舞台 「正三角関係」 観劇レビュー 2024/08/17
公演タイトル:「正三角関係」
劇場:東京芸術劇場 プレイハウス
劇団・企画:NODA・MAP
作・演出:野田秀樹
出演:松本潤、長澤まさみ、永山瑛太、村岡希美、池谷のぶえ、小松和重、野田秀樹、竹中直人、秋山遊楽、石川詩織、兼光ほのか、菊沢将憲、久保田武人、後東ようこ、近藤彩香、白倉裕二、代田正彦、八条院蔵人、引間文佳、間瀬奈都美、的場祐太、水口早香、森田真和、吉田朋弘、李そじん
公演期間:7/11〜8/25(東京)、9/5〜9/11(福岡)、9/19〜10/10(大阪)、10/31〜11/2(ロンドン)
上演時間:約2時間20分(途中休憩なし)
作品キーワード:カラマーゾフの兄弟、法定劇、宗教、戦争、愛憎劇、ラブストーリー、家族、サスペンス、考えさせられる
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆
日本の著名な劇作家の一人である野田秀樹さんが主宰する「NODA・MAP」の新作公演を観劇。
「NODA・MAP」の舞台作品は、近年では毎年夏に東京芸術劇場プレイハウスで上演されており、私は『フェイクスピア』(2021年6月)、『Q』:A Night At The Kabuki(2022年9月)、『兎、波を走る』(2023年7月)と過去3年連続観劇している。
物語は、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』を下敷きに、花火師の長男である唐松富太郎(松本潤)、量子物理学者の次男である唐松威蕃(永山瑛太)、聖職者の三男である唐松在良(長澤まさみ)を中心に、父親殺しの裁判を巡る物語となっている。
富太郎は、盟神探湯検事(竹中直人)と不如火弁護人(野田秀樹)に囲まれながら、父親である唐松兵頭(竹中直人)の殺人について法廷で尋問を受けている。
富太郎は皆が笑顔でいられるような花火を作りたいという思いから花火師になっている。
一方、次男の威蕃は量子物理学に興味を持ち、ノートで数式を追いながらローレンツ変換などを勉強していた。
そんな中空襲警報が鳴り始める、周囲にいた民衆たちは防空壕に逃れる。
そこから、富太郎と関係があった生方莉奈(村岡希美)やグルーシェニカ(長澤まさみ)といった女性たちが登場する一方、花火の火薬が全て戦争のために没収されてしまったりと戦争は激しくなっていくが...というもの。
4年連続「NODA・MAP」の作品を観劇してきた身としては、今作はだいぶ分かりやすいテーマで物語は進んでいったと感じたのが率直な感想である。
『フェイクスピア』や『兎、波を走る』は、割と終盤にならないと何の事件について言及しているのか分からない節があったが、今作は太平洋戦争であること、そして長崎に投下された原爆のことであると割と序盤に察しがついてしまった。
それは映画『オッペンハイマー』を鑑賞していて、量子物理学者が登場する所から想像しやすかったからかもしれない。
だからこそ、少し終盤への描写に意外性に乏しくて、いつもの「NODA・MAP」を期待していた私には少々物足りない部分があった。
しかし、表面的なストーリー理解はしやすくても、なぜドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と長崎の原爆投下を重ねて描いたのかといった、裏に隠されたメッセージ性を汲み取ろうとすると、なかなか見応えのあるテキストになっていて非常に楽しむことが出来た。
そこにはドストエフスキーの小説に内在する宗教的なテーマや、長崎の原爆投下によって起こった悲劇は誰が罰せられるべきなのかといった善悪の問い、また戦時中は人々を平和で幸せにする花火師の仕事は無くなってしまうという不条理などが織り込まれていて、考察すればするほど奥深い作品になっていることは間違いなく、そこを私は楽しむことが出来た。
また「NODA・MAP」らしく、耳に残る言葉遊びや、布やテープ、ボールなどの小道具を使った創意工夫の凝らされた演出手法は健在で、改めて演劇でしか表現出来ない魅力を味わうことができた。
NISAを言葉遊びに使う台詞や、TwitterとXを使った台詞などが面白くて印象に残ったり、量子の動きをカラフルなボールで表現したりする演出手法が独特で印象に残った。
また、プロレスのリングをテープで表現して演出するやり方も上手いなと感じた。
ただ、演出の創意工夫性という点でも、「NODA・MAP」の過去作の方が驚きが多かった印象だった。
役者陣も演技力だけでなくテクニカルな部分も含めて素晴らしいと感じた。
主人公の唐松富太郎を演じた松本潤さんは、舞台で演技を拝見するのが初めてだったが、特に終盤のモノローグでグッと引き込まれて涙するくらい魅力を感じた。
唐松在良とグルーシェニカを演じた長澤まさみさんも、劇中盤での早着替えに驚かされた。
