
霊性とその対象
私たちの世界では人格という言葉が使われますが、最近は霊格や霊性という言葉が聞かれるようになりました。
この霊格や霊性の「高い」「低い」ですがこれらを地球上で比較するには最低限の基準というものがあるように思い、そもそも霊的存在としてある意味での規格外という異なる土台のものを同じ基準でその高低を評価して良いものかどうか日々疑問を感じながら過ごしています。
例えば機械には性能というものがありそこに耐久性であったり処理速度であったり様々なものがその性能の差として比較されます。
しかしながら故障して不完全な状態の機械についてはそこに性能の高いも低いもなくそもそも正常な機械と故障した不完全な機械は性能では比較対象にならないわけです。
霊性の問題にせよ肉体に起因する問題にせよ、ある種の障害を抱え不完全な状態の存在を正常な存在と同じく比較し「高い」「低い」を論ずることに無理があるように思いますが、しかしながら私たちの世界ではこれを同じに扱ってしまうことで人は「あいつは普通ではない」「あいつはおかしい」となり、時に怒りに囚われ、許せず、それが原因で人々が負の念に囚われ憎しみ合う光景を散見します。
私たちの考える「普通」とは、同じ普通でも個人的主観によりその基準は大きく変わることが多いため普通という概念そのものは大変曖昧なものです。
例えば反社会性や否社会性パーソナリティ障害と称される社会的規範や他者の権利・感情などを軽視し人に対して不誠実で欺瞞に満ちた言動を行う者や暴力を伴いやすい傾向がある者など、私たちが考える道徳的概念を持ち合わせていない人々もこの世には多数存在します。それは霊性に起因するものであったり、又は肉体的脳機能に影響を受けるものであったり、更には生まれ育った国の文化習慣など環境に起因するものも多いことでしょう。
にもかかわらず人間の肉体は見た目には同じです。その中に宿る霊的存在が多種多様であったり医学的脳機能に大きな差があるなどした場合、これらを同じ統一基準で扱い比較することにかなり無理があるのではないかと考えさせられています。
ある人は理性あり高い神性を持ち合わせ、またある人は高い獣性を持ち本能に生き、にも関わらず私たち人間は「同じ人間」というカテゴリーで扱われ同じ空間で生活を共にします。
小学一年生は一年生の教室にて学び、小学六年生は六年生の教室でそれぞれ区分けされ適正な基準にて学び、そして彼らは同じ小学校という空間の中で学びます。
しかしながらその空間にライオンやトラやハイエナなど弱肉強食の猛獣を入れればどうなるでしょうか。仮に肉体は同じ人間と過程してもそこに人間と猛獣を同じ霊性のカテゴリー基準で比較できるでしょうか。表現は不適切かもしれませんが、それは人間と野生の猿を同じ教室で対等に扱い比較し共に同じであるべきと高い道徳心と倫理観を両者に同じく求めるに等しいように思われます。
最近ではスイスの心理学者カール・ユングが定義したように個性化された固有の魂を持つ人間と、それを持たない集合化された魂により生きる人間について語られるようになりました。これはある意味では動物から人間に近づく過程におけるような差異があるにも関わらず見た目が同じ人間というだけで同じ道徳心と倫理観が求められるということを意味します。
ちなみに最近は同種の話で「個性や性質」という多様性や発達障害とされる方々の特別な才能などについて注目され論じられることが多いですが、今回はその種の話ではなくそれ以前の土台の相違の話として日頃より人の有り様を見て思わされることになります。
正常な機械と故障した機械
人間と動物
本来は無理であるにも関わらずこれらを同じとして扱い「人はかくあるべき」とし、人は皆同じであるべきとする共存社会の中で、多くの人々が割り切ってその土台を区分けし客観的に考えることができずそれ故に負の念を抱き憎しみ苦しむ光景が私の目に映ります。
・・・
(本記事は全文無料公開記事です)
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?