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舞台 「朝日のような夕日をつれて2024」 観劇レビュー 2024/08/12


写真引用元:『朝日のような夕日をつれて2024』 公式X(旧Twitter)


写真引用元:『朝日のような夕日をつれて2024』 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:「朝日のような夕日をつれて2024」
劇場:紀伊國屋ホール
企画・製作:サードステージ
作・演出:鴻上尚史
出演:玉置玲央、一色洋平、稲葉友、安西慎太郎、小松準弥
公演期間:8/11〜9/1(東京)、9/6〜9/8(大阪)
上演時間:約2時間(途中休憩なし)
作品キーワード:不条理劇、科学技術、AI、メタバース、熱量、考えさせられる、笑える
個人満足度:★★★★★★★★☆☆


著名な劇作家の一人である鴻上尚史さんが主宰していた劇団「第三舞台」の旗揚げ公演として1981年に初演され、その後何度も再演を重ねてきた『朝日のような夕日をつれて』を観劇。
『朝日のような夕日をつれて2024』と題される今作は初演から7度目の再演となり、6度目の再演であった『朝日のような夕日をつれて2014』に出演されていた玉置玲央さん以外キャストが一新されて上演された。
私は、『朝日のような夕日をつれて』という作品に触れること自体初めてであり、実は鴻上尚史さんの戯曲の上演を観劇するのも初めてである。
尚、鴻上さんの演出作品は「虚構の劇団」の解散公演『日本人のへそ』(2022年10月)で観劇したことがある。

物語は、フランスの劇作家サミュエル・ベケットの不条理演劇の代表作である『ゴドーを待ちながら』を下敷きに、おもちゃ会社である「立花トーイ」に勤める会社員たちが、新しいおもちゃを開発していくというものである。
「立花トーイ」の部長であるウラヤマ(玉置玲央)は、社長であるエスカワ(小松準弥)に「立花トーイ」の業績が振るわずこのままでは倒産してしまうから、なんとかして新しい売れるおもちゃを企画してくれと頼まれる。
一方、「立花トーイ」のマーケッター(稲葉友)と研究員(安西慎太郎)は、ChatGPTの最新版であるGPT-4を駆使して新商品開発を推し進めようと話している。
ウラヤマとエスカワは、テレビCMの真似事をしたり、ポジティブな言葉の四字熟語を言い合ったり、逆にネガティブな言葉の四字熟語を言い合ったり、ドッジボールやフラフープなどの体を使った遊びなどをしながら楽しんでいるが、ゴドーという人物を探していることを思い出す。
そこにゴドー(安西慎太郎)を名乗る男が現れて...というもの。

全く戯曲すらも読んだことないまま、「第三舞台」の旗揚げ公演で何度も再演されている有名な演劇作品というだけの情報で観劇した私だったが、結論物凄く楽しむことが出来た。
その大きな要因は3つの個人的な驚きにあったと思う。

一つ目は、まるで劇団「柿喰う客」の作品を観ているような猛スピードの台詞回しと俳優陣の熱量にある。
劇序盤から玉置さんをはじめ男性キャストたちの捲し立てるようなジェットコースター並みの台詞量を浴びるように体感出来る爽快感が素晴らしかった。
玉置さんがそもそも「柿喰う客」の劇団員でもあるし、ステージ上に何もない素舞台にガバッと照明を奇抜に当ててジャケットを着た男性キャストが格好良く見える様は「柿喰う客」を思わせるし、どこか『熱海殺人事件』らしさも感じた。
『熱海殺人事件』は今作と同じ紀伊國屋ホールで上演されることも多く、やはりこの劇場はそういう80年代の小劇場演劇的な熱量を放出する作品が似合っていると改めて感じた。

二つ目は、第四の壁を破って客席を使った演出の多さに驚かされた。
ウラヤマとエスカワのドッジボールをするボールがどんどん大きくなって、最終的には大玉転がしをするくらいの大きさになって客席に飛んでくるのがとても愉快な演出だった。
また大量のカラフルなボールがステージの天井から降ってきて客席に落ちていったり、よくコンサートの最後などで客席に放たれるクラッカーみたいなものが割と序盤から飛んできたり、ゴドーらしき人が客席から登場したり驚きの連続だった。
私は普段客席を使った演出を観ることに慣れてはいるものの、ここまで多いと演劇を楽しむというよりは演劇に参加しているかのような感覚にもなると感じた。

