舞台 「狂人なおもて往生をとぐ」 観劇レビュー 2023/10/27
公演タイトル:「狂人なおもて往生をとぐ」
劇場:下北沢 小劇場B1
劇団・企画:TAAC
作:清水邦夫
演出:タカイアキフミ
出演:三上市朗、永嶋柊吾、櫻井健人、千葉雅子、福永マリカ、古澤メイ
公演期間:10/27〜11/1(東京)
上演時間:約2時間5分(途中休憩なし)
作品キーワード:家族、親子、夫婦、考えさせられる
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆
タカイアキフミさんによる個人演劇ユニット「TAAC」の公演を観劇。
「TAAC」は2018年に旗揚げし、これまでに既成脚本やオリジナル脚本を上演してきた。
今回は、戦後の日本の演劇界を代表する劇作家である清水邦夫さんの傑作戯曲を上演するということで観劇した。
私自身、「TAAC」の演劇作品を観劇するのは『人生が、はじまらない』(2022年8月)以来2度目だが、タカイアキフミさんによる既成脚本の演出は初めての観劇であり、清水邦夫さんの作品も初めて観劇する。
今回上演された『狂人なおもて往生をとぐ』も戯曲自体読んだことなく、今回の観劇で初めて触れた。
『狂人なおもて往生をとぐ』は、清水邦夫さんが1969年に彼が俳優座公演のために書き下ろした戯曲である。
物語は、とある娼家が舞台となっており、家族という概念をテーマにした作品となっている。
青年の出(永嶋柊吾)は、その娼家の女主人のはな(千葉雅子)のヒモだった。
そんな娼家に大学教授を名乗る初老の男性客である善一郎(三上市朗)がやってくる。
さらに、この娼家の娼婦である愛子(福永マリカ)と彼女の客である敬二(櫻井健人)もやってくる。
彼ら5人は家族ごっこを始める。
善一郎が父親で、はなは母親、出は長男、愛子は長女、敬二は次男という設定で。
しかし物語が進んでいくにつれて、この5人は本当の家族であること、出という青年は精神を病んで妄想に取り憑かれており、彼らを家族だとは思っておらず家族ごっこをしていると誤認していることが明らかになる。
そこから、この奇妙な家族の秘密に迫っていくというもの。
私はこの戯曲を読んだことがなくあらすじも知らなかったので、彼らは果たして本当の家族なのだろうか、それとも家族ごっこをしている血の繋がっていない集団なのか分からず、終始そのどちらなのかを考えながら観劇していたので、ずっと思考を巡らせていたという点で飽きさせることのない作品だった。
その思考によって、私たちが普段考えている家族という概念とは一体なんなのだろうかという考えにも至って、良い意味で常識に疑いを持たせてくれる作品で面白かった。
今の時代、少子高齢化によって核家族化が崩壊して単独化が進み、父親と母親がいて未婚の子供がいるという世帯も減っている。
だからこそ、核家族に対して批判的な立ち位置で物語を進める今作は受け入れやすくなってきているんじゃないかと思って、今の時代に上演する意義もあるような気がした。
また、タカイアキフミさんによる演出が素晴らしかった。
会話がメインの芝居なので、どう舞台セットを用意するか、ステージをどのように使うかといった部分にかなり余白のある戯曲だと感じていて、そこをどう演出するかによって、この作品の魅力を伝えられるか否かが変わってくる気がした。
しかし、初めてこの作品に触れた私にとっては、この脚本にこの舞台セットは凄くハマっていて、これ以外考えられないというくらい上手く世界観を作り出せていた。
この戯曲を演出するってかなり難易度の高いことだったと思うが、それを熟されていたタカイさんの演出家としての腕が光っていた。
さらに、役者陣もどう演技をするか大変悩ましく思う脚本だったのではないかと思う。
でも、どの役者もハマり役で何も違和感なく観られた上に、この脚本が訴えかけてくるものが伝わったので素晴らしかった。
特に好きだったのは、青年の出を演じた永嶋柊吾さんの狂気っぷりと、善一郎を演じる三上市朗さんの説得力ある長台詞。
