イマジナリーフレンズ

頭の中がうるさいという話をした。

いつの頃からか、延々と頭の中で会話が繰り広げられている。主に自分が話していて、その話し相手は基本的に頭の中にしか存在しない、いわゆるイマジナリーフレンズ。「フレンズ」というのがポイントで、相手は複数いる。何人かに話していることもあるし、たった一人の相手に話していることもある。
その相手は、稀に実在する人物であることもある。イマジナリーフレンズの場合、彼らもかなり喋るしそれぞれ自我をもっていてわたしの話に意見をしてくることもあるが、さすが実際に存在する人物が頭の中で話すことはない。

イマジナリーフレンズは、わたしの中に存在するものの性格も更には性別も何もかも違うので、わたしに様々な新しい発見をさせてくれる。
わたしが壁にぶち当たった時はすぐさま回答してくれる、それも一人一人。だから、わたしは多角的な視点から物事を判断できる(と、思っている)。いいのか悪いのかは置いておいて。

でも最終的な結論は実際の生活の「わたし」が出すし、頭の中の「わたし」も実際の生活の「わたし」と同じ性格なので、多重人格ともまた違う。ただ時間が十分にあれば、ある回答を出す中で頭の中のいろんな意見を聞いていることができるが、余裕がない時や咄嗟の判断を求められた時は、彼らの話を聞いている途中で結論を出してしまうため、普段のわたしと違った言動をすることもある。というかあるらしい。と、いうのも周囲からよく日によって人が変わったように見えると言われるからである。おそらくそれは、これが原因であると思われる。

余談だが、私はこのイマジナリーフレンズとかなり仲が良く、彼らとはよく一緒に遊んだりもしている。だから孤独ではない。人生で一度も孤独を感じたことがない。
でもふとした時、現実に戻った時、わたしは独りぼっちなことに気づく。世界が急にシーンとする。寂しさと不安と恐怖が襲ってくる。
でもまたすぐ空想の世界に入るので何ら問題ない。

そんなこんなでいつも頭の中が騒がしいので、何か集中してやらなければならないことがあった時に困る。例えば、現代文の問題を解いているとき、レポートを書いているときひたすら頭の中が煩くて、全くと言っていいほど集中できない。もう何年もこんな状態なので、流石にうまく付き合うことができるようになったけれど、たまーにどうしようもなく生きていくのが大変で、日常生活に支障が出る。

大学生の時、あまりにもこの症状がひどくレポートが進まない夜があった。果たして皆んなこんな夜があるのか、いったいこれは何なのか、急に不安になりネットで調べたところ、「普通」の人にはこのようなことがないということ知った。衝撃だった、頭の中が静かな人がいるなんて。いや、大多数の人は頭を常にフル回転させていることがなくて、頭の中でつらつらと言葉が紡がれていくことがないなんて。こうやって吐き出さないと体中に溜まった言葉で苦しくて動けなくなることがないなんて。何もしていないのに、ただ生きているだけで疲れることがないなんて。

そして、頭の中が騒がしいということは「普通」ではなく、更には、「個性」でもなく「症状」であることを知った。きっと治さなければならないものだった。
普通じゃないとわかったからにはこのことは誰にも言ってはいけないのだと思うようになった。「変な人」だと思われないために、一生懸命「普通」に生きてきたこれまでの私に迷惑をかけないように。わたしは、なんとかこれを「個性」だと言えるよう頑張った。旧ツイッターで、「リンゴ」を見たときの頭の良い人とそうでない人の違いという話が話題になっていたことを思い出した。
「頭の良い人」は、「リンゴ」をみたとき、「Apple社」「青森県」「アダムとイヴ」など連想する能力が高いとされていた。これだ!と思った、私が悩んでいたことが肯定的なこととして取り上げられていた。

そして連想ゲームみたいになってしまうのは、「外交的直観」という心理機能が強いということ、その心理機能に基づいた性格診断があることを知った。いわゆる、MBTI診断と呼ばれるものだった。
MBTIをひたすら調べつくした。調べれば調べるほど、これまでの人生でわたしが苦手としていたことが、人と話が合わなくて悩んでいたことが、「個性」として取り上げられていた。そこに救いを求めて、ひたすら調べた、余るほど時間のある大学生活のほとんどを費やしたと言っても過言ではないくらいに。

ある時、突然、MBTIが大々的に取り上げられるようになった。韓国で流行っている性格診断とのことで、正確には違うものの16personalitiesをする人が増えた。
当然のことながらそれに反対する人も多く現れた。「たった4文字で人の性格を表すことなどできない」「そんなもので人を判断するな」と。「MBTI診断に囚われすぎている人、今までどうやって生きてきたんだろう」といったツイートをみかけた。それを見た瞬間に心が砕け落ちる音がした。現実に戻った、ああそうか、「普通」の人は、性格診断で自分の人生の答え合わせをしなくても生きてこれたんだ。わたしの救いが、一瞬で壊された瞬間だった。それからはもうMBTIに救いを求めることもなくなってしまったし、大学生活をかけて調べつくしたMBTIは、世間話のブラックリスト化しその話題さえ口に出せずにいる。

誰にも分ってもらえないということを重々承知で、ふとした瞬間に頭の中がうるさいという話をしてしまった。
誰にも言うつもりはなかったのに、夜だったらから、疲れていたから、いや浮かれていたのかもしれない。
案の定わかってもらえなかった。自分にはできないから羨ましいと言われた。羨ましい。か
それを「個性」としてうまく落とし込めているなら肯定的に受け取れたのかもしれないけど、今の私には無理だった。私が治したいと思っているものにそう投げかけられたのは、熱が出ているときに、私はいま熱を出すことができないから羨ましいと言われたくらい御門違いの話だった。
同時に、イマジナリーフレンズは味方になってくれるのかと聞かれた。面白い視点だった。そして、今思い出しても泣いてしまうくらい救われた言葉だった。勘違いも甚だしいけれど、彼女なりに悩んでいるわたしを救おうとしてくれた言葉のように聞こえた。
味方。か、そういわれれば味方になってくれているような気がする。イマジナリーフレンズに否定されたことはないかもしれない。自分を違う視点を持っているけれど、それは意見であり価値観であり、わたしを否定する存在ではない。二十数年、わたしと共に歩んできてくれた存在だったから。

いまのところ、これが原因で大きな支障が出ているわけではないし、彼らにわたしの人生が彩られている時もあるから、しばらくは一緒に歩んでいこうと思っている。

ただやはり「普通」ではないことに、時々不安になる。いつか大きな過ちを犯してしまいそうでゾッとする。
だから、わかる人にはわかってほしいという願いをこめて今この文章を書いている。仲間を探して、誰かに、これを読んでいる貴方に助けてほしくて。

わからない人は笑って読み終えてほしい、頭の中が騒がしいなんて、おかしな話なんだから、フィクションだと思って読んでくれたら嬉しい。

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