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りんごあめと花火(3)

家に戻る。うちは市営住宅に住んでいて、年季の入った建物は、
いつもくたびれた様子でたたずんでいる。

「ぎいっ」
部屋の扉が鳴く。
鈍く重い音が不気味だと最初は怖くも感じたけれど、
いつからか、そのマイペースで、たまに甲高い音も立てたと思ったら、調子のいいときには静かに開くその扉が、人間くさく感じて一方通行な親近感を私は楽しんでいる。
「ああ、今日もいつものぎいっね。おはよう」
などと挨拶さえするほどだ。

「ただいま」

といっても誰もいない。うちはお母さんと2人暮らしで、
お母さんはいつも帰ってくるのが遅い。
「自分のおうちなんだからね、帰ったら必ずただいまっていうのが礼儀なんだよ」
冷静に考えれば、いったいどういうことなんだろうと思うのだが
礼儀なんて普段口にしないお母さんがそういったことに、小さいころの私は素直に従った。
そしてその習慣が不思議なくらい続いている。

夜はたいてい自分で作るか、たまにお母さんが朝作り置きてくれるか、昨日の残りか、どれか。
夕食を済ませ、しばらく時間が進むとお母さんは帰ってくる。
「ああ!疲れた!ただいま!」

たいていこのセリフで帰宅を知らせてくれる。
お母さんの仕事は大変なのか、いつも疲れ果てた顔をしてソファーに崩れ落ちる。
「最近暑すぎ!もお汗やばいわ!」

私はあまり話しをしない。
お母さんが嫌いなわけではない。むしろいつも遅くまで働いているお母さんを尊敬する。
ひいちゃんのように声が大きいし、さっちゃんのように誰にでも気さくに話しかける。
「なあ、昨日お前のお母さんとしゃべったぞ!お前のお母さん、おもしろいなあ」
クラスメートからお母さんの事を聞き、私のクラスメートのこと覚えているんだと
お母さんの記憶力と社交性が誇らしくもあった。

いつもがんばっているお母さん、疲れていても明るいお母さんが私は好きだ。
でも恥ずかしくって言葉には出さない。

あまりわがままいわないようにしよう。
疲れてるから、早く休んでほしい。
気遣う気持ちが、いつしかそっけない私を作り上げていた。
いや、どうなんだろう。

「そういえば」
あたためなおしたカレーをほおばりながら、お母さんは何かを思い出したのように
スプーンをとめた。
「もうすぐ花火大会だよねー。あんたまた友達と行くの?」
口まわりについたカレーをティッシュでふきとりつつ、私に尋ねた。
「わからない」
「そういえばさっちゃん元気?」
「うん」
「あの子、あの声の大きい元気な子、なにちゃんだっけ?あんたの友達でしょ?」
「ひいちゃん」
「そうそう!元気?」
「元気かどうか知ってどうするの?」
「いいじゃんそんなこと、あんたも細かいねえ」
「なにそれ」

お母さんはいつもいろいろ聞いてくる。
私のことを心配してくれているんだろう。
でも、中身のないことを延々と聞いてくるし、独り言も多い。
クラスメートにもお構いなしに声をかけるのはやめてほしい。

「みんなで花火とかいいね。楽しんできなよ」

楽しんできなよ、といったお母さんの横顔が、妙に疲れているように見えた。
休みも少なく、残業も多い。
今食べているカレーも、その中に入っているにんじんも、
最近高くなったお肉も、全部お母さんのお金だ。

うちはひいちゃんの家みたいにお父さんもいないし、
みのりちゃんのように新しい服も頻繁に買えない。

月末になると、お母さんが通帳を見ながら、
うーん、うーんと頭を抱えている姿を知っている。

うちはみんなとは違うんだ。

頭上のライトの周りを一匹の蚊がぐるぐる飛んでいる。
見ていないテレビで、お笑い芸人が大声でなにかを弁解している。
お母さんはすっと立ち上がり、飛んでいる蚊を両手で捕まえ、
そして外に出した。

「暑い!そして今日のカレー辛くない?」

この日は浴衣のことを切り出せなかった。

今年の夏は暑い日が続いたが、
夕方になると急に灰色の雲が現われて、さっきまで明るかった空が暗くなる。
ぽつぽつと水滴を感じたと思ったらすぐに大雨になり、
うなるような雷がなったので、布団をかぶって耳をふさぐ。
目を閉じる。真っ暗な世界の奥で、さっきの雷が遠くで音を立てている。
怖いから、遠くへ行け。
誰もいない家の中、私はぶつぶつと念じて時をやり過ごす。
しばらくすると体中が暑くなり、サウナのように汗がいっぱいでてきたので、
我慢できずに布団を放り投げた。
そんな日が続いた。

8月7日。
花火大会の前日。毎晩花火大会のことを聞く母親に屈して、
ついに浴衣のことを言わざるを得なかった。
いや、正確に言うと、お母さんは偶然道で会ったさっちゃんからそのことを聞いていたのだ。

「ちょっとさ、なんで浴衣のこといわなかったのよ」
さっきまで食べていた夕食の後片付けをしながら、お母さんはあきれるような顔をしていった。
「別に、だってうち浴衣ないし」
「どうすんのよ」
「明日いけないってみんなに電話する」
「なんでよ、せっかくの花火大会なのに」
「だって浴衣ないし」
「浴衣なんていいじゃないの、別に」

台所で洗い物をしながら、こちらを向かず背中で話すお母さん。
私だってみんなと行きたい。でも浴衣がないからみんなとはいけない。
いけないのはうちがお金がないから、行きたくても行けないのに。
私は、浴衣なんてっていうぶしつけな言葉に思わず腹が立ち、
「だってうちお金ないじゃん!」

感情にまかせてお金のことを口にしてしまった。
どうしよう。

私はすぐ我にかえり、いってしまったことをすぐ後悔した。
お母さんは水道の水をとめ、黙ったまま背中をこちらに向けない。
怒られる。
音が消えた。水道から落ちる水でさえも、この状況を察して限りなく静かに、音を立てないようにシンクの受け皿へと落ちてゆく。
私は黙ってうつむき、怒られることをすでに想像してしまい、涙が先行して出そうになった。

お母さんがゆっくりとこちらにやってくる。
隣に座る。
そして、
「あんたさ。・・・ううん。ごめんね。いつも心配かけてるよね。ごめんね」
いつもなら近所のよく吠える犬のように怒りの声をあげるお母さんは、
このときはそれ以上何もいわず、
やさしく、そっと、ふわっと、私をつつんでくれた。
お母さんの両手から不思議と温かみを感じる。
私は、自分が感情に任せてお母さんを傷つけたこと、
自分のやったことが情けなく、その日はぼろぼろ泣いた。

「ぎいっ」

遠くで鈍く重い扉の開く音が聞こえた気がした。

(4)
https://note.com/yu_fish/n/n4a24d7ff9385

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