どちらも、凄く抽象的な台詞でイメージもしづらくて、下手したら演技の仕方によってはつまらなくなってしまうものを演技力によって説得力を持たせて、観客を飽きさせないものにしていて素晴らしかった。
演技の迫力だけでなく、その人の演じ方によっても印象がだいぶ変わってしまって作品の良さを損いかねないという中で見事な演技だと感じた。
『人生が、はじまらない』も好きな作品だったが、今回の上演が見事だったので、タカイさんの演出家としての腕を見せつけられた感じがした。
まだまだ「TAAC」は今後も演劇活動を続けて行ってほしい応援したい演劇ユニットである。
多くの人にお勧めしたい(11月10日からは演劇配信アプリ「KANGEKI XR」で配信予定)。
【鑑賞動機】
2022年8月に拝見した「TAAC」の『人生が、はじまらない』が物凄く好きな作品だったので、「TAAC」の作品は定期的に観たいと感じていた。そして、今回の上演では以前から触れてみたいと思っていた清水邦夫さんの戯曲だったのもあって、観劇に至った。
また、SNSでタカイさん自身がかなり演劇ユニットとして金銭面的にピンチだとおっしゃっていて、応援の気持ちを込めて観劇したというのもある。素晴らしい演劇を創ってくださる団体なので、少しでもお役に立てればと。
フライヤーデザインも毎公演素敵で、今作のフライヤーも凄く素敵だったの観劇の決めての一つ(フライヤーデザインの藤尾勘太郎さんにハズレはない)。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。
善一郎(三上市朗)は、天井に吊り下げられている照明の電源紐を何度も引っ張って、照明を点けたり消したりしている。その照明はピンク色の照明で点けると辺りは妖しくピンク色に染まり、消すと元に戻る。その光景を見て善一郎は笑い出す。
そこへ青年の出(永嶋柊吾)がやってくる。二人の会話から、ここは出と女主人が営んでいる娼家であり、善一郎は大学教授をやっている初老で、この娼家にやってきたようである。奥からこの娼家の女主人であるはな(千葉雅子)がやってくる。はなはご飯の支度が出来たと善一郎に言って、奥へと案内する。善一郎は奥へと向かう。
娼家に一人の娼婦がやってくる。愛子(福永マリカ)という娼婦である。彼女は奥へ向かって白い下着一枚になって再びやってくる。善一郎も食事を終えて戻ってくる。
出は、ここにいる4人で家族ごっこをしようと言う。善一郎が父親、はなが母親、出はその子供の長男で、愛子は長女である。善一郎はこの娼家の客人としてやってきてお金を払っていくが、そうではなくこの家族を養うためにお金を落としてくれる父親とも捉えられると。
そこへ、愛子の娼婦の若い男の客である敬二(櫻井健人)がやってくる。出は、その客人の敬二に対して、今家族ごっこをしているので家族にならないかと誘う。敬二は出の弟の次男だと。敬二は、その誘いを受け入れて家族ごっこの一員になる。出は喜び、敬二が赤の他人という領域から家族という領域へ飛び込んできてくれたことを嬉しく思う。
出はしばらくモノローグを披露した後、そのまま意識を失って倒れてしまう。どうやら、出は精神を病んでいるようであり、本当は彼らは家族ごっこをしているのではなく、血の繋がった本当の家族なのだが、出はそう認識していないようであった。出の周囲の人間たちは、直接自分たちが本当の家族だと教え込むのではなく、徐々に出にそのことについて自分で気づいてもらうように促しているようであった。
善一郎たちは、倒れた出のことを気にかけながら看病する。
暗転。
娼家に、敬二と西川めぐみ(古澤メイ)がやってくる。どうやら二人の会話から、敬二とめぐみは付き合っていて結婚したいとお互いに思っているらしく、そのために敬二の両親に挨拶に来たようであった。敬二は、調理師学校に通っており、めぐみは善一郎の務める大学の学生であった。めぐみはごくごく普通の家庭に育っており、敬二と結婚して新しい家庭を築いていくことに前向きであった。