竹中直人さんと野田秀樹さんのベテランで貫禄があるが故の演技の魅力も存分に発揮されていて素晴らしかった。
従来の「NODA・MAP」ファンにとっては、少々ストーリーが短絡的過ぎたり、いつもより「あっ」と思わせる演出が少なかったので物足りないかもしれないが、誰しもが知っている長崎の原爆投下を扱っていて、日本人であれば間違いなく心に響く作品に仕上がっているので、幅広い客層におすすめしたい良作だった。
初めて「NODA・MAP」を観劇する方であれば、衝撃の連続で満足度が高いに違いない。
↓スポット映像
【鑑賞動機】
野田秀樹さんが主催する「NODA・MAP」は毎年夏に楽しみにしていて、今年も例年通り観劇したかったので「NODA・MAP」の会員先行でチケットを抽選予約した。
いつも以上にチケット争奪戦だったようだが、なんとかチケットを入手できたので楽しみにしていた。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。
ステージ上に沢山の出演者が入ってきて裁判が始まる。それは、花火師である唐松富太郎(松本潤)が父親の唐松兵頭(竹中直人)の殺害容疑があったからである。盟神探湯検事(竹中直人)と不如火弁護人(野田秀樹)によって、富太郎は裁判にかけられる。
富太郎は花火師になった理由を語る。花火を見せて人を幸せな気持ちにしたい。そういう思いから花火師になったのだと言う。
一方、次男の唐松威蕃(永山瑛太)は、量子物理学に目覚めた。漁師でも猟師でもない。ひたすらノートに数式を書いてローレンツ変換などを勉強していた。それと同時に、カラフルのボールを持った人々が周囲で踊っていた。
三男の唐松在良(長澤まさみ)は聖職者であった。その流れで、役者たちは一堂で最後の晩餐のポーズをしたりする。
不如火弁護人はNISAを文字って少しずつ積み立てると大きくなる、小さいものも積み立てると大きくなるのようなニュアンスの言葉遊びを披露する。
突然の空襲警報が鳴る。人々は防空壕の中へ避難する。みんなで一塊になって身を寄せ合う。
長男の富太郎が花火師に憧れて花火玉を作っていた所、次男の威蕃が花火玉の中にひきがえるを入れようとする。そして花火を打ち上げようとする。近くにいたブリキで動くおもちゃのひきがえるがベロを出して鳴く。
ボクシングのリング上で、富太郎と兵頭が対戦する。周囲からは歓声が巻き起こる。
ウワサスキー夫人(池谷のぶえ)がやってくる。ペットの猫はケラリーノ・サンドロヴィッチと言うらしい。彼女は、兵頭が殺された時の周囲の様子などを証言する。その証言によって、富太郎や兵頭の周辺の男女関係などが明らかになっていく。
そこで登場したのが生方莉奈(村岡希美)だった。生方は欲望という名のちんちん電車に乗ってやってきた。生方は富太郎と婚約状態であった一方、威蕃にも好意を寄せていた。
一方で、富太郎はグルーシェニカ(長澤まさみ)という女性からも好かれていた。芸妓たちが花火の音と共に赤い傘を回しながら踊る。富太郎は、グルージェシカと愛し合っていたが、別の女性と結婚してしまう。しかし、その別の女性は5年結婚生活をした後に亡くなってしまう。グルージェシカは、富太郎が結婚した相手と死別したため自分の元へやってきて、今までずっと自分のことを想い続けていたのではと考えた。
その頃、テープレコーダーにはアメリカ側の通信傍受が録音されていた。そこでは、原爆をどこに落とすかに関する議論がされていた、東京は空襲で甚大な被害を受けているから、落とした所で正確な被害が測れないだろうと思われた。そこで、まだ空襲による被害の少ない広島、横浜、新潟、小倉、京都が候補に上がった。しかし京都は歴史的に価値の高い文化遺産が数多く残る街なので候補から外そうなどという議論がされていた。
富太郎は、3ヶ月後の人と3ヶ月前の人とで黒電話で通信を図っている。
8月7日、広島に新型爆弾が落とされたらしいが、アメリカはこんな短期間で原子爆弾を開発することは出来ないと威蕃は考えた。そこで自分たちも長崎で、マンハッタン計画的なことを実施しようと試みる。
一方で裁判のシーン。富太郎は、自分たちが花火の火薬として作っておいたものが無くなっていることに気がついた。その火薬は全て戦争に使われてしまったのである。花火師なんて戦時下では不要不急のものだからである。
火薬庫の鍵がしまってあった箱の中身も空になっていて鍵が盗まれたようであった。
誰が兵頭を殺したのか。それは、威蕃の命によって墨田麝香(森田真和)が殺したと言うことが明らかになった。しかし、それはロシアの文学の中での話である。今から起こることは、大和民族の話である。
そこで8月8日、その情報を聞き取ったロシア軍は、日本に対して宣戦布告をしてきたとウワサスキー夫人は言う。日本、ロシア、アメリカの三角関係になったと。
