び出た欠片を適当に手にとっては自分の人生を考え、欠片を穴に嵌めながら友人たちの人生を想像した。それを何度も繰り返しながら、次におじさんに会ったら、おじさんのこれまでの人生や、その人生に思うこと、いつも歌う歌のことや、ギターのことを聞いてみよう。聞いてやろう。と、思った。
「あれ、何か歌ってくれるんか」
その『次に会ったら』という機会はその日のうちに訪れた。いつもとは反対の立ち位置で、おじさんの表情はいつもとはどことなく違って、でもいつものように冗談を言った。
「いや、歌わんわ」
私もいつものように冗談が返せなかった。
その時のおじさんはいつもより煙草のにおいが強く、お酒のにおいもした。そこにもうひとつ違うにおいが混ざっていて、埃っぽさからパチンコかカラオケボックスだと想像した。でも、湿った熱を纏ったおじさんを眺めていると、次第にライブハウスのにおいなんじゃないかと思えてきた。
「今日は歌わんのん」
「うーん。今日はもうええわぁ」
「ふうん」
おじさんが私の隣に座りながらそれだけ会話をして、私はまたレンガを拾っては嵌めて、おじさんは煙草に火をつけた。私は煙草のにおいが苦手で、横から流れてくる煙が少し嫌だった。でも、数分前に考えた沢山の質問を投げかけるのをやめておこうと思ったように、その事も今日は言わないでおこうと思った。
「何しとん」
「レンガ。元通りにしとる」
「なんでぇ」
「わからん」
おじさんはフッと笑った。煙草の煙が多めに出た。そこまでは良かった。
「何かあったんか」
その言葉が聞こえてきた時、私は無性に腹が立った。腹が立ち過ぎて一瞬息が止まった。上手く説明できないけれど、私にとっておじさんとの時間はそういう事ではなかった。お互いがお互いの内に抱えるものを聞き出したり、打ち明けたり、そんな面倒臭い世界にしたくなかった。ハッキリとそう考えたことはなくとも、自然とそういう時間を過ごそうとしていた。それなのにおじさんは自分に何かがあって感情が高ぶっていたのか、強いお酒のにおいのせいなのか、急に一歩踏み込んできた。それが許せなかった。
「なんでいつもここで歌っとん。誰も通らんのに」
だから仕返しの気持ちも込めて、私もおじさんに一歩踏み込んでやった。
「なんでって別になぁ。誰かに聴かせようと思ってやってないからなぁ」
返ってきた声の中には微妙に弱い気持ちが混じっているように感じた。私は自分で踏み込んだくせに、おじさんが弱い部分を見せたことに腹が立った。おじさんがいつもよりも雑にギターケースを置いた事にも時間差でじわじわ腹が立ってきた。どんどん腹立ちが膨らんで、意味がわからなくなって、何か言わないとという気持ちになって、ギターケースを指差した。
「あれ、歌って」
「あれって何」
「知らんけど。狂気を感じる曲。星のやつ」
おじさんはえぇーと面倒臭そうに言って、短くなった煙草を少し長く吸い込んでから携帯灰皿に煙草を捨てた。長く吸った分だけ長く煙を吐きながら、足元にあるレンガの欠片を拾った。おそらくそれはその近くにある穴に嵌めるには丁度良いサイズだったと思う。なのにおじさんはその欠片を遠くに投げてしまった。
「俺、そこそこいろんな感覚とか感情を持って、広い視野でものを見とる方じゃと思っとったけど、狂気を感じるとか愉快な気持ちになるとか、その感想を聞く度に、自分の視野が片目くらいの狭さだったんじゃねえかって思うわ」
「…知らんけど」
回りくどい言い方するなぁと思いながら、やっぱりおじさんの歌う歌はおじさんの作った歌なんだろうなと私は考えた。
「この曲のタイトル教えちゃろうか」
そう言って雑に置かれたギターケースから傷だらけのギターを丁寧に取り出して、いつものように弦の調子を整えた。
「いや、ええわ。知りたくない」
私の即答におじさんは初めて声を出して笑った。その笑い声の余韻の中で、狂気を感じる星の曲を歌ってくれた。
それからも何度かおじさんには遭遇した。その後も関係性が変わるようなことは無く、ずっと同じようなやり取りでずっと同じような遭遇の仕方だった。日が高い時間に思い出すことも無かった。
しばらくして私は転職。あの商店街を通ることはなくなった。そのまた数年後には地元を離れ、もっとあの商店街から離れた。だから結局、あのおじさんが何者で、その後どうなったかなんてことも何もわからないまま。
今となっては綺麗に作り直されているらしいあの商店街。あの場所はどうなっているのだろう。おじさんはどうなっているのだろう。まぁ、そこまで興味はない。興味はないけれど、ずっと大切な記憶のままだと思う。
あれから10年くらい経って、日が高い時間におじさんを考えた回数がようやく2回に増えた。
この曲を聴きながら、そんな妄想をした。
お話から生まれる歌があるように、歌から生まれるお話もあるらしい。
ひとつの大きな作り話のまわりに沢山の本当を散りばめて、あの頃の私を救うような妄想を。そして歌を。