善一郎とはな、出や愛子がやってくる。めぐみは挨拶する。善一郎たちは、この家のネズミの話をする。この家には夫婦のネズミが暮らしているが子供は見当たらない。そしてその夫婦のネズミは丸々と肥えているので、きっと子供を食べてしまったに違いないと。
敬二とめぐみを奥へ通す。
出が倒れている。出は、戦時中の記憶を少し思い出したようで、善一郎と愛子は嬉しく思う。
善一郎は、出と会話する。善一郎は自分が教授をしている大学についての話をする。大学は教育方針をまるでコンクリートで塗り固めるかの如くガチガチに固めてしまうことに、善一郎は強く反発していた。善一郎はその決め方を強く批判したが、他の教授たちの正反対の意見が多かったことで善一郎の意見は反映されなかった。
さらに酷いことに、善一郎は教科書編集委員から席を外されてしまったことである。そこを外されてしまうと、この家を支えていけなくなってしまう。そのことに善一郎は酷く憤慨していた。
敬二やめぐみたちも戻ってきて、家族とめぐみの6人が揃う。出はまた家族ごっこを始めようと言う。今度は、出と愛子が夫婦で善一郎とはな、敬二らが子供である。しかし、敬二という家族が攻撃されている時に、その攻撃を阻止しにいったのは出で、子供の善一郎はただ呆然としれを見つめているだけだった。出は父親であるという責任感から家族が攻撃されている光景を目の当たりにして、そこから守ろうとしたのである。
出は善一郎に見せた父親として、一家の大黒柱としての行動について話した。果たして善一郎は、この家族の主人としてこのような守り方が出来るのだろうかと。もし家族を守ることが出来なかったら一家心中をするしかないと。
めぐみは、この家族は非常に奇妙な家族でとても一緒にやっていけないと帰ろうとする。敬二は引き止めるが、めぐみは敬二と別れを告げて去ってしまう。敬二はその後を追いかける。
夜、出と愛子は二人を愛し合い、そして小さな四角い穴を潜り抜けて眠っている善一郎とはなの元を去ってしまう。
暗転。
朝、善一郎とはなは目が覚める。二人は夫婦である。昨日の夜は、出と愛子の子供などという家族ごっこをしていて狂気地味ていたと言う。現実はゲームになり、ゲームは現実になったと言う。善一郎は新聞を読み始める。
しかし二人は、出たち子供がいないことに気が付く。どうやら、この家屋の二階が騒がしい、一体何が起こっているのかと。小さな四角い穴から出と愛子が出てくる。二人は禁断の恋をして付き合っており、この家を出ていくのだと言う。善一郎とはなは驚く。
そこへ、敬二も戻ってくる。敬二は結局めぐみと別れてしまった。しかし敬二は、今となっては別れて良かったと言う。子供たち三人は、ずっと舞台奥にあった壁のようなパネルが突然開いて、そちらに向かって進み始める。そしてこの家族の元を去っていく。ここで上演は終了する。
なんとなくこの脚本から作者が訴えたいメッセージ性は伝わってきたのだが、全然分からない描写も沢山あって、私のこの作品への理解力は50%くらいだろうと思った。半世紀以上前に創られた作品というのもあるからか、非常に文学的で難解で、現代の分かりやすさを重要視される風潮で育った私たちには到底創作出来ない脚本なのではないかと思うほど、余白が多くて魅力的な作品だった。
この脚本を書いた清水さんが意識して訴えたメッセージ性なのかは分からないが、この作品は核家族化に対するアンチテーゼだと感じた。家族という概念そのものは、私たちが思っている以上に曖昧模糊な存在。むしろ近代社会が作り上げたもの。その概念に縛られて私たちは暮らし、それ故に見失っていくものもあるんじゃないかと感じた。めぐみは、この家族を狂気だと感じて去っていってしまったが、狂気だと感じるのもめぐみが真っ当とされる家族の中に育ったが故である。それ故に、こういった家族を受け入れられなくなっていた。そんな核家族化を進めたことが、社会の分断を生んだのではないかとも思えてしまった。この辺りは、考察パートでも深く触れたい。