長崎では空襲警報が鳴る。みんな防空壕に隠れる。
一方で、原爆を積んだ飛行機では、小倉に落とそうとしていたファットマンを落とすことを断念した。なぜなら小倉は曇っていて落としてもその被害を確認出来ないからである。では新潟に向かうかという話になるが、新潟までの燃料は積んでいなくて不可能だった。このまま落とさずに諦めるか、いや折角ここまで来たのだから、どこかの地に落としてその被害を確かめたいと言う。では晴れている長崎に向かおうと言う。
長崎では、空襲警報が鳴り止んで一安心して防空壕から出た所だった。その時、原爆は落とされ大きな透明の布が舞って人々を覆い尽くす。
富太郎は語る。たった一人の男が一人の命を奪って裁かれることがあっても、大勢の命を奪ったことに対して裁かれないということがあるのだろうか。そしてその場合、裁かれるべきは誰なのだろうかと。
ここで上演は終了する。
私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をしっかりと読んだことはないが、あらすじは把握していたので、裁判のシーンの構造は理解することができた。しかし、脇役の生方莉奈の存在や、ウワサスキー夫人の立ち位置がよく分からず困惑した。
しかし、ドストエフスキーが持つ宗教観を、長崎に原爆が投下された時と重ねて神に審判を問うという構造はなかなか凄い筋書きだなと感じた。もちろん戦争批判は多分にある作品だと思う。しかし、その先にある野田秀樹さんが込めたかったであろうメッセージ性は感じ取りはしたものの、もう少し痛烈に描いた方が刺激は強く玄人受けするものになったように思う。
ここに関する考察は、考察パートに記載する。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
今年(2024年)の第32回読売演劇大賞上半期ベスト5では、舞台『う蝕』(2024年2月)でスタッフ賞にも輝いた美術の堀尾幸男さん、そして何度も読売演劇大賞で何度もノミネートに名前が上がっている衣装のひびのこづえさんなど、ハイクオリティなスタッフたちが勢揃いしていて、非常に見応えのある舞台美術だった。
舞台装置、小道具、映像、衣装、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。
まずは舞台装置から。
ステージ上の奥側には下手側から上手側に向かって、川にかかる石造りの昔ながらの橋のようなものが設置されていた。その橋があることによってステージは2段舞台のようになっていて、その上で演技が繰り広げられるシーンもあった。原子爆弾ファットマンが、この橋の上のステージ上に運ばれてきたり、あとは裁判のシーンでも盟神探湯検事、不如火弁護人、そして吉田朋弘さん演じる生牡蠣裁判長は、この橋の上のステージ上に登る機会が多かったように思う。また、橋の上のステージの奥に鏡のようなものが設置されていて、ファットマンなど橋の上のステージに登場する装置が鏡に映し出されて沢山あるように見える演出が面白かった。これは『兎、波を走る』でも似たような演出があったので、そこからさらに発展させて使用していたのだろうか、非常に興味深い演出だった。
基本的に橋の舞台セット以外は、移動式のセットであることが多かった。欲望という名のちんちん電車は、布で覆ったアーチのようなトンネルになっていて面白い演出だった。1階席で観ていた私はステージの奥行きを活かした立体的な演出に面白さを感じたが、2階席で観ていた知り合いは上から見下ろすと照明がステージ奥から手前に向かってトンネルに沿って照らされるので凄く綺麗だったと言っていた。こうやって1階席と2階席で見え方は違うのは面白かった。
ここからは小道具を使った演出について記載していく。
まず、テープを使った演出が面白かった。特にプロレスのリングを形作るのに役者たちがテープで四方を囲んでその中で兵頭と富太郎が格闘するシーンなどの演出が面白かった。それだけでなく、最後の晩餐ならぬ最初の晩餐で役者たちでレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『最後の晩餐』のポーズをする時、食卓のテーブルクロスを固定するために上からテープで引っ張り上げる役がいて、テープが大活躍しているのも興味深かった。また、テーブを下手から上手に一直線に張って、そこに黒電話をつけて過去と未来で通信するという演出も面白かった。
さらに、テープを使って花火を表現するのも美しかった。まるで「しだれ柳」のように役者の手から下に向かって複数のテープが垂れ下がる姿が、演劇というアナログな媒体で花火を表現していて風情があった。花火をこんな感じで表現した創作を見たことがなかったので好きだった。
