舞台 「光環(コロナ)」 観劇レビュー 2022/04/08
【写真引用元】
劇団あはひTwitterアカウント
https://twitter.com/gekidan_awai/status/1494643455469187076/photo/2
公演タイトル:「光環(コロナ)」
劇場:東京芸術劇場シアターイースト
劇団・企画:劇団あはひ
作・演出:大塚健太郎
出演:古瀬リナオ、安光隆太郎、渋谷采郁、松尾敢太郎
公演期間:4/6〜4/10(東京)
上演時間:約65分
作品キーワード:能、セカイ系、コロナ禍、宇宙
個人満足度:★★★★★★★★☆☆
早稲田大学在学中に結成された、1998年生まれのメンバーだけで構成される「劇団あはひ」の舞台作品を初観劇。
「劇団あはひ」は2018年に旗揚げされた若い劇団であるものの、2019年春にCoRich舞台芸術まつり!で初のグランプリ受賞、2020年には史上最年少となる本多劇場の開催と、当劇団の勢いは凄まじい。
今回東京芸術劇場(以下芸劇)で上演されている作品はレパートリー上演ということで過去に上演したことのある作品をベースにした2作同時上演で、「流れる-能"隅田川より"-」と「光環(コロナ)」の2作品であるが、そのうちの「光環(コロナ)」の方のみ観劇。
今回の作品のコンセプトは、"もしもエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」がセカイ系だったら"というもの。
今作は、2021年11月に神奈川芸術劇場(以下KAAT)で上演された、エドガー・アラン・ポーが発表した短編小説である「盗まれた手紙」を下敷きとした「Letters」を大幅にリニューアルして上演したもので、観劇した所感としては能と演劇の融合といった感じ。
「盗まれた手紙」を題材にした舞台作品というよりは、むしろ皆既日食による光冠(コロナ)と新型コロナウイルスのコロナをダブルミーニング的に掛け合わせて、新型コロナウイルスが蔓延しなければ出会えたであろう「彼」という幻の存在に思いを馳せる様子をセカイ系として上手く表現した内容になっていて素晴らしかった。
舞台は素舞台なのだけれど、中央に泉のように水が貯水されている領域があって、そこを上手く使うことによって舞台背後の黒い壁に映るシルエットがまるで皆既日食のように見えたり、またその貯水エリアを役者がゆっくりと円を描くように周回することによって彼らが太陽の周りを周回する惑星に見えたりと、宇宙空間を舞台上で表現している点に神秘性を感じられて好きだった。
劇中の台詞も非常に独特で詩的、それらの意味をしっかりと理解することは出来なかったけれど、一つ一つの言葉が美しく感じられた。
残念ながら途中で退席してしまった観客もいらっしゃって、万人にオススメ出来る作品ではないかもしれない。
とても静かで抽象的で繊細な舞台作品、こういった作品に触れることが出来て、そして感動することが出来て本当に良かったと思えた作品。
【写真引用元】
ステージナタリー
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【鑑賞動機】
観劇の決めては劇団。「劇団あはひ」の存在は1年以上前から知っていて、非常に力のある若手劇団と聞いていたのでずっと観劇するタイミングを伺っていた。
そして今回、芸劇eyesに「劇団あはひ」が選出されたということで観劇することにした。芸劇eyesは公演期間がかなり前から告知されるので、スケジュールを上手く空けることが出来た。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
少女(古瀬リナオ)が下手の橋掛かりから登場する。その後、下手の橋掛かりから白く民族衣装の様な派手な衣装を身にまとった男性(安光隆太郎)と女性(渋谷采郁)が登場する。その派手な衣装の男性と女性は、自分たちは100%の男と、100%の女であると主張し、これから日食を見に行くような会話をしている。
少女は、そんな不思議で派手な衣装の男女を目撃し、自分たちは100%の男だの、100%の女だのと言っていて変なカップルだと言う。あまりにも変なカップルなので世間では噂されているのではないかと少女は思う。
そこへカラス(松尾敢太郎)がやってくる。少女はカラスに先ほどの変な派手な衣装を着た男女2人組について尋ねる。カラスは男女2人組について答える。