よく分からない描写もあるけど、その脚本が持つ魅力に私は引き寄せられた。流石は演劇界を代表する清水邦夫さんの戯曲だと感じた。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
戯曲はかなり難解で、ピンク色の照明以外はいくらでも演出を変えられてしまう余白のある作品。演出家の腕が試される上演という中で、私的には凄くこの戯曲にハマった舞台セットと演出が繰り広げられていると感じた。タカイさんの演出家としての才能を感じた。
舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。
まずは舞台装置から。
劇場が下北沢小劇場B1だったので、客席がステージに対して二つの辺に面している。ステージ奥には巨大なパネルが一枚セットされていて、それのパネルは少し傾いた形で床に突き刺さるように置かれている。そのパネルはクリーム色で昔の日本の洋館のタイルや絨毯にありそうなデザイン。かなりレトロな印象を受けた。そのパネルは、正方形のタイルを敷き詰めたような模様になっていて、その一枚が開閉するような構造になっている。その一枚のタイルが開くと、大人が一人出入り出来るくらいの大きさがあって、基本的には出、愛子といった子供たちが出入りしていた。さらに、これは劇の終盤だけ登場してそれまで気が付かなかったのだが、この大きな一枚のパネル自体に大きな開閉扉になっていて、そこが開くことで出、愛子、敬二の子供三人がこの家から出ていく描写がなされる。つまり、個人的な解釈だとこのパネルは手前側の夫婦たちのフィールドと子供たち、つまり子供部屋を区分けするためのパネルに思えた。親と子供の関係を鋭く表現する舞台セットに感じられ、これによって親というのは完璧に子供のことを理解出来る訳ではないこと、そこに家族構造の限界があることも描いているように感じた。
次に、二面の客席に面している部分に花瓶が置かれている演出が印象的だった。一方の花瓶は客入れ段階から最後まで同じ場所に置かれていて、もう一方の花瓶は二幕から(めぐみが登場するシーンあたりから)置かれていた。その花瓶にめがけて時折天井から滴ってくる雨漏りのような演出が絶妙だった。その雨漏りは、どことなくこの家族の陰惨なオーラを助長する演出に感じた。湿っぽくて薄暗い貧しい感じの家族、それはたしかに真っ当の家族ではないと思ってしまう。あるシーンだけ、急激に天井からの雨漏りが勢いよく滴ってきた箇所があった。私の記憶力が鈍くてどのシーンだかは忘れたが、劇中の雰囲気が一気に展開するようなシナリオのタイミングだった気がした。衝撃的なシーンで落雷がするみたいな演出技法の一つのように感じた。斬新な演出で面白かった。
あとは、ステージの隅、二面の客席の中間あたりにウイスキーの入った瓶とグラスを置いた台のようなものも印象的だった。善一郎は、このウイスキーを劇中で飲んでいたが、この家族の狂気っぷりとウイスキーは親和性高く感じた。
次に舞台照明について。
なんと言っても、この戯曲を象徴するといっても良いピンクの娼家の照明が印象的だった。善一郎が電源紐を引っ張るとピンク色に照明が光る。なかなかピンク色のランプというものは見当たらないと思うので、舞台照明を使ってステージ上をピンク色っぽく光を当てる演出になってしまう感じは、序盤で多少違和感を抱いたがこんな演出もアリかと思った。もうちょっと個人的には強めのピンクでも良い気がした。娼家らしく妖美な感じを出すためにはもっとピンクでも良い気がした。けれど、そこにも演出的意図があったのか、分からなかった。
ただ、全体を通じて照明の使い方が格好良くて好きだった。劇中の登場人物たちの会話によって繰り広げられるシチュエーションによって徐々に照明のテイストを変えていく感じが非常に格好良かった。また、夜のシーンを表す照明と、朝のシーンを表す照明の違いもはっきりしていて、ちゃんとそのシーンが朝なのか夜なのかも分かりやすかった点も良かったと思う。