布も大活躍だった。特に印象に残るのは、一番ラストのシーンの原爆が投下されたシーン。天井近くまで巨大な一枚の半透明の布が舞い上がり、その布の下に空気が入ることによってまるでキノコ雲を表しているように感じた。それが最後に役者の頭上に乗っかって人々が倒れていって、布によって全ての舞台上のものが覆い尽くされることで、原爆投下によって何も無くなってしまった大地を描いているようで色々心にジーンときた。
芸妓さんたちが花火の音に合わせて真っ赤な和傘を回転させる演出も好きだった。凄く「和」を感じた。少し余談になるが花火師や芸妓などの「和」を感じさせる演出と、聖職者といったキリスト教的な要素を感じさせる演出があって、和洋折衷といった世界観が今作にはあるよなと思った。
カラフルなボールを使って量子の動きを表現する演出も素晴らしかった。青や赤のカラフルなボールを役者たちが持ってコンテンポラリーダンスを披露するだけで、量子物理学という理系っぽさが一気に芸術に変わる感じが好きだった。ゆっくりゆっくりボールを持ちながら動いていたかと思うと突然速くなったり、どこか量子や電子の動きを勝手にイメージしてしまうかもしれない。
キャスターのついた椅子を使って、戦闘機を操縦するパイロットを演じる演出も好きだった。この演出は、どこか『フェイクスピア』の終盤のシーンを連想させられてそこから取り入れたのかなと思う。この発想も凄いなと思う。確かにステージ上に複数人がキャスター椅子を使って移動しながら話をしていると、戦闘機が複数飛んでいてお互い通信をしながらやり取りしていると解釈できるから凄い。演劇ならではの表現力に素晴らしさを感じた。
2段舞台の上部に登場した原子爆弾ファットマンのセットも素晴らしかった。非常に具象的な舞台セットだからこそインパクトが伝わる。花火の花火玉のようにも見えて原子爆弾にも見えてくる見せ方がなんとも素晴らしかった。
ひきがえるのベロを出すブリキのおもちゃも好きだった。あれは大きなステージ上で小さいからこそ面白いなと思う。
次に映像について。
『兎、波を走る』に続き、今作でも映像が登場した。一番印象的だったのは威蕃が量子物理学の勉強をしている時にノートに記載していたローレンツ変換の数式が映像に投影される感じが好きだった。小難しい数式がずらずらと手書きで舞台上に映像として投影されることで、凄く舞台映えのするものになっていた。私は1階席だったのでよく分からなかったが、威蕃が机に向かって書いている数式がそのまま映像として投影されていたのだろうか、そこは分からなかった(流石にそんなことはないか)。
青や赤の量子を表すカラフルボールが、映像にも投影されたのも素敵だった。こちらの映像に関しても、丸いカラフルな球が勢いよく動いたり静止したりと不規則に動いているので科学を感じた。
あとは最初の晩餐のシーンで、うっすらと本物の『最後の晩餐』が投影されていた。
次に衣装について。さすがはひびのこづえさんの衣装デザインという感じで素敵な衣装が沢山あった。
まずは、花火師・唐松富太郎の全身的に黒い衣装。松本潤さんに凄くぴったりな衣装だなと思った。いかにも裁判にかけられている罪人といった印象が序盤では強かった。また花火師という立場は今作では、不要不急と言われてしまうエンタメ業界の象徴そのものでもあると思っていて、ちょっと遊び心のある童心な印象もあった。
長澤まさみさん演じる唐松在良の聖職者の衣装も好きだった。白地に所々黒の衣装で凄く清楚な印象を受けた。そこから早着替えで一変してグルーシェニカを演じる時の真っ赤で露出の多い衣装は凄くギャップがあって良かった。もちろん早着替えのテクニックも素晴らしかったが、その2役を同時にこなしてそういうギャップを持たせると考案した演出も素晴らしかった。
ウワサスキー夫人を演じた池谷のぶえさんの衣装も素晴らしかった。いかにもロシア人という感じの衣装で、ちょっとハプスブルク家を連想させる。ロシアの皇族という印象を持つ華やかで真っ赤な衣装だった。そして余談だが、野田さんってロシア好きだよなと思う。度々ロシアが登場するイメージある。
着物姿の生方莉菜役を演じた村岡希美さんの真っ赤な芸妓姿も素敵だった。生方莉菜もそうだが、アンサンブルキャストの芸妓さんの衣装もみんな綺麗で好きだった。紫色だったり青色だったりカラフルな芸妓さん姿で「和」を感じた。
次に舞台照明について。
今作は宗教を感じさせる照明演出が多かったように思えた。東京夜光『悪魔と永遠』(2022年2月)も宗教を扱った芝居で、その作品と近いテイストを感じられたのは照明演出による所が大きかったように思う。
ステージ天井の一箇所に煌々と白く光る一つの強めの照明があった記憶である。それが割と宗教観というか、神の光を表しているように感じた。
そして花火師の話なのに、意外と花火が打ち上がるような照明演出はなく、音でカバーしていた印象があった。