三つ目は、生成AIやVR、MRといった最新の科学技術の情報などが巧みに戯曲に取り込まれた上で、しっかりとラストは哲学的なメッセージ性になっていた点である。
今作の初演が行われた1981年から科学技術の進歩も目覚ましく、その歴史を体感出来る演出があった点と、その先にある未来に自分たちはなぜ向かっていくのか、その哲学性が小劇場演劇の小難しさと良い意味で融和していて個人的には凄く好きだった。
また昨今では2.5次元舞台も流行っているので、2.5次元病という形で2.5次元作品を自己批判するのも斬新な演出だった。
そこに対して観客も一番爆笑していて、観客が割と年齢層高めだったので2.5次元好きの方々なのかは分からないが、2.5次元と小劇場演劇が融和した作品でもあったように思えて私は嬉しかった。

おそらくかつての『朝日のような夕日をつれて』のファンの方が多いからか、客層は年齢層が高いように思えたが、今作はもっと若い世代でも凄く楽しめる作品だと思うので、特に10代、20代、30代の私のような『朝日のような夕日をつれて』を観たことがない人に観て頂いて衝撃を受けて欲しいと感じた。

写真引用元:ステージナタリー 紀伊國屋ホール開場60周年記念公演 KOKAMI@network vol.20「朝日のような夕日をつれて2024」より。(撮影:田中亜紀)


↓ティザー映像




【鑑賞動機】

鴻上尚史さんの戯曲の上演をまだ観たことがなかったので観たいと思っていたのと、『朝日のような夕日をつれて』が名作なので観ておきたいと思ったから。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

暗転の最中、「朝日のような夕日をつれて 僕は立ち続ける・・・」と独白が語られる。終わると照明と音楽が一斉にカットインされてオープニングが始まる。
おもちゃ会社である「立花トーイ」の部長であるウラヤマ(玉置玲央)と社長のエスカワ(小松準弥)は話している。「立花トーイ」の業績は振るっておらず、このままでは会社が倒産してしまうと。何か新しいおもちゃを開発して発売して大ヒットさせないといけないと、何か良いアイデアを考案してくれとエスカワはウラヤマに相談する。
一方、「立花トーイ」のマーケッター(稲葉友)と研究員(安西慎太郎)は、二人でどのようにおもちゃの新商品開発を行うかアイデアを出し合っていた。ChatGPTの最新版であるGPT-4を駆使すれば、素晴らしいおもちゃの新商品アイデアを考案してくれるだろうと話している。

ウラヤマとエスカワは二人で会話している所にテニスプレイヤーの格好をした少年(一色洋平)が現れる。少年は松岡修造のように赤い服を着た熱血なテニスプレイヤーだと思いきや、名前は水原一平だと言っていて趣味はギャンブルだった。
ウラヤマとエスカワはテレビCMの真似事をしている。ビズリーチのCMや噛むんとフニャンを歌ったり、燃焼系アミノ式などを歌っている。次に生きる希望を感じる四字熟語を言い合う。「世界平和」とか「酒池肉林」とか「海外旅行」とか。しかしどちらかが四字熟語でない回答をしてブッブーとなる。次に背筋がゾッとする四字熟語言い合う。「痴漢冤罪」とか「残高不足」とか「生涯独身」とか。しかしどちらかが「原発事故」と言って沈黙してしまう。次は画家の名前を使って遊ぶ。
ウラヤマとエスカワは、今度はドッジボールをやろうと言ってボールを取り出す。しかしボールを投げ合っているうちに、どんどんボールの大きさは大きくなり、最後には大玉転がしの大玉くらいの大きさになって、それを投げたことによって客席に飛んでいってしまう。観客が大玉送りのようにステージ上に大玉を戻す。
次にウラヤマはフラフープをやり始める。そのフラフープのリングも徐々に大きくなっていって、最後にはステージの奥行きの大部分を占めるくらいのリングでフラフープをしていた。そしてステージ天井からは大量の小さなカラフルボールが降ってきて、傾斜がかかっているステージの床面を客席側の方へと転げ落ちていった。そしてステージのシャワークラッカーのようなものも鳴り響き、客席側にキラキラした紙テープが大量に撒かれた。
ウラヤマとエスカワは、ゴドーという人物を探していることを思い出す。そこへ客席側からゴドー(安西慎太郎)を名乗る男性がマイクを持ってやってくる。そして客席の一人に誰を探しているんですかと問い、「ゴドー」と答えてもらう。ゴドーはステージ上に上がる。