今度は上手側に少女がいて、下手には派手な衣装を着た女性だけが登場する。派手な衣装の女性はセーヌ川のほとりにいるらしく、半世紀前にこのセーヌ川に身を投げて亡くなったユダヤ人のことについて想いを馳せている。派手な衣装の女性は、決してその亡くなったユダヤ人と出会うことはなかったが、彼のことを想う。そして少女を見て、彼女をユダヤ人詩人のパウル・ツェランだと勘違いする。
少女は、またその派手な衣装を着た女性を変な人だと不思議に思う。そして、再び登場したカラスにその派手な衣装を着た女性のことについて尋ねる。カラスは派手な衣装を着た女性のことについて語り始める。
少女は、138億年前のビッグバンのことについて考える。ビッグバンによって今の宇宙空間が誕生したと云われているが、それがどうも不思議なことに思えるのだと。
派手な衣装を着た男女がビッグバンを表現する。ビッグバンによるエネルギーの拡散によって自分たちは存在する。しかし、ビッグバンがなかった場合の無という存在についても想いを馳せる。
カラスは現れる。派手な衣装の男女とカラスと少女は、舞台中央の泉のような貯水部分を中心に楕円を描くように周回し始める。
少女ははける。
カラスは、自分はコロナであると名乗る。
そして派手な衣装を身に着けた男女は、自分たちは幽霊であり、4月20日に少女と出会うはずだった「彼」であると言う。
少女がマスクを付けて登場する。それは現実の少女である。少女は舞ながらコロナの蔓延がなければ出会うはずだった幽霊の「彼」に想いを馳せる。少女は派手な衣装を着た「彼」と一緒にグルグルと回りながら踊る。「彼」は決して存在はしないけれど、いつも少女の心の中にすぐ近くにいるとつぶやく。
派手な男女は下手側に、少女は上手側にはける。ここで上演は終了。
このあらすじだけ読むと誰しもが「?」と思ってしまう脚本かもしれない。というか観劇していた人も、90%以上の人が「?」といった感覚で観劇していたに違いない。それほど今作の戯曲は難解で解釈の難しいものだったと思う。実際に私も物語終盤まで、この作品が何を訴えたいのか、この作品のテーマは何なのか分からなかった。
しかし終盤の少女がマスクを付けて登場するシーンあたりから、この作品が訴えかけるメッセージ性が汲み取れたので私は非常に心動かされた。それまで劇中に登場したビックバンであったり、パウル・ツェランが表す意味がようやく結びついたからである。そこからは一気に作品に引き込まれていった。
というか、序盤から終盤にかけても私はずっと作品に引き込まれていた。静かな舞台上に横たわる、まるでポロリポロリとこぼれ落ちていくかのような言の葉、つまり台詞と、質素だけれど神秘的な舞台美術は本当に心癒されるくらい感動していた。
【写真引用元】
ステージナタリー
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【世界観・演出】(※ネタバレあり)
素舞台であり、とても質素な舞台芸術かと思いきや、能をベースにした演劇作品ということもあって、舞台照明や舞台音響には非常に創意工夫が見られ魅了された。そして映像も用いられていたのだが、その活かし方も巧妙だった。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番でみていく。
まずは舞台装置から。といってもほとんど素舞台で特段目立った舞台装置がある訳ではない。先述したように能をフォーマットとした演劇作品なので、下手奥に橋掛かりが存在し、基本的にはそこから役者は登場する。また終盤においては、上手側手前にも橋掛かりが舞台照明によって作り出される。
舞台中央には、巨大な円形の泉(実際に水が貯められている)が存在し、その泉に対しての照明の当て方によって青く見えたり黒く見えたりと変貌し、それが舞台作品全体に対して良い演出となっている。また、その泉の中に役者が入ることによって水面に波紋が出来て、それが舞台背後の黒い壁面にシルエットを作って非常に神秘的に映るという演出も心動かされた。
さらに、舞台上手側には天井から一枚の白い薄く細長い幕のようなものが垂れ下がっており、そこに「盗まれた手紙」の外国語(おそらく英語)の原文の引用が映像として映し出される仕掛けになっている。