あと印象に残ったのは、真っ暗な中で振り子のように豆電球が揺れていたシーン。振子を表現することで物理学をイメージするし、そこで女性が着替えをしていたので豆電球によって女性の裸体に光が当たったり当たらなかったりの演出が非常にエロティックだった。
次に舞台音響について。本当に舞台音響の数々には圧倒されるものばかりだった。
まずはSE(効果音)が非常に効果的に舞台に響いていた。空襲警報の音、リアルな空襲警報の音だからこそ、ゾッとさせる感じもあるし、この音で一発で太平洋戦争が主題なのだなと伝わってくる部分もあった。「NODA・MAP」だけではないのだが、戦争を扱うときにコメディも取り入れながら戦争を描くので、割とラストのシーン以外は重たく感じられずに見られるのも良いのかもしれない。この空襲警報が鳴っても、すぐに笑えるシーンが挿入されたりと忘れさせてくれる演出があるので見やすくも感じる。
花火の音も、基本音響で印象付けるものが多かったなという印象。花火のヒューンという打ち上がる音だったり、バチバチバチという花火玉が燃える音だったりと、リアルな花火の音を音響で流すことで迫力があったように思えた。
戦闘機が飛び去っていく効果音も迫力があった。本当に上空に飛んで行ったかのような錯覚を受けた。
あとは楽曲に関しては、割と昔の歌謡曲が流れることが多かった。これは野田さんの趣味趣向だろうか。他の「NODA・MAP」作品よりも昔の歌謡曲が使われる頻度が多い気がした。
最後にその他演出について。
言葉遊びの多さは今作でも健在だった。野田さん演じる不如火弁護人が「NISA」を使って、小さなものを積み立てて大きくするみたいなことを言って笑いを取っていたし、威蕃のシーンから数式にxが登場するだけで眠くなる、だからTwitterはダメになったとか、それはツイスターだとか言葉遊びをしていたのも楽しかった。
あとは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という作品そのものが、様々なジャンルを含んだ小説になっているため、今作もかなり幅広いジャンルの舞台演劇に感じられた。まず裁判シーンが多いので法廷劇である。そして太平洋戦争を扱っているので戦争ものである。聖職者が登場するので宗教劇でもある。また富太郎は生方莉菜やグルーシェニカを愛していたというラブストーリーでもあり、複雑な交際関係から愛憎劇でもある。そして父親を殺したり、兄弟の話でもあるので家族の物語でもある。そして父親殺しは誰だというミステリー・サスペンスの要素もある。量子物理学も登場してSFではないが理系の話でもある。非常に多岐に渡るジャンルで構成されている点も特徴的だった。
個人的に好きだったのは、一人の人が紙飛行機のようなものを串で上に上げてそれを竹槍でみんなで「えいっ」とやるシーン。『Q』:A Night At The Kabukiでも登場した、巨大な串のてっぺんに紙飛行機をつけて飛行機が飛んでいるように見せるという演出のアナログの良さに加えて、それを竹槍で「えいっ」とやる日本の無力さも演出されていて何とも言えない気持ちになった。
ウワサスキー夫人の飼っている猫の名前がケラリーノ・サンドロヴィッチだったのは笑えた。きっと、舞台演劇好きならケラリーノ・サンドロヴィッチが誰のことか分かるので大爆笑だろう。ケラリーノ・サンドロヴィッチって猫の名前にぴったりだなと思った。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
松本潤さんといった「NODA・MAP」初出演の有名人キャストに加え、永山瑛太さん、長澤まさみさん、竹中直人さんといった「NODA・MAP」に出演経験がある実力著名キャスト、そして村岡希美さん、池谷のぶえさんといった舞台俳優として活躍されている実力キャストが揃っていてとても豪華で見応えのある俳優陣だった。
特に印象に残った役者について言及していく。
まずは、主人公の唐松富太郎役を務めた松本潤さん。松本潤さんは昨年(2023年)の大河ドラマ『どうする家康』の徳川家康役として出演もされていたが、舞台での演技拝見は初めてである。
初めて松本さんの芝居を拝見したが、私の初見の感想はとても迫力があって素晴らしい演技だったということ。割と主人公ということで出番が多かったが、凄く台詞に説得力があって堂々としている姿が印象的だった。男性らしい迫力と共に、花火師として人々を楽しませたい喜ばせたいというエンタメ業界の人間と近しい心も持っていて、人としての温かさも持ち合わせているキャラクター像として好きだった。
そしてラストのモノローグシーンはとても見応えがあった。原爆が落とされた後の皆が布の下に倒れゆく中で、一人富太郎の力強いモノローグが響き渡って泣けた。あのモノローグに迫力と切実さがあったからこそ人の心は動くと思うし、非常に重要なシーンでそこをどう見せるか一番の見せ所で大変だったと思うが、凄く言葉が胸の中に入り込んできて素晴らしかった。