さらに、最後の出、愛子、敬二の三人の子供が娼家を出ていくシーンで、開かれた扉に向かって並んで歩いていくが、その時に扉側から差し込んでくる白い光も凄く良かった。そこには希望を感じた。子供が自立して家族の元を巣立っていく感じを表していて良かった。
次に舞台音響について。
思った以上に各シーンにおいてBGMは使われていた印象。個人的には、BGMを使わなくても役者の演技だけで十分飽きずに作品に引き込まれると思ったが、BGMも上演に効果的なアクセントを与えていたと思う。
あとは、小劇場B1という小さい劇場の良さも活かしていて、重低音を効かせた音が流れることによって客席までウーファが効いて臨場感があったということ。それはBGMもそうだし、娼家の二階を走り回る子供たちの騒ぎもそうだが、凄く音と劇場のリアルが一体となって五感で演劇を楽しめる形に上演されていたポイントが素敵だった。
終盤の、出と愛子と敬二がこの家から出ていくシーンで、この家が崩壊するかのように音を立てていたが、その時の効果音が好きだった。スピーカーの吊り込み位置も凄く良くて、ステージ上だけでなく、小劇場B1という二面の客席構造を活かして客席側にもスピーカーが仕込まれていたことで、劇場全体に物音が鳴り響いていて、まるで劇場そのものが崩壊するんじゃないかという臨場感があって素敵だった。
最後にその他演出について。
この戯曲をどう演出して上演するかというのは非常に難しいだろうなと観劇していて感じた。戯曲の部分に具象的なものはほとんどなくて、おそらくピンクの照明くらいで、それ以外にはどう演出するかの余地がいっぱいあって、かなり演出家の腕を試される戯曲だったと思う。
個人的には、第一幕とされている出が途中で倒れて、この娼家にいる人々は家族ごっこをしている訳ではなく、本当の家族で、出は精神的に病んでいて家族ごっこをしていると勘違いしているということに気付かされるまでの描写が少々退屈に感じた。それ以降のめぐみが登場するシーンからは、かなり舞台空間に引き込まれた感覚はあったのだが、そこに行き着くまでが欲を言えばもう少し演出のやりようがあるのかなと思った。
といっても、どう演出したら良いのかのアイデアは浮かばないが、あるとしたら出がもっと狂気ぶりを発揮しても良かったのだろうか。ただ、現状でも十分狂気は伝わったので難しいなと感じた。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
戯曲が戯曲なので、どの登場人物も役を演じ切るのが非常に難しかったのではないかと思う。まだ、西川めぐみはやりやすいかもしれないが、家族たちの演技はちょっと理解し難い部分もあるので非常に難しいのでは、と役者でもない私でも感じてしまう。そのくらい難易度の高い作品だったと思うし、それを演じてしまう役者陣に圧倒された。
役者が6人しかいないので、全員について感想を述べていく。
まずは、父親の善一郎役を演じた三上市朗さん。三上さんは、どこかで演技を拝見したことあるようなと調べてみたら、KERA・MAPの『しびれ雲』(2022年11月)で演技を拝見していた。
『しびれ雲』でも感じたが、三上さんは昭和時代の主人を演じるのが上手いなと感じた。体も大きくて力強さそうで頼り甲斐のある父親という感じがする。ウイスキーを飲んだり、毎日新聞を読むのような昔の男性のあるべき姿みたいなものが全部ハマっていて素敵だった。
演技でいうと、やはり大学に対する批判をモノローグのように語るシーンが印象的。非常に説得力があって好きだった。
昭和時代の理想的な男性像且つ大黒柱という感じだったが、いざというときに家族を守れないというのが妙に印象に残った。家族が攻撃されているのに守れない、そこを守るのが主人、大黒柱の役割という描写が印象に残る。それが出来ないと一家心中するしかないという主人の責任の大きさも感じた。その衝撃も、三上さんという大黒柱の理想像に近いキャラクター性だったからこそ際立ったのかもしれない。