そんなシンプルな構造を持った舞台セットであった。だからこそ、役者からの台詞によって色々と想像力を掻き立てられる要素があって好きだった。ビッグバンが登場したり、セーヌ川が登場したり、皆既日食が登場したりするが、全て観客のイマジネーションに委ねられて想像力を掻き立てられる辺りが、非常に演劇的で好きだった。
次に映像について。
映像演出は大きく2つ。いうて2つしかないのだけれど、とてもシンプルで素敵だった。
まず1つ目が、舞台背後の黒い壁面に映し出される。カラスの台詞を文字にして映像に映し出す演出である。「訳)ぼくはカラスです、ごきげんいかが?」のようにカラスは日本語をしっかりと喋らないので、カラスの日本語訳が文字として映像で映し出される。この舞台作品への感想で「アニメ的だ」という観劇者が何人かいたが、私はこの演出に対して特にアニメ的だと感じた。カラスの声が非常に甲高くて独特だったからであろうか、なぜかアニメ「鬼滅の刃」に登場するカラスを思い浮かべてしまった。あとは、舞台中央にカラスがこちら側を向いて話しかけ、その頭上にテロップが表示されるような構造なので、少しゲーム的にも見えるからかもしれない。とにかく、この演出はアニメのようなゲームのようなそんな印象を感じられた。
そしてもう一つが、上手側に垂れ下がった白い薄く細長い布に映し出される、「盗まれた手紙」原文の引用の文字。私はそこにどんな文章が綴られていたのか、意味まで汲み取ることは出来なかったが、その引用に合わせてカラスが発する言葉、少女が発する言葉は、非常に繊細で美しく感じられた。言の葉ってこんなに美しく聞こえるものかと感じた。「盗まれた手紙」を一読していれば、もう少しこちらの引用について深く考察出来たのかもしれないが、残念ながら私にはそこまでの教養を持ち合わせていなかった。
次に舞台照明について。
舞台照明は、最初の100%の男と100%の女のシーンとセーヌ川のシーンでは、全体的に少し明るいトーンの照明であったと記憶しているが、後半のビックバンのシーンと4月20日に出会うはずだった「彼」と現実のマスクをした少女のシーンでは全体的に少し暗いトーンの照明であったと記憶している。後半のシーンで登場する派手な衣装を着ている男女は幽霊であり、そしてカラスはコロナである。後半はある種少女の夢の中のようなイメージを舞台上で再現しているシーンなので、全体的に暗いトーンを持たせているのかもしれない。
また、下手奥と上手手前に存在した橋掛かりを正方形に照明で照らして作り出す演出も神秘的で好きだった。そういった演出手法を取ることで、舞台上が凄く神聖な場所のように感じられる。
そして、なんといっても舞台背後の黒い壁面に映し出されるシルエットを上手く活用した演出手法には非常に感動した。こんな演出手法は沢山演劇を観てきたけれど初めて出会ったし、そして素晴らしい演出だったと思う。
まず、舞台中央に貼られていた泉のような水面が、照明の当て方によって舞台背後の壁面に映し出されて波紋が綺麗にシルエットとして表現されるのが本当に美しかった。凄く神秘的なものを観ている感覚にさせられて素敵だった。
また、真っ黒い円のようなものが少しずつ移動するシルエットも映し出されていたが、それが私には皆既日食に見えた。実際皆既日食を見たことは私自身はないけれど、映像などで見たことがあってそれに近いものを感じさせられた。もしくはビックバン(こちらは映像なんて存在しないので想像)にも思われて、なんというか自然現象の尊さというか恐ろしさというかそんなものを表現している演出に感じられた。
次に舞台音響について。
音響に関しては、100%の男と100%の女のシーン、セーヌ川に身を投げたユダヤ人のシーン、ビッグバンのシーンと3つのシーンにおいて、それぞれの終盤にカラスが登場してカラスと少女が会話をする場面があるのだが、あの場面あたりから流れる音楽というよりは効果音に近い曲が印象に残った。こちらも凄く神秘的に感じるし、曲が入ることによってカラスと少女の会話も非常に映えて良い効果をもたらしていた。そして、どこか宇宙空間を感じさせる効果音である点も良かった。
また、役者がそれぞれマイクを付けていて、各人の台詞が皆スピーカーから聞こえてくるのだが、それがまた音質がクリアで非常に聞き取りやすかった。演劇というものは、普通マイクを使わずに生の声量で勝負するのが一般的かもしれないが、今作ではマイクを使うのが正解だなと思った珍しいタイプの演劇作品だった。静寂な空間の中で、マイクを通して静かに役者が台詞を発している感じが神聖に感じられて好きだった。
