精神医学は『偽者論』の夢を見るか?
中井久夫は1985年「反螺旋論」(『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫に収載)の中で、歴史は繰り返されるというクリシェについて、歴史が繰り返されるわけではなく新しい状況に対する人間の対応が過去と同じまま繰り返されるのだと述べ、新しい状況で新しい思考を放棄することへ警鐘を鳴らした。また同論文の中で、精神医学が新しい社会状況における新しい病態に対応するにはおよそ20年かかるということを述べており、たとえば境界例という概念が注目され始めたのが70年代で、リネハンが境界性パーソナリティ障害に対する弁証法的行動療法を成書の形で上梓したのが1993年であり、中井の指摘を傍証している。
中井久夫はまた1987年に「精神科医の「弁明」」(同書に収載)において、日本の祝祭的な気分が薄れつつあることを早くも察知しながら、未来の日本社会では「変身に長けた人は、自分自身の枠組みのはっきりしない、その場その場の対人関係しか持てない人になるかもしれない。器用にそうなった人はめだたないだろうが、不器用な人は、ノイローゼとも性格ともつかない対人障害を起こすかもしれない」(291頁)と述べており、21世紀の対人関係を見透かした。このような対人関係は今や私たちの日常と言え、「病む」という言葉も日常性の証票でこそあれもはや疾患を指すものではなく、性格だと素朴に眼差されるものでもない。このようにかつてとは異なる「病み」をスタンダードとして取り込んだ社会でサバイブすることを最も早く捉えたのは精神医学ではなく、おそらく文学の世界であり、その次に社会学とジャーナリズムの世界なのではないかと思う。精神医学は遅れることさらに20年あまりで現在に至るのではないだろうか。中井久夫の警鐘を我々、現在の精神科医は聞くだろうか。2022年9月、金原出版より尾久守侑『偽者論』が上梓された。この記事では、本書の内容に触れながら、特に本書が用いる方法や形式を考えることで、現代の精神医学に対する本書の意義を明らかにしたい。
本書は、著者が自身を「偽者」だと感じるという実感の表明から始まり、出会った幾人かの人の中にも同じ性質を嗅ぎ取る。著者はこれらの人を「偽者クラスタ」と名付け、その特徴を横断的に考察し始める。「偽者クラスタ」の特徴は5つあり、それぞれ「世間体・対人への過敏性」「正確すぎる周波数合わせ」「心の距離の調節障害」「健常への擬態」「虚無と諦念」と表現され、対応する各章で詳しく考察される。続く章で「解題」として「偽者クラスタ」の特徴を精神分析学におけるスキゾイド論に準拠して考察する。
特筆すべきはその表現方法であり、巻頭に散文詩が置かれ、本論は各章とも冒頭に小説仕立ての導入があり、論文的な内容部を挟むようにして章末部で小説に回帰する。また各章の間に断片的なコラムが挿入され、まるで読者の統一的な全体への志向性を阻むようである。このような、巻頭の散文詩、小説と論文の交代とその反復、そして全体の断片化が、本書の表現方法の大きな特徴である。本書が出版された直後、Twitterでヤンデル先生が本書を「医学書ではなくて芥川賞ノミネート系の本だ」と評価していた(2022年9月10日)。たしかに従来の医学書の形式を逸脱しているのは間違いなく、知見の表現、根拠の提示も医学書のものではない。ではこれを医学書と呼べないのか、これを医学的な知見と言い得ないのか。私はあえて本書を医学書として捉え、本書の知見とその表現を精神医学の方法として捉えることを試みる。それは現代という新しい状況を捉える新しい視座だと思うのである。
本書を医学書として読む上で重要な概念が「当事者研究」であり、著者自ら本書を当事者研究として解釈している。当事者研究というものを辞書的に定義するのは難しく、当事者研究を名乗るものにも様々なバリエーションがあるが、ひとつの傾向として自分の困りごとに自分で「病名」をつけてそれを自ら研究するという形をとることが多く、その点からすれば『偽者論』は当事者研究の手法をとっているといえる。