次に、青年の出役を演じた永嶋柊吾さん。永嶋さんの演技は初めて拝見する。
出の役は今作で最も難しい役なんじゃないかと思う。精神的な病を患っていて、彼らを家族だと捉えられていない。家族ごっこをさせることで徐々に家族だと受け入れさせる治療を家族が出に施しているというストーリー展開なのかなと思う。家族を家族だと認識していないという精神疾患は、アルツハイマー病とかであろうか。劇中で、出が戦時中(つまり過去の記憶)を一時的に取り戻した描写がなされていて、愛子などの家族が喜ぶシーンがあるので、記憶喪失というのもあるのかもしれない。
永嶋さん演じる出の狂気っぷりは凄まじかった。どういう気持ちで演じたら良いのかとか非常に役作りが難しいと思うが、変に精神病を患っている感じもなく、普通の青年のように見えて実は精神病を患っていてという絶妙な見せ方が良かったのかもしれない。
個人的に、永嶋さんの演技、というか外見がどこかオダギリジョーさんに似ている感じもした。
当初は、この出役を三津谷亮さんが演じられる予定だったが、三津谷さんは芸能活動を引退されたので、急遽永嶋さんが演じることになった。三津谷さんの出も非常に観てみたかった。
次に、敬二役を演じた櫻井健人さん。櫻井さんの演技は、M&Oplaysプロデュース『カモメよ、そこから銀座は見えるか?』(2023年6月)で拝見している。
『カモメよ・・・』では櫻井さんは割とコミカルな役を演じられていて、そういう陽気な感じの役が凄くハマる役者だと感じていた。しかし今作では、割と真面目な青年の役を演じている。
戯曲の構成上致し方ないが、もっと敬二のシーンを沢山観たかったと感じた。めぐみに恋して家族に会わせたにも関わらず、この家族は受け入れられない、狂っているとめぐみに見捨てられてしまう。でも結果的にそれで良かったと敬二は言っている。その心情変化をもっと観たかった。あまり、敬二というキャラクターについて理解出来ぬまま終わってしまった。
女主人のはな役を演じた千葉雅子さんも素晴らしかった。千葉さんはピンク・リバティの『点滅する女』(2023年6月)で演技を拝見している。
そこまで台詞における登場シーンは多くなかったが、女主人というキャラクター性がマッチしていて良かった。
今回、特に印象的だったのは、娼婦の愛子役を演じる福永マリカさん。福永さんの演技は、2020年3月に鵺的『バロック』で拝見していた。
まさに狂気じみた家族の娘という存在感があって素晴らしかった。『バロック』も狂気じみた家族を描いた作品だったので、福永さんはそういう家族の作品とご縁があるなと思いつつ、良い意味でハマり役だなと感じる。登場した直後は娼婦という感じで妖艶な感じがしたが、物語が進行するにつれてどんどん出の妹に見えてきた。家族の一員という印象に変わっていった。
そして、なんといっても出と禁断の恋をしてくっついて家を出ていくあたりが刺激的な展開だった。
最後に、西川めぐみ役を演じた古澤メイさん。古澤さんの演技は、調べてみたら劇団鹿殺しの『キルミーアゲイン'21』(2021年10月)で拝見していたので二度目の演技拝見となる。
めぐみだけこの戯曲の中で、立ち位置が異なるキャラクター。他の登場人物は全員狂気じみた家族だが、めぐみだけ真っ当で典型的な核家族化の中で生まれ育ち、結婚して幸せな家庭を築きたいと思っている。
だが、この作品を観劇していると、私はむしろめぐみが狂っているようにも見えてきた。お上品で育ちが良くて、ある種様々なものを受け入れられない偏った存在に感じてしまったのは気のせいだろうか。どういった意図で今作を演出しているか分からないが、今回の上演だとむしろめぐみが異端的な存在に映ってしまった。だが、戯曲とこの作品が描かれた時代背景を考えると、このめぐみという存在がステレオタイプなのだと思う。
非常に勢いがあって素晴らしい俳優だと感じたので、今後も他の舞台演劇でお目にかかれたらと思う。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