松本潤さん、もっと舞台に出演して欲しいなと感じるくらいの演技力の高さだった。
次に、弟の唐松威蕃役を演じた永山瑛太さん。永山さんの演技は、映像(映画やテレビドラマ)作品では沢山演技を拝見しているが、舞台での演技拝見は初めて。
個人的に量子物理学者という立場のキャラクターが好きだったので、威蕃のシーンは割といつも心を踊らせながら見ている自分がいた。ノートに向かって数式を描く姿とか、原子爆弾を開発しようみたいな科学者としての好奇心に駆られる姿は凄く引き込まれるものがあると同時にゾッとするものもあった。
小説『カラマーゾフの兄弟』では、次男のイヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフは無神論者で、確かに宗教などにはすがらずに科学技術にのめり込む姿勢は小説と近しいキャラクター設定になっているのだなと思った。
三男の唐松在良役とグルーシェニカ役を演じた長澤まさみさんも素晴らしかった。長澤さんも映像(映画やテレビドラマ)作品では沢山演技を拝見しているが、舞台での演技拝見は初めて。
まず聖職者という在良のキャラクター性が、このステージ上では凄く映えていた。ちょっと特別な感じがあるというか、衣装も相まってステージ全体を見渡していると凄く目に止まる感じがあった。
そしてなんと言ってもインパクトがあったのが、グルーシェニカの衣装の素早い変身。いつの間に!と驚かさせる演出もそうで、その早着替えとマジックのようなテクニックも素晴らしかったのだが、真っ赤な衣装で露出部分も多くて、そのギャップには惹きつけられるものがあった。
父の唐松兵頭と盟神探湯検事を演じた竹中直人さんも素晴らしかった。竹中さんの演技を拝見するのは、舞台『夜は短し歩けよ乙女』(2021年6月)、『Q』:A Night At The Kabuki(2022年9月)以来3度目である。
竹中さんの演技を見ていて改めて思ったが、竹中さんの低い声が舞台上に響き渡っていて素晴らしい俳優だなと感じた。いかにも裁判の検事という威圧感もピッタリだったし、この場に厳しさを与えてくれる存在で凄く良かった。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
ここでは、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』を踏まえて、今作で描かれているであろう裏のテーマまで考察していくことにする。
まだまだコロナは巷で流行ってはいるものの、2023年に新型コロナウイルスが5類感染症へ移行したことによって、以前のような緊急事態宣言やまん延防止等重点措置などは出されることがなくなり、コロナ禍以前のような生活が戻りつつある。隅田川の花火大会も昨年(2023年)から復活して賑わいを見せ、夏の風物詩が戻ってきた。だからこそ、花火を題材にしている今作も、コロナ禍が落ち着いてようやっと上演しても問題ない具合になったのかなと感じた。
さて、今作はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにしているということで、今作との対応関係を明確にしておく。
まず『カラマーゾフの兄弟』自体はなかなか骨の折れる小説で、私自身もちゃんと読んだことはないのだが、あらすじとしては以下のような感じである。『カラマーゾフの兄弟』は全部で4部構成になっている。
第一部・第二部では、カラマーゾフ一家のことについて詳しく描写されている。父親がフョードル・パヴロヴィッチ・カラマーゾであるということ、その子供に三人の息子がいて、長男はドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、次男はイヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、三男はアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフと言う。父のフョードルと長男のドミートリイは、酒や女に明け暮れた生活をしており、互いに険悪な仲だった。次男のイヴァンは無神論者で宗教や神の存在について懐疑的な考えを抱いていた。三男のアレクセイは敬虔なキリスト教徒で心優しい性格の持ち主だった。父のフョードルと長男のドミートリイは、グルーシェニカという同じ女性を好きになって対立する。しかしドミートリイにはカテリーナという婚約者がすでにいた。それなのにドミートリイはグルーシェニカにも好意があって彼女に気がある父のことが気に食わず対立していた。そんな父のフョードルは、そんな様子であったらカテリーナにイヴァンの方が婚約者に相応しいなどと言う。