少し話が逸れるのだが、熊谷晋一郎は國分功一郎との共著『〈責任〉の生成』(2020年, 新曜社)の中で当事者研究とアルコホーリクス・アノニマス(AA)との共通点を考察し、当事者研究の元祖たる浦河べてるの家がキリスト教の信仰を背景にしている点に触れつつ、キリスト教における神の前での無力という平等性に着目しているのだけれど、現在日本で当事者研究が言及されるときにこの宗教性に触れることはあまりない。私はこの点が重要なのではないかと考えていて、特に当事者研究を組織的に行うにあたり神のような超越的な権威の座が空白だと、世俗のカリスマがその空座を専有して権威をもつヒエラルキー構造が生じる危険があるのではないかと考えている。実際に当事者研究の名を冠する組織でパワハラ・セクハラが告発されたことがあり、これはいち組織の問題ではなくもっと本質的な問題としても考えうると思う。また、権威と当事者の問題というと、障害や精神疾患の当事者の言葉が権威ある医師や学者によって封じられ簒奪されてきた歴史があり、当事者という名にはそれに対する抵抗の意味があるゆえに、権威の付与された者は当事者を積極的に名乗ることに慎重になるべきであると私は考えている。医師がなんらかの当事者性を持つことは当然あるにしても、医師が大々的に、特にすでに社会的なスティグマ化のさなかにある疾患・障害の当事者を名乗り、その当事者研究を標榜することに私は反対であり、私自身も病気の体験に基づいたものを書いているけれどそこでは当事者と名乗らないことをルールとして自分に課していて、他の当事者を代弁するような範囲に拡大しないことをこころがけている。この点について『偽者論』では明確に何かを述べているわけではないが、本書はまず「偽者」という医学的でないカテゴリーを仮説的に設定するところから始めており、さらに著者は本書の当事者研究としての性質をあくまで本書のひとつの側面としてのみ捉えているようであり、この言葉を控えめに使用しているような印象を受けた。
当事者研究として発表されたものにはすでに、詩、小説、論文という方法の違いを意識して書かれたものがあり、それが横道誠の『みんな水の中』(2021年、医学書院)である。横道はヨーロッパの文学を専門とする文学研究者であり、成人後にASD/ADHDの診断を受けた。まるで水の中にいるような、水の壁を隔てて世界に触れているような自身の体験を表すために、詩、論文、小説という3つの章にわけてそれぞれの方法で書く。横道にとって母語と呼べるのは「自分語」でありそれは他者との共役が難しいが、それが彼にとって第一次的な思考法だと言う。Ⅰ部で「自分語」で語った111編の詩は、定型発達者の世界に対する違和を表しながら、紙面上の文字の配置において造形的な表現でもあり、それが最も横道の身体になじんだ表現として提示される。Ⅱ部は111編の詩それぞれの解題・註釈であり、解説・論文的なもので、横道が「第一外国語」と呼ぶ標準的な日本語で書かれる。三章は小説形式であり、生活に即して視点人物の行動と思考を語る。この本の執筆過程について横道は「Ⅰ部とⅡ部は、私の生のひとつの現実を別々の角度から再現したものと言って良い。両者は相補的な性質を有し、ふたつがそろって私は私を等身大の自分として提示することができる。さらにⅢ部が、Ⅰ部とⅡ部で表現できない内容を補完する」と述べている。単純化しすぎてはいけないが、言い換えるならば、詩で身体感覚的なリアリティを、小説で状況・エピソード・文脈的なリアリティを提示し、論文でそれらのリアリティを裏打ちするように自らの生のありようを解説していると思われる。これが横道誠の方法である。
