好きな仕事をすべき論Vol.129
中国に駐在していた同期が久しぶりに帰国したので、先日一緒にご飯に行った。コロナ渦で全く帰国できなかったので、日本への帰国は2年ぶりだ。彼と会ったとき、少し疲れている様子だったが、帰国疲れだろうと決めつけ、特に気にしなかった。
レストランに入り席に座ると、彼は奇妙な質問をしてきたので驚いた。「仕事は楽しい?」私は唐突な質問だと思いながら、現状の仕事の不満をオブラートに包んで答えた。コロナ渦で海外出張に行けないこと、仕事が単調で少し飽きてきたこと、などだ。日本のサラリーマンなら誰もが感じているような、どこにでもある不満である。
彼は、私のサラリーマン的な愚痴を聞くと、「それではダメだよ。好きなことをしないと」と、強めの口調で言った。久しぶりの再開の初っぱなからなぜ諭されないといけないんだ、と違和感を感じながらも、彼の顔を覗きこむと、その言葉は私ではなく、彼自身に言っているようだった。
実は、彼は仕事が上手くいっていなかった。あくまでも客観的な感想だが、職場内で他の人から彼が叱責される場面をよく見ていた。助けてあげたい気持ちもあったが、チームが違うこと、日本と中国の物理的な距離もあり、彼をヘルプすることがあまりできなかった。彼に対する叱責は日に日に強くなり、最近では諦められてしまっている状態まで来ていた。チームとしては崩壊寸前である。
そんな危機的状態の彼から好きな仕事をすべきだ、と諭される言葉を言われたら、私でなくても、その言葉は彼自身に向けられているのでは?と感じるだろう。実際、彼は仕事に対して前向きではなかった。彼は、仕事の内容が好きではない話から、同僚との価値観のずれ、最後は人は好きなことをして楽しく生きるべき論を語った。
好きな仕事をやるべき論について、私は大賛成である。人生の大半の時間を使う仕事が楽しいにこしたことはない。できることならお金を払ってでもしたいと思える職に就きたいと願う。それが理想なのはみんな同じだ。でも、現実は違う。「こんなはずではなかった」と思うような出来事ばかりが人生だと今は本気で思う。
10年前の私なら、彼の好きな仕事をすべき論に大きく賛成し、今の仕事の不満を何時間も語り合い、最後は自分がいかに不遇かを数百の言葉で語っていたと思う。でも、今の私は少し違っていた。彼の好きな仕事をすべき論にささやかな反発をしたのだ。彼の好きな仕事をすべき論は「地に足が着いていない」と感じてしまった。
地に足が着いていないという意味は、現実の仕事が上手くいっていないから、仕事を嫌いになり、好きではない仕事はすべきではないと言っているように聞こえてしまった。現実を冷静に見つめた先ではなく、現実から逃避したい逃げの感情に大義名分を与えるための、好きな仕事をすべき論のように感じた。仕事に本気で向き合った先で「何か違う」と気づき、好きな仕事をすべきと考えるのと、逃げ出したい感情から生まれた好きな仕事をすべきという言葉は、出てきた言葉は同じでも内容は全く違うと感じた。
もちろん、好きこそものの上手なりという言葉もあるため、好きだから仕事の質も上がるという事実もあると思う。しかし、本気でやっているように見えず、かつ成果も出していない現状で「好きな仕事をすべき論」を語るのは、何か違うなと、感じた自分がいた。この感想が昔の自分とは変わってしまったなによりの証拠だろう。
そもそも、好きな仕事とはなんだろうか。好きとは最初からある状態なのだろうか。それならどこかに落ちているものなのか。私の場合、好きとは最初からあるものではなく、後から変化したものが多い印象を受ける。私は中学の時は卓球部だった。好きで卓球を始めたわけでもなく、入りたい部活に入れなかったので卓球部に入った。だから好きでも何でもなかった。
卓球の世界で結果を出せず、そのまま中学3年生になった。そして、ほんと奇跡のようだが、なぜか現状に危機感を突然持ち、猛練習を始めた私は、最後は県大会を通り越して関東大会進出まで行くことができた。あの結果は今思うと出来すぎた逆転ストーリーだと思う。そして、結果が出た後では、卓球に対する見方がガラッと変わった。
見方というのは、卓球が好きになったのだ。あんなに恥ずかしいと思っていた卓球が、なんと好きになったのだ。この経験があるから、好きという感情は始めから持っているわけでもなく、熟達の過程である一定のレベルを越えたら好きという感情も芽生えるのではないかと仮定している。
と、彼の好きな仕事をすべき論に対して、できるから好きになるのではないか論をささやかな抵抗としてぶつけてみた。というのも、自分の仕事を彼に批判されたような気分になったのが反抗の理由だ。(小さい男だと我ながら思う)ただ、目の前の仕事が好きではないとしても、出きる限りのことはすべきだと思うし、どんな仕事からも楽しみを見つけることはできると思っている。
年をとってからは、仕事の内容よりも、誰と仕事をするかのほうが大事ではないかと強く感じる。これは仕事の本質ではないだろうか。どこかの本で読んだが、「最高の仕事を最低の仲間とするより、最低の仕事を最高の仲間としたほうがいい」、という言葉があった。これは仕事の本質を突いているなと思う。
最高の仲間という存在も、最初から最高の仲間が存在していることはなく、一緒に仕事をして問題を乗り越え成長していくことで最高の仲間に近づいていくと思う。そのためには、周囲の期待値を越える仕事を続け、誠実かつ協力的な態度でチームの一員として仕事をするのが大事なんだと思う。
自分はまだ全然できていないが、少しでも仕事の本質を理解できたのは大きな成長だと感じている。同期の今後が明るい未来であって欲しいと願うが、好きな仕事という聖杯を探すよりも、目の前の仕事をまずしっかりとこなし、周囲との関係修復を優先すべきでは、と感じている私がいた。
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