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【地域の決断を追う#1】柏崎刈羽原発はなぜ「柏崎刈羽」につくられたのか

「地方自治は民主主義の学校」というフレーズは、中学校や高校の教科書に記載されていた言葉です。なんとなく「あったなぁ」と思い出す人もそこそこ多いかと思います。(この言葉はトクヴィルというフランスの思想家の言葉らしいです。すっかり忘れてしまっていますね…。)

「地方自治」という言葉の持つイメージはどのようなものでしょうか。市長、市議会議員、県知事、県議会議員、市役所、役場、NPO、住民参加、教科書的な言葉であれば「オンブズマン」とか、「3分の1」「50分の1」みたいな言葉を思い浮かべる人もいらっしゃるかもしれません。「リコール」って何だっけな…みたいな。

こうした「地方自治」、普段であれば前面に出て問題になることは少ないかと思います。ただ、各地で発生している国内での問題は「地方自治」に結びつけることで解像度が上がることもあるのではないか、そう考える機会が随分増えてきました。

そこで、本シリーズでは、国内各地で起こっている問題を「地方自治」という視点から見つめ直したいと思います。
地域の人たちがどういった決断を下し、どういった考えを持っているのか。
一見すると、外部の人間にとってみれば、地域の判断は「不合理」であるように見えることもあります。ただ、それが地域にとって「合理」的であると判断されるとき、その考えを理解することに意義があると考えます。

初回は柏崎刈羽原子力発電所の再稼働をめぐる「地方自治」の行方です。なぜ柏崎市・刈羽村地域に原子力発電所が誘致されたのか、地域の人たちに求められる判断とは何か…。地域の考え方を探ります。(全5回を予定、第2回は1月9日に公開予定)


◆注意事項◆

本シリーズは、特定の立場に立って意見を表明するものではありません。原発の再稼働や、他原発の廃炉・再稼働の状況などを取り扱いますが、原子力発電所に対する賛否を主張するものではありません。
あくまでも「地域の考え方」を明らかにすることを目的としていることに留意してください。


1961年:地域の衰退への危機感と原発


原発誘致のきっかけとなった出来事は1961年に起きた。当時の柏崎市長だった吉浦栄市氏と、当時は柏崎市の助役だった小林治助氏が東京電力新潟支店を訪れたときのことである。当時、柏崎市には日本石油柏崎製油所があったものの、閉鎖されるとの問題が1956年に浮上。東電への訪問は、地域経済の打撃を小さくするために、火力発電所を誘致する目的があったとされている。
この時、新潟支店長だった舘内三郎氏からは原子力発電所の設置について薦められたとされる。火力発電所誘致を前に原発の話を出され、小林氏は問題のすり替えと受け止めたとされる。


1963年:再提案から誘致へ


小林氏は1963年に市長に当選すると、今度は柏崎市内で工場を操業していた理研ピストンリング工業(現:リケン)会長で、東京電力顧問だった松根宗一氏から祝いの訪問を受ける。この時、同氏からも原発誘致を受けた。
新潟日報が小林氏の私設秘書の役割を果たしていた長男・治助氏に取材したところでは、原発誘致の話に対しては広島・長崎の原爆を想起したとされたが、会うたびに原発誘致を促され、「まじめに提案を頂いている」と認識したようになったとのことであった。
同氏は原発に対しての勉強を開始、後援会に対して原発に関する意見を探るなど実現可能性を調べつつ、1966年に当時の通産省へ原発誘致を提案した。
1966年の原発誘致提案では、北条町の山地を地元町長の同意をもとに適地として提案したものの、水の問題から実現可能性がないと判断された。
これを踏まえ、当時は自衛隊演習場の誘致や臨海工業地帯の造成などが想定されていた同市荒浜地区に狙いを変えたとされている。
1967年に入ると、新潟県は通産省からの要請を受け、当初予算に荒浜海岸の調査費を計上。翌年にかけて実際に調査が行われた。
なお、荒浜海岸の建設用地に関しては、田中角栄や当時の刈羽村村長・木村博保氏などによる不審な土地取引があった可能性が指摘されている。