ウラヤマ、エスカワ、ゴドーは三人で〇〇の会を結成するシーンを繰り広げる。ウラヤマは「ぼっちの会」を提案する。ぼっちで寂しい人たちが集まって「ぼっちの会」に参加しようと。しかし、ぼっちが「ぼっちの会」に入会したことでぼっちでなくなってしまうではないかと反論される。
次に「真実と光の党」を結成する。この党は、「5G」という政府の陰謀による光線から逃れる党である。「5G」は人体に悪影響を及ぼすと。5Gから逃れようとする三人、しかし難しい。そこからコロナは政府の陰謀だ、コロナワクチンは打ってはいけないなどと言い出す。
映像で、ゲームの歴史が流れる。1972年にはアメリカでテニスゲーム「ポン」が発売され、1978年には日本で「インベーダーゲーム」が発売された。1983年には「ファミコン」が発売されて、そこからどんどんテレビゲームは進化していって、21世紀になるとスマホゲームも流行り、2016年には「ポケモンGO」も登場した。
マーケターと研究員が登場して、新しいおもちゃを考案したという。それは、VRゴーグルを使ってバーチャルな世界で体全体でゲームを楽しむというものだった。コロナ禍でzoomを使ったオンライン飲みが流行ったがなぜ定着しなかったのか。それは、画面上でしか情報を得られないからで没入感が少なかったから。VRゴーグルをつけて全身で情報を得ることができれば売れるに違いないと思った。また、そんなVRの世界に登場するのはAItuverという、中身がAIのVtuberである。

ウラヤマ、エスカワ、マーケッター、研究員たちの会話でひょんなことから「2.5次元病」というワードが出てくる。「2.5次元病」とは2.5次元俳優が稽古中にずっとアニメキャラに扮して演技するあまり、日常でもそのアニメキャラの行動が出てしまう現象である。
「ヴァレンシアガ」「グッチ」「Y-3」と書かれたゼッケンを着ている俳優たちの中に、一人だけ『鬼滅の刃』の煉獄さん(一色洋平)の格好をした俳優が混じっており、作品が違うから着替えて来いと言われる。煉獄さんは立ち去る。三人の俳優は『ハイスクール演劇部』という演目でそれぞれの役を披露する。
三人終わった後、少年が着替えてきて今度は『呪術廻戦』の虎杖悠仁(一色洋平)の格好で登場する。しかし再び作品が違うと言われる。これから『呪術廻戦』のキャストオーディションに行ってくるらしい。しかしその後すぐ少年は着替えてきて、今度は『SPY×FAMILY』のアーニャ(一色洋平)の格好で登場する。ひたすらアーニャになりきって一人芝居を披露する。
2.5次元病の一連のシーンが終わると、背後からもう一人のゴドー(稲葉友)が天井から下に降りてきて登場する。

みよ子という女性のことを思い出す。ゲーム開発を進めるのはみよこのためでもあったことを思い出す。
ウラヤマ、エスカワたちは学校の教室のような場所で、女性を好きにするテクニックを実演を踏まえて学んでいた。吊り橋効果やミラー効果、初頭効果など恋愛心理学的なことを学んで実践していた。
ウラヤマ、エスカワ、二人のゴドーの間に少年が割って入る。自分の出番が全然ないじゃないかと。少年役の男は、ずっと『朝日のような夕日をつれて』に出演したいと思っていたので、出演が決まって凄く喜んでいたと言う。演出家にどの役をやりたいかと聞かれたそう。それはもう『朝日のような夕日をつれて』に出演出来るのならどの役でも有り難く引き受けるが、強いてあげるなら一番出番の少ない少年以外でと答えたそう。
少年はウラヤマたちにガン無視されて退場させられ、4人でシーンは続く。

