舞台 「カラカラ天気と五人の紳士」 観劇レビュー 2024/04/20
公演タイトル:「カラカラ天気と五人の紳士」
劇場:シアタートラム
企画・制作:シス・カンパニー
作:別役実
演出:加藤拓也
出演:堤真一、溝端淳平、野間口徹、小手伸也、高田聖子、中谷さとみ、藤井隆
公演期間:4/6〜4/26(東京)、5/2〜5/4(岡山)、5/7〜5/11(大阪)、5/15〜5/16(福岡)
上演時間:約1時間10分(途中休憩なし)
作品キーワード:不条理演劇、会話劇、死生観、笑える、考えさせられる、難解
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆
昨年(2023年)には『ドードーが落下する』で第67回岸田國士戯曲賞を受賞した新進気鋭の劇作家である加藤拓也さんが、日本の不条理演劇の巨匠である別役実さんの代表作である『カラカラ天気と五人の紳士』を演出するというので観劇。
実は、別役実さんの戯曲の上演を観劇するのは初めてのことで、代表作は沢山知っていたので観劇するのが楽しみだった。
尚、加藤拓也さん演出作品は、「劇団た組」で『ドードーは落下する』(2022年9月)、『綿子はもつれる』(2023年5月)、それ以外で『もはやしずか』(2022年4月)、『ザ・ウェルキン』(2022年7月)、『いつぞやは』(2023年9月)を観劇している。
また今作は、戯曲も上演も未見で前情報なしで観劇している。
物語は、地下鉄のホームで五人の紳士たちが懸賞のハズレくじでもらった景品である棺桶を運んでいるシーンから始まる。
紳士の一人(堤真一)が、棺桶を運ぶ他の4人の紳士に対してあれこれ指示を出すのだが、2つの棺台の距離が空き過ぎていて置けず、指示を出す紳士と運ぶ紳士たちで揉めている。
折角棺桶をもらったのだから、これを活用するために誰か一人死なないといけないという話になり、一人の紳士(野間口徹)を地下鉄のホームの柱に登らせようとしたが、なかなか彼は指示通りに動いてくれず死んでくれない。
そこへ二人の女性(高田聖子、中谷さとみ)がやって来るが...というもの。
不条理演劇とは、wikipediaによれば「人間、特に現代人の不条理性や不毛性を描こうとする戯曲や演劇の手法」を指すのだが、観劇していて今作は間違いなく不条理演劇らしさがあるというのを十分に感じられて面白かった。
人間、社会人になればどこかの企業や団体に就職して労働する。
しかし、その労働は人々の役に立つと実感出来る機会は決して多くはない、会社の規則や社内政治によって翻弄され、本来の仕事のやりがいに辿り着きにくく感じられることも多々あると思う。
それを、サラリーマンを象徴する五人の紳士たちが、棺桶の活用を巡って翻弄される様と重なり合って不条理演劇らしさを感じた。
しかし、一点戯曲に対して気になったのが、子供を産むという行為と分別を持つという行為が、本当に二律背反なのかということ。
今の日本社会では、子供を産んで家庭を持つという行為と、仕事をして社会的に活躍するという行為がそこまで両立不可能なことではなくなりつつあるので、その点に戯曲の古さを私は感じた。
今作が描かれたのは1992年で、今から30年以上前のことであるが、当時はまだ男性が外で仕事をして女性が家で育児や家事をするという形態が当たり前だったので、書かれた時代の方がそのメッセージ性に対しても多くの観客に響くものがあったのかもしれないと感じた。
また、二人の女性が登場してから、五人の紳士たちは女性たちに翻弄されて、いかに男性が情けない存在なのかをこれでもかというくらい描いてくる。
そこに、演出家の加藤さんらしさを感じた。
加藤さんは、ご自身の戯曲で女性に言いくるめられる現代的な弱い男性を描きがちなので、その辺りにらしさを感じた上、演出家に加藤さんが抜擢された理由も分かった気がした。