清水邦夫さんの戯曲に初めて触れてみた感想は、とにかく難解な戯曲で上手く咀嚼出来た自信は全くないが、非常に解釈の余地が沢山あって考えさせられる作品だったということ、それが知的好奇心を刺激されて大満足だった。
戯曲自体も素晴らしかったが、なんといってもこの難解な作品を咀嚼して演出してしまう「TAAC」のタカイアキフミさん、そしてそれを演じてしまう役者陣の凄さも感じた。
ここでは、当時の時代背景を踏まえてこの作品で描かれていることの考察と、この作品を令和時代に描く意義について考えてみる。
善一郎が劇中で言うように、この作品は「現実はゲームとなり、ゲームは現実となる」とあるように、現実とフィクションが混在した二重構造の戯曲になっている。最初観客は、この家は娼家ではなが女主人をやっていて、出がはなのヒモでこの娼家を手伝っている。善一郎と敬二は客で、愛子は娼婦という設定だと勘違いする。そして彼らが家族ごっこをするのだと。しかし、そうではなくその設定は精神病を患っている出から見えている世界に他ならず、実際はこの5人は家族であり、娼家をやっているというのがニセの設定である。
最初に観客に認知させる設定が実は精神病にかかった主人公の見えている世界で、実は違ったみたいな構造は、有名な洋画でも複数存在していてそれらを思い出す(ネタバレになるので作品名はあげないが)。そういうどんでん返しが途中で起こるという点は、エンタメとして楽しめる作品だと思う。私も、そこからこの作品に一気にのめり込めた。逆に、この展開は当パンなどに記載しない方が楽しめるのでは?と思った。私は事前に当パンを読まずに観劇したのでその展開を楽しめたが、出が精神病にかかっていて真の家族なのに家族ごっこと勘違いしていると明記してしまっているので、書かない方が良いのではないかと思った。
話を戻して、この現実とフィクションが混在したストーリー展開が非常にこの戯曲に面白さと深みを与えていると感じた。なぜそう感じたかというと、それによって家族という概念に対するアンチテーゼを鋭く描いているからである。
この戯曲が描かれたのは、1960年代と日本が高度経済成長期を迎えていた時代。最も日本に勢いがあったこの時代は、大量生産、大量消費を掲げて生産性が急激に上がっていった時代でもある。それに伴って、日本の核家族化も急激に進み、1963年には「核家族化」という言葉が流行語にもなったそうである。そして1975年には核家族率が約64%と、日本の歴史の中でも最も高くなっていった。
そんな核家族化が急激に進む最中、この戯曲が描かれ初演されたので、当時はきっと観客も意表を突かれたかのような感覚に近かったのではないだろうか。まさにこれこそアングラ劇だったのかもしれない。今の日本社会が進もうとしている方向、勢いのあるものに対して逆の主張を唱えたこの作品の叛逆的なメッセージ性は、当時の時代背景を考えてこの作品を観劇すると、色々考えさせられた。
では、どういった点においてこの作品は核家族に対するアンチテーゼなのかについて言及する。
まず、善一郎たちの家族はご覧の通り普通でない家族であるが、そこに真っ当な家族に生まれ育った西川めぐみがやってくる。しかしめぐみは、そんな狂気に満ちた家族ぶりを見て敬二との婚約を破棄して去ってしまう。私は、ここにマジョリティとマイノリティの交われない不条理が描かれていると感じた。真っ当な家族の中で育ってしまうと、そうでない家族を受け入れられなくなってしまう。めぐみがそうであったように。それによって善一郎たちマイノリティが排斥される。つまり核家族を当たり前にしてしまうと、そうはなれなかった人々に目を向けなくなってしまう社会が作られてしまうのではないかという警鐘に感じた。そこに核家族化への批判が込められていると感じた。