本書はどうか。まず一見して特徴的であるのは、小説的方法と論述的方法が分かれておらず、混在し、互いに交代し、それが反復される点である。そして各章の間に小さなコラムが挿入され、各章が断片化している。著者があとがきで述べるように、本書には著者自身の内奥について露出と擬態という相克する力動が働いている。その相克は著者によって明示されるけれども、同時に、「偽者クラスタ」を分析するその手つき、書かれ方によって実演されてもいる。読者の思考の流れに周波数を合わせることで生じる記述の平明さ、論理の明快さによって読者は著者の内奥にある繊細な暗さから目をそらされる。熱のないユーモアによって著者の心理的な世界と距離をとられる。各章を小説という方法で導入しフィクションへの回路という逃げ道を用意することで読者は著者本人へ通じる道を見失う。断片化した文章たちによって読者は著者の問題の中心点を求めることができない。
では読者は著者の内奥の世界にふれることができないのだろうか。そうではない。著者は自らに通じる地平を我々に示している。それが巻頭の散文詩である。この詩は本論の外部にあり、本論を図とするならばこの詩は地である。図と地。図と地は反転する。本書では巻頭で詩を図として一旦露出することによって、実はこれが地であったということを巧妙に隠蔽する。地が図に擬態する。この詩は何なのかという疑問が明確になる前に読者は通り過ぎてしまう。だがこの詩こそが本論の内容を支える土台になるのであり、それは浸透した印象として読者の読みを規定し続ける。その印象が著者自身に通じる地平を成している。だから本書は一種の擬態として断片化を志向しつつも頭から順番に読むことを読者に求める。実際に著者がTwitterで「皆さんとりあえず「諦念」より先まで読んでください」(2022年9月23日)と投稿していたのはその傍証となるであろう。
詩、小説、論文はそれぞれ同じものを別の方法で語るのだ。
著者は最終章「脱出」で本書全体を俯瞰して述べる。本書で行われたのは、著者の体験するものが世間からどう見えるかということを他者を鏡として考え、そこで浮上した「偽物」としての特徴を、今度は他者の中に見出し、私だけの世界ではなく、「私に似ていると私が思っている人」の世界を描くことだった。この世界は著者と他者の一部を範囲に入れた青い領域で図示され、「青い世界」と呼ばれる(なぜ青なのか、考える余地があるがここでは深入りしない)。著者と他者、つまり読者は、自己のうちのいくつかの断片によって同じ領域を共有しており、ひとつの世界を作っている(そして他にも複数の世界をさらに他の他者と共有している)。その「青い世界」をどのように描き出すのか。そのために選ばれたのが本書の方法であり、「青い世界」について詩、小説、論文という方法で活写するというものだった。論文的な論述によって概念の輪郭が描かれ、詩によって内部に具体性が宿る。小説化することによってそれらが運動し、文脈を獲得して、偶然的な事象は必然性を帯び、部分的な記述は全体を志向しはじめる。詩が巻頭に置かれ、章立ての外に置かれたことを思い出そう。この散文詩は口語的な表現の中に語法的なずれや語のあいだの無理な接近が忍び込み、言語のがたつきが物質的な手触りを与える。既存の一般的な言語構築にあいた緩みや間隙に、普段意識しない身体感覚が喚起され、その感覚を著者と共有する。本書の論旨という「図」の外側にある「地」としての詩の世界、これが「青い世界」の「青」を生んでいる。
さて、著者は本書で「医師がある特定の類型を同定していく手法」を使ったと述べている。ある人Aの一部にある要素Xを見て、Bにも要素Xを見出し、この両者を似ていると判断する。またBとCとのあいだにはまた別の似ている要素Yが見いだせるとする。このときAとCは似ている要素を持たないにもかかわらず、Bと似ている人として同じグループに括ることができる。このようなA、B、Cの関係は「家族的類似性」と呼ばれ、我々が精神疾患を名指すときの原理であると中井久夫が指摘したものであり、同様の指摘は米国の心理学者・哲学者ピーター・ザッカーによって全く異なる文脈からもなされている(『精神病理の形而上学』学樹書院, 2018年)。