舞台セットが、既存の戯曲だと電柱なのに、今回の上演では地下鉄のホームだったのは面白いと思いつつ、何故なのかは疑問に思った。
地下鉄のホームというのは人工物の空間なので、世界そのものが社会的なものによって形作られてしまっているという不条理性を表したかったのだろうか。
女性たちが地下鉄のホームに敷物を敷くときに、黄色い点字パネルを剥がしていく様からなんとなく受け取った。
役者は超大物俳優ばかりなので、上演時間は短いけれど脚本の解釈まで追いつかなくても濃厚な時間を過ごせると思う。
不条理演劇の王道ともいうべき傑作を多くの人に見て欲しい。
↓公演ダイジェスト映像
【鑑賞動機】
別役実さんの代表作を、「劇団た組」の加藤拓也さんが演出するというので非常に興味を持ったから。別役実さんは不条理演劇の巨匠という強いイメージはあって前から作品を一度観てみたいと思っていたが、なかなか機会に恵まれていなかった。
しかし、今回の上演は別役実さんの代表作を私の好きな加藤拓也さんの演出で上演するというので観劇に至った。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。
客入れ中、地下鉄のホーム、下手側のベンチにはホームレス(徳高真奈美)がヴィオラを一人で演奏している。そのまま開演する。
地下鉄ホームに紳士1(藤井隆)、紳士2(溝端淳平)、紳士3(小手伸也)、紳士4(野間口徹)の四人が白い棺桶を運びながらやってくる。そして、紳士5(堤真一)は棺台を地下鉄のホームに2つ置き、そこに棺桶を配置するように指示する。
しかし、紳士5の置いた2つの棺台はあまりにも間隔が空き過ぎていて、4人の紳士たちは棺桶を置くことが出来ずにいた。紳士5は棺台を動かそうとせず、上側の棺台に合わせればいい、下側の棺台に合わせればいい、なんでこんな簡単なことが出来ないのだと四人の紳士たちを翻弄する。四人の紳士は、棺台の間隔が空き過ぎているから置けないんですよと言うと、紳士5は引っ張れば良いと言い出す。
結局棺台を動かして棺桶を配置する。どうやら、棺桶は紳士たちが参加した懸賞の景品らしく仕方なく受け取ったものだった。懸賞の一等賞はどうやら青酸カリだったようで、彼らはそれが欲しかったようだった。
折角棺桶をもらったのだから活用しないと意味がないと紳士たちは言い出し、誰かに死んでもらおうと議論する。しかし、当然のことながら誰も立候補者はいない。紳士4は、紳士3に唆されて地下鉄のホームにあるハシゴのついた柱に登ってみろと言われる。
棺台の一つを柱の下に持ってきて、これによって紳士の一人が再び棺桶を持ち上げることになるが、ここから登れと紳士4に指示する。積極的に指示する紳士3は、周りくどいステップを踏んで棺台を支える役から指示を出す役に切り替える。
紳士4はハシゴを登り始める。ハシゴから手を離した時に落下して痛い思いをして死ぬじゃないかと怯えるが、ハシゴの上で電球を触ったタイミングで死んで落ちれば痛いと感じないと紳士3に言われる。
紳士4はハシゴの一番上まで辿り着く。その横には電球がある。その電球を回して取るように紳士3から指示される。紳士4はファラデーの法則やらオームの法則やらの話をするが、電球に手を伸ばしてみるものの熱いと言ってなかなか電球を外そうとしない。
そこへ、女性1(高田聖子)と女性2(中谷さとみ)の二人の女性がキャリーバッグのようなものを引きずりながらやってくる。そして駅のホームまでやってくるとそこに白い敷物を敷き始めて小物を並べ始める。その際に黄色い点字ブロックを剥がしてスペースを確保する。
二人の女性は、まるで周囲にいる紳士たちを馬鹿にし、ハシゴの上に登った紳士4を鳥などと言って相手にせずにいる。そこへ紳士たちは女性たちにツッコミを入れて何をしているのかと問い正す。