ゴドーは誰なのか、二人のゴドーがウラヤマ、エスカワの前に現れる。どちらもゴドーを名乗っている。その中央に医者も現れて私こそがゴドーだと第三のゴドーも現れる。果たして誰がゴドーなのかと「REAL&FAKE」の文字がスクリーンに現れる。第三のゴドーはお前は違うとすぐに退場させられる。残った二人のゴドーは、どっちが本物なんだとウラヤマ、エスカワを混乱させる。
二人のゴドーはお互い和やかに語り始める。
次にウラヤマ、エスカワの二人で熱い議論が交わされる。人は17歳の時に出会ったモノに一生影響され続けると語ったり、今の情報化社会では20世紀までの情報量と同じものがたった数日で生成されていると語る。進化についての話をする。人間はDNAという遺伝子の形で子孫に情報を受け継ぐ。DNAには4つの核酸から構成されていてこれらの組み合わせによって遺伝子を受け継ぐ。一方、デジタルの世界では2進法といって0と1の二つの情報の組み合わせによって情報を伝えるという形で似ているのだと。

マーケターと研究員は、新しく開発したおもちゃ「メタ・ライフ」の話をしている。VRゴーグルを被ると、全てがゲームの世界になる。自分がその世界の中でアイドルになって輝くことも出来て、そのリスナーは全てAIである。しかし、ChatGPTがそうであるようにAIは、基本的に褒めてくれたり、良いことしか言わない。それが人間の心から徐々に遠ざかっていった。誹謗中傷は言われたくないけれど、良いことばっかり言うような存在でも人間の心を満たすことは出来ないのだと。
少年が再び4人の前に現れる。「シチュー溶かしちゅう」「シチュー焦しちゅう」などダジャレを言い続けるが、一向に相手にしてくれない。
みよ子はどこだと言う。ウラヤマがずっとゲームの開発に熱中になっていたのは、みよ子のためでもあったのだと。人々が生成AIに期待したり不安に思ったりするのは、人間は皆未来に興味関心があるからだと言う。人々はきっと未来に思いを馳せることでワクワクドキドキしたいのだろうと。

俳優たちはアングラ的な演技で、輪廻転生を唱える。リーンカーネーションと。
そして「朝日のような夕日をつれて 僕は立ち続ける・・・」と全員で冒頭と全く同じモノローグを語って上演は終了する。

最初の戯曲が、鴻上さんが早稲田大学の学生時代の時に書いたものということで、何やら小難しいことをベラベラと並べて何か一貫したメッセージ性や戯曲構成としての巧妙さみたいなものには欠けるのかなと思うが、凄く普遍性のあるテーマでこうやって今の時代でもアップデートして上演出来る素晴らしさに感動した。
理系である私にとっては、ChatGPTが登場したり、ハルシネーションが登場したり、歴代電子ゲームの進化や科学技術の進化を体感できる映像が流れて凄くワクワクさせられた。そしてそういったワクワクする感情というのは、確かに今作のメッセージでも描かれているように、未来に対する期待なのかもしれない。今後未来はどう変わっていくのか、その新しい体験が出現する可能性を指し示す祈りだからこそワクワクするのかもしれない。
そして、みよ子という好きな女性の存在が登場するが、人は確かに何かに対して頑張るモチベーションを生み出すとき、好きな相手がいるということも脳裏に過ぎってポジティブに作用するのかなと思った。新商品の開発を頑張ろうと思うのは、好きな相手によく思われたいから、好きな相手を助けることができるから。直接的なメッセージではないけれど、凄く描写に意味づけがなされるから良いなと感じた。

写真引用元:ステージナタリー 紀伊國屋ホール開場60周年記念公演 KOKAMI@network vol.20「朝日のような夕日をつれて2024」より。(撮影:田中亜紀)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