1969年:原発誘致の表明と反対運動


1969年3月の市議会で、柏崎市長の小林氏は議会議場で原発誘致を行っていくことを表明、議会も誘致決議を可決した。全会一致ではなく、自民党・民社党などが賛成、社会党は反対した。立地・周辺自治体では当時の北条町、高柳町、刈羽村も同年8月までにかけて誘致決議を可決。自治体議会の足並みは揃った形となった。
一方、地域住民の中には原発誘致に対して反対の意見も存在し、「荒浜を守る会」「刈羽を守る会」など地区別の反対組織や、労働組合などが中心となった「原子力発電所反対市民会議」などが生まれ、デモや集会などが行われた。
とりわけ、大きな影響を及ぼしたのが1972年に行われた地元住民による原発の賛否を問う自主投票・住民投票で、投票総数のうち約76%が反対となった。
一方で、後述するように1997年までに1~7号機の営業運転が開始されており、反対派が議会や市長選といった制度・手続き上に与えた影響力はそこまで大きくなかったと考えられる。


1974年:電源三法が成立


1973年に発生した第四次中東戦争に伴い起きたオイルショックを受け、当時の田中角栄首相は原発推進を国家的課題に位置づけた。この課題を解決するため、首相手動によって「電源三法」を1974年に成立させた。
「電源三法」は、発電所の立地・周辺自治体に対して交付金を与えることを定めた「発電用施設周辺地域整備法」、その財源を電力会社に課税することとした「電源開発促進税法」、集めた財源を特別会計として取り扱う「電源開発促進対策特別会計法」(現在は特別会計に関する法律に集約されている)の3つから成る。これにより、原発立地自治体に対する経済的な援助が行われることになった。
電源三法は、上記のような反対運動を受けた小林氏や、福井県・敦賀市長らによる陳情などが後押ししたとされる。


1974年~1985年:地盤論争と稼働開始


1974年に入り、現地の地盤調査を行った新潟大学の教授が、1号機の建設予定地の真下に断層があると判定、反対派はこれを受け東電に対して追及を重ねた。
東京電力は断層の存在を否定したものの、小林氏も地質地盤問題を受け原子炉設置の許可の申請を保留するよう申し入れることを約束した。
1975年2月に県が調査報告書を公表、断層の存在を認めつつ原発の設置に問題はないとした。小林氏はこれに伴い保留を解消、東京電力は同年3月に国に対して申請を行い、1977年9月に許可された。
なお、1979年には反対派住民が国の許可を取り消すよう求める訴訟を起こしたが、一審(新潟地裁)、二審(東京高裁)いずれも請求棄却、最高裁への上告も棄却され、住民側の敗訴が確定している。
1985年に1号機の運転が開始されると、1997年までにかけ2~7号機の建設も進み、営業運転が開始された。


次回予告

こうして1997年までに7号機までの運転が開始された柏崎刈羽原発だが、運転開始からしばらくすると、次々に問題やトラブルが発生した。こうしたトラブルに対して、地元自治体はどう考え、対応してきたのか。また、何が対応できたなかったのか。事実関係を中心に確認する。


参考文献

・上川龍之進(2018)「電力と政治(上) 日本の原子力政策全史」,勁草書房.
・新潟日報社原発問題特別取材班(2017)「崩れた原発『経済神話』 柏崎刈羽原発から再稼働を問う」,明石書店.
・新潟日報社(2017)「川を上れ 海を渡れ 新潟日報140年」,新潟日報事業社.
・早野透(2013)「田中角栄 戦後日本の悲しき自画像」,中央公論新社.
・発電所誘致の時系列概要などは柏崎市ホームページ(リンクはこちら)を参考にした。


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