第三部では、ドミートリイが父のフョードルの殺害容疑をかけられ逮捕される物語である。ドミートリイはカテリーナと縁を切るためにカテリーナに返す金を用意するために父の家に忍び込む。しかし使用人のグリゴーリに逃亡する所を見られてしまう。その後父のフョードルが殺害されていたので、ドミートリイは真っ先に父親殺しだと疑われて逮捕されたのである。
第四部では、父親フョードルを誰が殺したかについてのドミートリイの裁判のシーンである。ドミートリイは一方的に不利な中で裁判が行われるが、最後にイヴァンが事件当日盗まれた金を示して、犯人はスメルジャコフであり、それをそそのかしたのは自分であると言う。しかし、カテリーナは父を殺すと書いたドミートリイの手紙を示してドミートリイが犯人であることを言う。結局ドミートリイに有罪判決が下されるという話である。
この『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーが生涯最期に手がけた小説で、本当はドミートリイが有罪判決を下すまでの第一部と続編の第二部の二部構成だったらしい。しかし、ドストエフスキーが二部を書き始める前に亡くなってしまったため未完のままとなってしまった。そのため、第一部(上記でいう第一部から第四部)には度々ドミートリイの裁判に直接関係ないようなエピソードが沢山盛り込まれており、それらが第二部と関連してきていたのだろうと推察される。しかし、この後ストーリーはどう繋がっていったのか、それは誰も知る由がないのである。
また、結局事実としてドミートリイの父親のフョードルは何者かによって殺され、その裁判で長男のドミートリイに有罪判決が下った所までは事実なのだが、真犯人は誰なのかについては一切分かっていないのも、この小説の特徴の一つである。
『カラマーゾフの兄弟』のあらすじが分かったところで、今作との対応関係について見ていく。まず登場人物の対応関係だが、言わずもがな、長男の花火師の唐松富太郎はドミートリイ、次男の量子物理学者の唐松威蕃はイヴァン、三男の聖職者の唐松在良はアレクセイにそれぞれ対応する。無神論者は量子物理学者へ、キリスト教徒は聖職者へ置き換えられているのも良い。そして唐松兵頭はフョードル、グルーシェニカはグルーシェニカである。
そして、生方莉奈はカテリーナに対応し、番頭呉剛力はグリゴーリ、墨田麝香はスメルジャコフに対応する。富太郎はグルーシェニカのことが好きだけれど、生方莉奈と結婚したという描写と、ドミートリイがカテリーナと婚約関係だが、グルーシェニカに好意があったこととリンクする。そして、今作のラストで威蕃の進言で墨田麝香が兵頭を殺した真犯人であったと言い切っていたことと、小説でイヴァンが真犯人はスメルジャコフでそれをそそのかしたのは自分だと言っていたことともリンクする。
では、ウワサスキー夫人は誰と対応関係なのだろうか。どうやら、ウワサスキー夫人のモデルになっている『カラマーゾフの兄弟』の登場人物はホフラコワ夫人らしい。ホフラコワ夫人は小説『カラマーゾフの兄弟』にはさほど登場シーンはないのだが、カテリーナを庇護する立場にある資産家である。確かに、生方莉奈は富太郎の元を去ると、ロシアのウワサスキー夫人の元へ行ったとの描写があったような気がする。またこのウワサスキー夫人は「噂好き」から来ていて諜報活動をしている人間という意味合いも含まれているなと感じる。それは、第二次世界大戦中ソ連の人々が日本人になりすまして日本に忍び込み諜報活動を行っていたという歴史的事実にリンクすると思う。この辺りは、リヒャルト・ゾルゲによるゾルゲ事件などを参照すると良いかもしれない。このことについては、今年(2024年)にパラドックス定数が『諜報員』(2024年3月)で舞台の題材にもしている。ソ連は日本での諜報活動を通じて、日本軍がソ連に侵攻してくるか判断したり、宣戦布告するタイミングも窺っていたりなどした。
ここからは、今作の最重要テーマである長崎への原爆投下について『カラマーゾフの兄弟』を踏まえながら考察していく。
ではなぜ、野田さんは今作でこの『カラマーゾフの兄弟』を引用しながら、長崎の原爆投下を描いたのだろうか。そのヒントはキリスト教的思想に隠されていると私は感じた。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で主題としているのは、キリスト教的宗教思想である。次男のイヴァンが無神論者で三男のアレクセイが敬虔なキリスト教徒であるという点で、そもそも神は存在するのかという哲学的テーマに踏み込んでいる。また、ドミートリイの裁判のシーンで、善と悪に対するテーマもあり罪と償いをテーマにもしている極めて宗教的な要素が高く盛り込まれている。
そして今作でも、唐松在良が聖職者である訳だが、劇中で度々ヨハネ福音書を引用している点が物凄く興味深い。ヨハネ福音書には以下のような記述がある。