劇団「柿喰う客」の作品の世界観と近くて、舞台セットとかは何もなく素舞台なのだが、舞台照明がガバッと奇抜に使われたり、捲し立てるようなハイスピードな台詞回しに瞬く間にお腹いっぱいになってしまう演出だった。
舞台セット、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台セットについて。
先述した通り、ステージ上に舞台装置は何も仕込まれておらず、ステージ背後には暗幕がずっとかけられているだけ。しかし、二人目のゴドーが登場する時に背後の暗幕は開かれ、昇降する長いレーンのようなものがあって、そこから二人目のゴドーが降りてくる演出があった。
また、ステージの床面はとあるシーンで傾斜が掛かるようにセットされていて、特にラストシーンでは大きく床面が傾斜がかかった上に5人の俳優が立っていた。
あとは大道具、小道具の点では、ドッジボールの球が次第に大きくなっていって、最後には大玉転がしくらいの大玉がバックステージに用意されていたのが印象的だったのと、フラフープも普通のサイズから巨大なサイズまで用意されていた。巨大なリングでミスなくフラフープ出来る玉置さんも素晴らしかった。

次に映像について。
基本的にステージ背後の暗幕の前に巨大な一枚のモニターがあって、そこに映像が流れた。
映像として流れる内容には説明的なものが多くて、電子ゲームの歴史の歩みが字幕で表示されたり、『朝日のような夕日をつれて』の過去作のゲームの名前が上演された西暦と共に時系列で表示されたりした。
また、「ぼっちの会」「真実と光の党」などが文字として表示されたり、恋愛心理学のシーンで〇〇効果が全て字幕で表示されたりと、文字で説明される映像が多かった。
文字が表示される以外の映像だと、RADWIMPSの楽曲に合わせてまるでPVのような映像が流れたり、少年がアーニャをやるシーンで『SPY×FAMILY』の世界観っぽいアニメの背景が投影されたりしていた。

次に舞台照明について。
舞台照明は、本当に「柿喰う客」の芝居を観ているかのような感じで奇抜で格好良かった。カラフルな照明がガバッと役者たちに当てられるザ・エンターテイメントな感じが良かった。
まず、最初のシーンで暗転から始まるのも良かった。そこで微かに「朝日のような夕日をつれて 僕は・・・」と始まる感じが個人的には好きだった。
終盤のシーンで、5人の役者がアングラ的に這い上がったり下がったりしながら全員で独白を語るシーンの、あの赤く暗い照明も格好良かった。どこか80年代の小劇場演劇らしさを感じた。つかこうへいが描くアングラ演劇っぽさを感じた。
そして終演後に、役者一人一人に向けてスポットで白く照明を当てながら素早く一礼する役者も格好良かった。凄く斬新な演出で良いなと感じた。

次に舞台音響について。
音楽は、80年代の小劇場演劇らしさと令和のヒットソングの融和を感じた。圧倒的な熱量を引き立てる客入れ、客出しの音楽は小劇場演劇らしさを感じるBGMだったのに対し、途中のPVみたいな映像が流れるシーンではRADWIMPSが流れたり、菅田将暉の『虹』が流れたり、アーニャのシーンでは『SPY×FAMILY』のオープニング曲であるOfficial髭男dismの『ミックスナッツ』が流れたりと、最近の流行り曲を取り入れていて親しみやすかった。