本書で著者が用いた手順はまったくこの通りであり、「偽物クラスタ」という概念が浮上する過程は精神医学と原理的に矛盾しない。異なる点があるとすればそれはやはり「当事者研究」的な側面をもつということであるが、それは一体どのようなことだろうか。ひとつの理解は、当事者研究では当事者が主体であり、当事者が当事者の言葉で、当事者の生活の中で語るということではないだろうか。一般に、医学では患者を対象化し、医学の用語によって、均一化された状況で観察され、語られる。触診で腹部に圧痛ありと言えば、お腹を触った医師が患者の生活を想像し、突然お腹が痛み始め、どんどん強くなっていく「あの」痛みを自分のことのように感じているというわけではなく、診察室でお腹を触ったら患者が痛いと言った、もしくは痛そうな動きをしたという観察が得られたということである。当たり前だと思うかもしれない。しかし本当に当たり前なのか。特に精神医学においては。
精神科の臨床実践は、科学としての精神医学とのコミュニケーションの循環の中で、その「客観性」や「再現性(信頼性)」の向上を重要な課題としてきたが、それでもいまだに患者の体験と医師が患者を前にしたときの医師自身の体験の質を診断基準に含めることから逃れられない(DSM-5の統合失調症の操作的診断基準には「幻覚」や「まとまりのない発語」が含まれるが、「幻覚」は患者の感覚経験そのものであるし、「まとまりのない」と質的な判断をするのは医師である)。精神科臨床における質的な性状把握とその所見記載が内科疾患などと異なるのは、精神科臨床では患者および医師の体験の質「そのもの」が疾患を構成しており、単なる病気のメカニズムの表層への現れではないということだ。
精神科臨床での所見記載は検査機械による測定値の情報とは異なり、その当時の体験の質を事後的に把握するための手がかりである。そしてこれは患者が自らを語る言葉についても同じで、医師は患者の言葉を手がかりに体験の質を感覚的・身体的に把握し、それが医学的所見となる。古典的に精神医学はこのような体験の質を対象にしてきたが、そのことは今や忘れられつつある。それは科学的・生物学的精神医学が覇権を握ったからだと言うこともできるけれども、それはあまりに単純な見方で発展の可能性がない。それよりも、もしくはそれだけでなく、医師と患者の厳密な分離、医学的な術語を用いた記述法、診察室というセッティング、聞き取りと観察の非対称性といった、精神科臨床の伝統的な諸条件に依拠する方法が限界になってきたと考えることはできないだろうか。これは古典的な知識と方法が不要になったという意味ではなく、古典的な知識と方法はさらに掘り下げられこそするが、これ以上範囲を拡大することはできないのではないかということだ。今や精神科臨床が精神医学に求めるのは新しい測定、新しいモダリティで精神疾患を捉える方法であり、もしくは脳という臓器へ直接介入する治療法であり、これは従来の方法が、現在求められる精神科臨床の幅、範囲に追いついていないことを表してはいないか。そしてそれは最も基本的な症状論、症候論に関しても同様であり、つまり、私たちは精神科の問題を語る新しい方法、新しいセッティング、新しい言葉を必要としている。
ここにこそ『偽者論』を医学書として読む意義がある。私たちは透明な主体でありつづけることはできないし、今まで使ってきた言葉の使用から外に出る経験をし、新しい体験の質を知らなければならない。全ての精神科医が詩を書き小説を綴り、自らの病んだ要素を表現する必要はもちろんない。しかし、それをする者は必ず現れる。そのときにそこから新しい方法と体験の質を摂取しなければならない。中井久夫が言うのはそういうことではないだろうか。偽物論においては、巻頭の詩による「真っ暗な虚無」の質感と、小説的構造による反復の虚無感は、読者の臨床的な守備範囲を拡げるだろうと思う。私たち精神科医はこの書籍を医学書として読むべきなのだ。