最後にその他演出について。
能に関する演出は、考察パートでしっかりまとめるとしてそれ以外の点についての演出を見ていく。
私がこの舞台を観劇していて一番面白いと感じたのは、後半に差し掛かってビックバンだの皆既日食だの宇宙にまつわる現象について言及された時に、役者たちが舞台中央の泉を中心として楕円に周回しながら演技をしていた点である。さらに、少女は自らの体をグルグルと回転させながら、泉を中心として周回していた点である。これはまるで、各役者が泉を太陽と据えた惑星のようで、少女がグルグル回転しているのは惑星の自転であるようにも見えて面白かった。舞台全体がまるで宇宙空間のようで神秘的だった。
この舞台作品のテーマの1つに「時間と空間」という概念があると思っていて、空間に関しては先述した宇宙空間がまさにそうだと思っている。時間に関しては、半世紀前にセーヌ川に身を投げたパウル・ツェランと今を生きる派手な衣装の女性、138億年前に起こったビックバンとビックバンが起こらなかった無の存在、そして4月20日に出会うはずだった「彼」という幻の存在を題材として取り上げている点がリンクすると思っている。どの事柄にも共通して言えることは、それぞれが別の時間軸に存在しているということ。例えば、半世紀前に生きたパウル・ツェランと今を生きる女性、ビックバンとビックバンが起きなかった時間軸、新型コロナウイルスが蔓延した世界と蔓延しなかった世界。それぞれ存在する時間軸が異なることである。これらを描くことによって、異なる時間軸に存在する幻に対して思いを馳せる構造になっていて、それが終盤の伏線にもなっていて素晴らしかった。
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【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
劇団あはひの劇団員をはじめ、若い俳優4人が出演されていたが非常にはまり役で素晴らしかった。
各俳優についてみていく。
まずは少女の役で、最後に能のシテとしてマスクを付けながら踊った劇団あはひ所属の古瀬リナオさん。今回彼女の演技を拝見するのは初めてであるが、非常に観客を惹き付ける力のある女優だと感じた。
絶えず表情を変えることはあまりなく、声にもあまり抑揚は感じられないのだけれど、非常に声が透き通っていてクリアだったので、その力強く鋭い声色に魅了されていた。
そして独特な台詞回しも好きだった。「てへ」とか「気になっちゃう今日この頃」など、何回か登場する言葉があるけれど、凄く耳に残りやすくて印象に残っている。
後は終盤でマスクをつけながら、本来出会うべきだった「彼」に思いを馳せる、そして「彼」に恋い焦がれる様が観ていて非常に惹き込まれた。
次にカラス役を演じた劇団あはひ所属の松尾敢太郎さん。彼の演技を拝見するのも初めてだったが、カラス役というのもあったせいか非常にキャラクター性の強い尖った演技をしていて印象に残った。
まずカツラだったのか分からなかったが、髪が赤色だった点に目を引いた。そしてアニメ「鬼滅の刃」のカラスのように非常に甲高い声で話をするので凄く印象に残った。
そして映像で日本語訳が表示されるくらいなので、何を言っているのか聞き取れない箇所が多多あった。それは日本語が聞き取りづらいというよりは、むしろ違う言語を話しているから。このカラスは、少女と派手な衣装を着ている男女、つまり幽霊との仲介役のような立ち位置となっている。つまり、現実世界の人間と幽霊との架け橋のような存在。これが能においてどういったポジションかは分からないが、このカラスは終盤で自分はコロナであると名乗り出ているので、現実と理想を分断した存在、つまりこのカラスという存在はこの世界を創り出した、「盗まれた手紙」の作者であるエドガー・アラン・ポーであったり、この脚本を書いた大塚健太郎さん自身にも思えてくる気がした。
そして、派手な衣装を着ていて幽霊の役でもあった、安光隆太郎さんと渋谷采郁さん。衣装も相まってか、物語後半で幽霊だと分かってからずっと幽霊にしか見えなくなった。
個人的には渋谷さんのか細い声が好きだった。どこかこの世にいない存在の声のようなそんな声に聞こえてきて役にはまっていた。