↓菅田将暉『虹』



最後にその他演出について。
冒頭でも書いた通り、まずは全体的に「柿喰う客」の世界観に近いなと感じた。作品的にはこちらの方が先なので、中屋敷さんが第三舞台の影響を受けてそういう作風で演劇を形作っていったということなのだろうか。とにかく特に劇序盤は「柿喰う客」の芝居を観ているかのような錯覚を受けた。そのくらい台詞回しはスピーディーだったし、役者の熱量は凄まじかった。「柿喰う客」との大きな違いは、そういうテイストの演出で一点張りでない所だろうか。私は今作の演出の方が遊び心を感じて好きだった。
そして、「柿喰う客」らしさを感じたと同時に、『熱海殺人事件』の雰囲気とも近いものを感じた。つかこうへいが描く80年代のアングラ演劇の匂いといった所だろうか。役者の熱量と反骨精神に任せて突っ走る感じの演劇。私はそういう作品が好きなので大満足だった。やっぱり紀伊國屋ホールは、そういうつかこうへい作品のような80年代のアングラ演劇を上演するのに適した劇場だと改めて思った。
これは近年の傾向とでもいったら良いのかもしれないが、今作でも第四の壁を破る演出が多発した。大玉が客席に飛んできたり、カラフルボールが降りてきたり、シャワークラッカーの紙が飛んできたり、ゴドーが客席から登場したり。特に演劇に馴染みのない観客に対するサービスが旺盛で素晴らしかった。誰を待っていますか?と聞かれた観客はいつもどんなリアクションなのだろうか、私が観劇した回に当たった人は「ゴドー」とちゃんと答えていたが、他の回はどうなのだろうか、気になった。
あとはなんといっても役者の体力を要する演出が多いよなと思った。特にウラヤマ役の玉置さんや、エスカワ役の小松さんは相当前半で体力使っていると思う。この夏の暑い中、そして台詞量も多くて全体的にもエネルギー量を消費する舞台の中、あそこまで体を使って動き回って演技して、そこから先も長いシーン演じ切るって凄いなと思った。役者さんの体力には驚かされた。
今話題になっている言葉、バズワード、流行りのニュースを上手く作品に取り入れられる構造を持っているのは、この作品の良さでもあると思った。戯曲デジタルアーカイブに収録されている『朝日のような夕日をつれて2014』と比較すると、今作はChatGPTにまつわる部分などは大幅に変更されており、今の時代に合わせて柔軟に変化していた。ハルシネーションといった用語も然り、zoom飲み会が流行ったけれど定着しなかった要因に触れたり、人はただ褒められるだけのAIには満足しないなど、zoomやChatGPTが登場した後の人間の心情変化までも作品に取り入れて脚本に仕上げている点が面白かった。また水原一平の件や2.5次元病としてアニメ・漫画原作の舞台のあるあるなども取り入れてアップデートしている点も良かった。2.5次元病は、今回出演している役者にも合わせてなかなか上手いなとも思った。

写真引用元:ステージナタリー 紀伊國屋ホール開場60周年記念公演 KOKAMI@network vol.20「朝日のような夕日をつれて2024」より。(撮影:田中亜紀)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

とにかく今勢いのある、小劇場から商業演劇まで幅広く活躍する男性キャスト5人だったので、とにかくその体力と熱量に圧倒された。演技ももちろん素晴らしかった。
5人のキャスト全員について記載していく。

まずは、「立花トーイ」の部長であるウラヤマ役の玉置玲央さん。玉置さんは劇団「柿喰う客」の劇団員で劇団内外問わず多数の舞台出演公演を観劇している。直近だと、舞台『リア王』(2024年3月)で演技を拝見している。
今作では玉置さんの熱量が爆発していて個人的には満足だった。玉置さんの演技は、「柿喰う客」の作品に近い熱量で力推しする感じの演技は私は好みである。
早口で捲し立てるように台詞を矢継ぎ早に言う感じが素晴らしかった。あの台詞量をつっかえずに喋り続けられるのが凄い。内容とかはどうでもよくて、その猛スピードの台詞を浴びることが気分爽快に繋がる。そこが良かった。
そしてとても体力があるのだなと思った。本当に今作に登場する役者さんの体力は化け物みたいだなと驚いた。

次に、「立花トーイ」の社長でエスカワ役の小松準弥さん。小松さんの演技は、「柿喰う客」と「劇団4ドル50セント」のコラボ公演『学芸会レーベル』『アセリ教育』(2020年2月)以来4年ぶりに拝見する。
小松さんは『熱海殺人事件』などにも出演されたことがあって、こういった80年代のアングラ演劇が似合う俳優だなと思いながら見ていた。背が高いのでジャケットがとても映えるし、凄く存在感のある役者に感じた。
玉置さん演じるウラヤマとの掛け合いのシーンが多く、凄く息が合っていた。序盤の二人で四字熟語を言い合うシーンやテレビCMの真似事をするシーン、ドッジボールやフラフープするシーンなど仲良さそうで、こういうシーンいいなあって思った。恋愛シチュエーションのシーンも好きだった。