次に、善一郎が大学の批判をしている部分にもこのアンチテーゼは込められていると感じた。善一郎は、大学の極度なルール化を嫌った。まるで教育というものがコンクリートで塗り固められている感覚で、これはおそらくルール化してしまうことで、そのルールに外れたものが見えなくなってしまう批判に思えた。これも先ほどの核家族化を進めることで、そうでないマイノリティたちへの眼差しが欠落することへの批判と通じるのかなと思った。
さらに、核家族へのアンチテーゼだと感じたことは、家族という概念そのものだって幻想に過ぎないということを描いている点である。
先ほど述べたように、この作品は現実とフィクションが混在していて、ここに出てくる登場人物は果たして家族なのか、そうでないのかを色々考えさせられるシチュエーションがあった。それによって、家族という概念そのものが曖昧模糊に感じるカラクリが仕掛けられている。これぞ、核家族へのアンチテーゼだとも捉えられる。特に、出と愛子が夫婦になって、その子供に善一郎とはなという子供がいるという家族ごっこの設定になったシーンが印象的だった。またラストで、出と愛子が禁断の恋をするというシナリオも、家族という存在を曖昧にしている要素の一つかもしれない。
家族とは一体なんなのだろうか。父親と母親がいて、その二人から子供が生まれて一緒に暮らす。この戯曲から受け取れるのは、その子供が巣立っていくまで父親がその家族の大黒柱として守らなければならない使命があるということ。もし守れなかったら一家心中するしかないということ。そして子供は知らず知らずのうちに成長し、親元を離れていくものである、そして子供が離れていった途端に、核家族ではなくなるので、家族としての役割を終えるということなのかなと思った。
また、出が精神疾患を患っていて、その病に家族全員が向き合って療養させてくれる存在というのも、家族の機能の一つなのかなと思えた。
そういった意味で、家族という機能も必要だとも感じられる。概念自体は曖昧でも、そうやって無意識的に機能する側面もあるというのが、この戯曲の家族に対する完全批判にはなっていない所で興味深い所である。
では、そんな核家族を批判した今作を、令和時代に上演する意図はなんだろうか。タカイさん自身できっと理由はあると思うが、個人的に思ったことを記載しておく。
現代は多様性の社会と言われて、核家族が正しいあり方という思想は弱まりつつある。昔は男性の家に女性が嫁いで子供を産むのが当たり前だったが、結婚すること自体自由だという意見の方が強いし、男性が女性と結婚しなければいけないということもなく、同性婚もまだまだ海外に比べて日本は遅れているが、認められつつある。
そして結婚したからといって子供を産まない世帯が叩かれることも少なくなった。未だ田舎にいけば、まだ子供が授からないのかと促されるとも言われるが、ひと昔前と比べればそうでもなくなったのではないかと思っている。子供を産まない、授かれない世帯にだって人権はある。
そんな令和時代を生きる私が今作を観劇して思うことは、凄くこの戯曲は当時からしてみたらかなり最先端の思想を言っていたように感じる。1960年代に書かれた作品であるにも関わらず多様性を主張した戯曲に感じて驚かされた。
また、そんな令和においてもやはり核家族という家族構成に憧れは持っていたりもする。なんとなくそれが普通という認識はあるし、マイノリティが認められた社会とはいえ、まだまだマイノリティであることに肩身の狭さを感じる社会でもあると思う。だからこそ、そういった固定観念に疑問を投げかけてくれる作品で多くの人に観て考えて欲しいなとも思った。
この作品を観劇して、今一度家族とは何かについて自問自答する良い機会にはなったし、そういった意味で上演する価値は十分あったのかなと思う。
正しく解釈出来ている自信はないが、この作品から得られることは沢山あったので観劇出来て良かった。
↓TAAC過去作品
↓三上市朗さん過去出演作品
↓櫻井健人さん過去出演作品
↓千葉雅子さん過去出演作品
↓福永マリカさん過去出演作品
↓古澤メイさん過去出演作品
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?