一粒の麦が、地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ
これは、そのまま今作のラストの長崎の原爆投下にも繋がると解釈できる。一粒の麦とは、聖書の中ではキリスト教徒であり、今作で置き換えるなら長崎に暮らす人一人一人のことである。彼らが地に落ちて死ぬ、地に落ちるのは原爆なので、長崎に暮らす人々が原爆投下によって死ねばという訳になると思う。そうすると、多くの実を結ぶ。これはつまり平和が訪れるということだと解釈できるのではと思う。
ここで思い起こされるのは、観たことある人であれば映画『オッペンハイマー』(2024年)ではないかと思う。『オッペンハイマー』では、アメリカの量子物理学者であるオッペンハイマーを主人公として、マンハッタン計画によって原子爆弾の開発を進め、第二次世界大戦を終わらせるために日本に原子爆弾を投下した歴史的事実が描かれている。当時のアメリカでは、原子爆弾を日本に投下することは、これ以上戦争で多くの犠牲者を出させないためにも正しい行いだという風潮だった。だから終戦してからも、広島と長崎に原爆を投下したという行為は戦争を終わらせたということで素晴らしい判断だったとアメリカでは評価されていたのである。
原爆が投下された付近には、浦上天主堂というカトリック教会がある。昔から長崎は出島もあってクリスチャンが多数住んでいる地域であった。その浦上天主堂も原爆投下によって破壊された。その時に数多くのクリスチャンが死んでいったに違いない。その時、きっと彼らはヨハネの福音書の「一粒の麦が、地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」という教えを信じて亡くなっていったのかもしれない。自分たちが死ぬことで世界に平和が訪れると。キリスト教徒に忠実だからこそ、そのような思想を信じて亡くなっていったのかと思うと胸が痛くなる思いだし、そこにヨハネ福音書を引用してくる点に野田さんの容赦の無さを感じる。
そしてラストの長崎の原爆投下にはもう一つ、神による罪の償いという意味合いも含まれている。
富太郎は長崎にいて原爆が投下された中、生き残ってしまった身として、これは罪なのではないかと自分自身に問うている。実際、原爆が投下された時に生き残った人々の話をテレビ番組などで聞いていると、自分だけ生き残ってしまって良いのかという罪悪感すらあったのだと言う。そんな当時の人々の気持ちを富太郎が代弁しているようにも思えて心動かされた。
そして、富太郎が言っていたこんな言葉にも考えさせられる。『カラマーゾフの兄弟』のようなたった一つの命が奪われただけなのに裁判が行われる中で、原爆投下によって数多くの命が犠牲になったこのことについて誰も裁判が問われないのはどういうことかみたいなことである。この多くの人が原爆によって亡くなったこの罪の矛先はどこに向けられるのかということである。
原爆を投下したのはアメリカである。しかし先述した通り、アメリカは世界を平和にするという大義名分で原爆を投下した。映画『オッペンハイマー』や昨今の世論でも出始めているが、この大義名分が間違いであったということはアメリカも徐々に受け入れられるものになっていて、オバマ元大統領も広島に訪問したりなどしている。
しかし本当に原爆を開発して落としたアメリカにだけ罪があるのだろうか。マンハッタン計画における原子爆弾の開発に直接加担した量子物理学者のオッペンハイマーであるかもしれないけれど、その物理学の礎を築いたのはE=mc^2を導き出したドイツの物理学者のアインシュタインであり、その物理学の礎を築いたのはもっと多くの数学者、物理学者である。
また、原爆開発を当時行っていたのは何もアメリカだけではない。敵国のナチスドイツだって原爆開発していたという事実も残っているし、日本にも「二号研究」という原子爆弾開発計画があり、実際問題、唐松威蕃のような量子物理学に精通して戦争のために原子爆弾開発に乗り出した日本人もいたのである。もし当時の戦況が逆転していたら、万が一アメリカが劣勢で日本優勢のような事実があったなら、原爆を投下した・されたの関係は真逆だったかもしれない。
この原爆投下という決して裁かれることのない罪というのは、人類全体の罪であるのかもしれない。人類が突き進んでしまった結果現れた罪なのかもしれない。
きっと今作は、この長崎の原爆投下によって生じた罪を『カラマーゾフの兄弟』を引用しながら、今の私たちに訴えかけているのだと思う。正解はないと思う。長崎に原爆が投下されてその後の平和のために沢山の命が犠牲になったこと、そしてたまたまそれがアメリカによる投下であったというだけであって、その罪というのは人類全体が背負っているということを忘れてはならないと私は感じた。
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