次に、研究員でかつゴドー役でもあった安西慎太郎さん。安西さんの演技は、TAAC『人生が、はじまらない』(2022年8月)、劇団時間制作『哀を腐せ』(2023年8月)と2度拝見している。
安西さんのキャラクターがここまで陽キャなイメージがなかったので意外だった。もっとかつて観た作品だとクールなイメージだったので、まず熱量あるポジティブキャラがイメージとだいぶ違って驚いた。
なんといってもゴドーとしての登場シーンのインパクトが強かった。客席の方から登場してマイクを持って、ちょっと怪しげな感じの登場なのだがそれがまた良かった。

そしてもう一人のゴドーであり、マーケター役を演じた稲葉友さんは、私は舞台では演技を初めて拝見した。
私のイメージの中では、稲葉さんが5人の中で一番クールな役だった。凄く冷静でどこか不気味な感じがある。だから最後にどちらがゴドーだってなった時に、安西さん演じるゴドーとは対照的だった。

私が一番5人の中でインパクトが強烈で好きだったのが、医者=少年役の一色洋平さん。一色さんは俳優としてお名前は度々知っていたのだが、演技拝見は今回が初めて。
とにかく一番出番は少なかったと思うが強烈な役だった。あの役は、なかなか誰でも務まるものじゃないと思う。松岡修造の格好をして水原一平と名乗るインパクト、煉獄さんの格好をして登場したり、虎杖悠仁の格好をして登場したり、少年の役になった演出家とのやり取りの裏事情までも舞台に載せてしまって笑いを取るあたりが凄く好きだった。
そしてなんといってもアーニャの完成度の高さ。台詞はよく覚えていないのだがめちゃくちゃアーニャのキャラクターを完コピしていてびっくりするクオリティだった。「あざざます」とか「アーニャ、〇〇したいな〜」とかアーニャが言いそうな台詞が全部短時間に詰め込まれていて、『SPY×FAMILY』好きの私にとっては堪らないシーンで大爆笑だった。
終盤に登場するダジャレのセンスも凄く良かった。ダジャレを聞いて久々に笑った。

写真引用元:ステージナタリー 紀伊國屋ホール開場60周年記念公演 KOKAMI@network vol.20「朝日のような夕日をつれて2024」より。(撮影:田中亜紀)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは今作の下敷きとなっているサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を踏まえて、この作品を考察していこうと思う。

今作を観劇していて私が思い出したのは、かつてホリエモンがYouTubeで言っていたとある言葉である。「人生は壮大な暇つぶし。豊かな人生を送るために「遊び」を全力でやろう」という言葉である。当時私はこの言葉は、人生一度しかないのだから、どうせ生きるなら豊かに楽しく送った方が絶対良いという思想だと捉え、何事にも積極的に挑戦していこうという素直な気持ちで受け取った記憶がある。
しかし、今作を観劇した後だと、この言葉にはもっと深い意味があるのかもしれないと思った。

今作のベースとなっている『ゴドーを待ちながら』は、フランスの劇作家サミュエル・ベケットが、第二次世界大戦が終わってまもなく書き上げた不条理演劇の代表作の一つである。『ゴドーを待ちながら』は、非常に前衛的な戯曲で、それまでの伝統的な演劇手法に疑問を投げかけて新たな手法を確立したもので、当時演劇界に非常に大きな影響を与えた。
『ゴドーを待ちながら』の作中では特にこれといった大層な事件が起きる訳でもなく、いってしまえばウラジミールとエストラゴンの二人の男性がずっとゴドーという存在を待ち続ける物語である。ゴドーを待っている最中二人の男はずっとたわいもない会話というよりは、不条理演劇なので脈絡のない会話しかしていません。
途中で主従関係にあるボッツォとラッキーが登場したり、少年がやってきたりするが、結局ゴドーは待っても待ってもやってくることはなく物語は終わる。