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【舞台の考察】(※ネタバレあり)
劇団あはひの主宰であり今作の脚本・演出を手掛けている大塚健太郎さんは、早稲田大学文学部に在学中であり、たしかにこういった非常に教養を求められる脚本を書くためには、それなりの文学に関する知識を有していないと難しいので文学部所属というのはたしかに納得する。しかし、どうしてこのような演劇作品を創作しようと思ったのかは聞いてみたいところである。
コロナ禍を経験した劇作家なので、たしかにコロナ禍がなければというifの世界に興味を持つということに関しても必然性は感じるのだが、それを敢えてフランス文学と織り交ぜる必要はないし、セカイ系で描く必然性もないし、ましてや能をピックアップする必要もない。それらを結びつけて語ろうとした動機は非常に気になるところである。
先述したように考察パートでは、能という切り口で今作を分析していきたいと思う。
能にはシテという役とワキという役がある。シテが能においては主人公のようなもので、必ずシテは人間以外のこの世には存在しない存在、すなわち幽霊であったり怪物であったりする。観客はワキという人間を通じることでシテという非人間を見ることができて、そのシテの未練や後悔を舞として見物するのが能の基本的なフォーマットとなっている。
そんな能の前提知識をおいた上で、今作の「光環(コロナ)」について考えてみる。
私は今作を観劇していて、途中でこれは能だなと勘付いていたのだが、少女がマスクを付けて登場して一人踊り始めたタイミングで違和感を感じた。上記の能の基本フォーマットが頭に入っていれば気がつくことかもしれないが、今作でいうシテはマスクをした少女であり、ワキは少女が4月20日に出会うはずだった「彼」になっている。つまり今作は普通の能とは異なり、シテが現実に存在するもの、ワキが現実に存在しないものという逆転現象が起きているということである。
さらに、普段の能では幽界と現実世界を結ぶ橋掛かりというのは、下手側奥にしか存在しない。しかし、物語終盤には上手側手前にも橋掛かりが存在していて、最後にマスクを付けた少女はこの上手側手前の橋掛かりを通って本舞台をハケていくのである。非常に能としては特殊な演出手法を取っている。
ではこれらの演出は一体何を表しているのだろうか。
私の解釈では、私たちが今生きている暮らしている現実世界そのものが幻の世界であり、成仏させたい対象だと思いたい・願いたいという作者の願望ではないかということである。
私たちはまるで新型コロナウイルスの出現によって、今までマスクなしで暮らしていた世界とは別の世界に転生してしまったかのような錯覚がある。それまで当たり前のように出来ていたこと、みんなで居酒屋でワイワイ騒いだり、花火大会を物凄く多くの観客と楽しむことが出来なくなってしまった。
能というのは怪物や幽霊の未練を表現する芸能であったが、ここでは今現実世界を生きている私たちがコロナ禍がない平和な世界を切望する未練を能として描いているのではないかと思った。
だからこそ、シテはマスクをつけた現実世界を生きる少女そのものであり、最後にハケていくのは現実世界、つまり客席を幽界として見立てた場合の上手手前側にかかる橋掛かりを使ってハケていっているのである。
つまりこの演劇作品は、コロナ禍という現実世界と、コロナ禍によって今までの生活が出来なくなってしまったり、コロナ禍がなければ実現出来たはずの出来事に対する未練を描いた作品なのだと解釈した。
演劇業界にとってコロナ禍はまさに辛く悲しい存在、そんな現状を成仏させたい。そんな祈りから、シテが現実世界を生きる人間として描いたのだろう。
私たちが今暮らすウィズコロナの世界はきっとコロナウイルスの出現によって異世界に転生してしまった世界なのかもしれない。まるでビックバンによって世界というものが138億年前に誕生したように。ビックバンが起きなければ存在するはずだった無という時間と空間に思いを馳せることによって、すなわち少女がコロナ禍が起きなかった世界で4月20日に出会う「彼」に想いを馳せることによって、この私たちが日々抱え続ける未練というものは浄化されるのかもしれない。
【写真引用元】
ステージナタリー
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↓能を題材にした舞台作品