これだけ書くと非常につまらない物語に感じるかもしれないが、不条理演劇であるのでこの作品自体が何かのメタファーとして捉えることができて、そこに明確な正解はない。よく議論されている解釈だと、ウラジミールとエストラゴンの二人のたわいもない会話こそが人生そのものであり、ゴドーというのは人生の目標だったり、夢だったり、希望だったり、神だったりと、いずれにせよ人間が追い求める何かではないかと解釈されることが多い。
それは、この『ゴドーを待ちながら』が書かれた1940年代後半というのが第二次世界大戦が終戦して世界全体が退廃とした時代で、ただ生きていること自体が虚無感に覆われていて、何かしら希望を皆が求めた時代だったからこそこんな作品が生み出されたのかもしれない。

そんな『ゴドーを待ちながら』を今作に当てはめてみると面白い。『ゴドーを待ちながら』に登場するウラジミールとエストラゴンは、今作でいうと「立花トーイ」の部長であるウラヤマと社長のエスカワである。そしてボッツォとラッキーという主従関係の存在は、「立花トーイ」のマーケターと研究員といった所であろうか。そして少年は少年であろう。
ウラジミールとエストラゴンがゴドーを待ちながら、たわいもない会話や脈絡のない会話をしていたように、ウラヤマとエスカワはテレビCMの真似事をしたり、四字熟語で遊んだり、ドッジボールやフラフープをしていた。そしてゴドーを待っていた。
しかしここで、『ゴドーを待ちながら』と今作ではおもちゃの新商品開発という文脈はどう繋がるのかと思うかもしれない。そこに今作の面白さがあると思う。人は人生において、何かしらの夢や目標を持つことで生きがいとしようとする生き物である。新しいおもちゃを開発したいという欲求や、「立花トーイ」の業績を回復させたいという目標と夢こそが、人々が一般的に追いかける人生の目標や夢のメタファーになるのではないかと思う。
つまり、今作でいうゴドーというのは、「立花トーイ」の業績を回復させるおもちゃの新商品開発の成功なのかもしれない。だからウラヤマもエスカワもずっとゴドーを待っているのではないかと思う。

今作ではそこに生成AIも登場する。私たちが生成AIに対して求めるものは、確かに夢や希望なのかもしれない。生成AIの出現によって、私たちの日常は大きく変わりつつある。それは生成AIによって、今まででは出来なかったことが出来るようになる、その無限の可能性を秘めているからである。
生成AIを駆使することに目を光らせている人々というのは、その先にある未来を変えられるかもしれないという希望と夢を追いかけているからなのかもしれない。そしてそれこそ、今作で描きたいゴドーなのかもしれない。
生成AIだけでなく科学技術を駆使することそのものに対して、人間は未来に対して夢と希望を追い求めているからこそ、今作は普遍的な作品になり得て、科学技術の発達が著しいからこそ、再演する度に状況も変化しているし、新しい要素が加わったオリジナリティある作品に仕上がるのかもしれない。

生成AIを使って未来を切り拓いたり、科学技術を発達させてより良い社会を創り上げようとする姿勢は、人生が壮大な暇つぶしであるが故に、いかにその人生を退屈せずに豊かにできるかに対しての一つのアンサーなのかもしれない。『ゴドーを待ちながら』で描かれているように、どんな時代であっても人々は生きる目標や夢を追いかけたい生き物なのである。
私も、こうやって演劇を広める活動をしたり、何か新しいサービスを生み出そうと躍起になているのは、人生をどう暇つぶしするかに他ならない。いかに楽しく充実した人生を送ろうとしているかに他ならない。
生きていくことの全てを「遊び」と捉えて、楽しく充実した人生を送ることで、決して出会うことはないと思うけれどゴドーという存在がいる所に近づいてゆけたら良いなと思う。

写真引用元:ステージナタリー 紀伊國屋ホール開場60周年記念公演 KOKAMI@network vol.20「朝日のような夕日をつれて2024」より。(撮影:田中亜紀)


↓鴻上尚史さん演出作品


↓玉置玲央さん出演作品


↓安西慎太郎さん過去出演作品


↓小松準弥さん過去出演作品


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