女性たちは紳士たちを使えないと揶揄する。しかし紳士たちはそんなことないとむきになる。女性1が紳士5に対して、では女性2と結婚したいかと聞いてくる。したくないと答える。じゃあ女性1と結婚したいかと聞いて来る。したくないと答える。やっぱり使えないと女性1は言う。
女性たちは、暑くて天気がカラカラで風を起こして欲しいと言う。紳士たちは棺桶を持ち上げて、棺桶に付いている窓の扉をパタパタさせて風を起こそうとするが起きない。
紳士たちは、棺桶を活かすために死のうとしていたがなかなか死ねないのだと女性たちに言う。女性1はタバコを吸い始める。タバコの副流煙には発がん性物質が含まれているので、この煙を吸うと死ぬことが出来ると。紳士たちはこぞって副流煙を吸おうとする。しかし女性1は、地下鉄のホームを逃げ回って煙を安安と吸われないようにする。そんな女性1を追いかけるかのように5人の紳士たちが走ってついてくる。
女性1と女性2は、敷物を敷いた場所で床に落ちていたアサリと醤油の佃煮を食べ始める。土が付いていたらしくジャリジャリと音がしていると言う。
その後、女性1と女性2は青酸カリを口に入れて飲み干す。紳士たちは、その青酸カリは自分たちが懸賞で得たかった品物だったと叫ぶ。しかし、女性1も女性2も青酸カリを飲み干したのに死ななかった。おかしいと。
そこにラジオが流れてくる。先ほどの青酸カリは実は青酸カリではなかったと言うことに気が付く。二人の女性は地下鉄のホームから出ていく。
地下鉄のホームに残された5人の紳士たち。女性二人が置いていった敷物と小物を漁る。今まで一生懸命起こそうとしていた風が吹いてくる。
再びラジオをつける。すると、この地下鉄のホームの近くで踏切を強行突破しようとした二人の女性が特急に跳ねられて死亡したという。二人の女性は特急に2kmほど引き摺られて、それでも必死で逃れず抵抗しようとして死んでいったと報じられる。紳士たちは先ほどの二人の女性だと呆然としながら聞く。
紳士たちは、今まで女性たちのように死ぬことは出来なかった。それは分別があるからだと。自分たちには分別があって生殖機能はない。しかし、女性たちには生殖機能があって分別はなかった。だからあのように特急に轢かれて死ねた。分別がついてしまった紳士たちは、ただ死ぬのを待つしかないのだと。
天井から糸が伸びてくる。一人の紳士が手にしていた紙コップを伸びてきた糸に取り付けて糸電話にする。こちらから何か話しかけても聞こえていなそうである。しかし、死の世界からこちら側はずっと見られているようである。ここで上演は終了する。
不条理演劇であるという前提が分かっていれば、事前情報がなくても戯曲と上演を楽しむことが出来た。戯曲自体は情報量が多かったり知識が必要とされる類の難しさというよりは、どう解釈するかという難しさが強いので、特に前情報なしでも、しっかり観劇後に反芻できれば楽しめるのだと思う。
設定が突飛過ぎるので、そこに違和感を覚えてしまう人は置いていかれるかもしれない。たとえば、棺桶や青酸カリが景品の懸賞とは一体どんな懸賞なのかとか、どうして死のうとしているのかとか、この紳士たちはどういった仕事をしているのか、女性たちは何者なのかなど。
しかし、そういった設定は重要でなく全てがメタファーなので、そのメタファーから何が読み取れるのかを考えられる人がこの作品を楽しめる人だと思う。私は非常に面白く観劇していた。
詳しい戯曲の考察は、考察パートに回す。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
別役実さんの戯曲の世界観を大幅にアレンジしていて興味深かった。
舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。
まずは、舞台装置について。
ステージ上には、架空の、でも確実に日本のどこかにありそうなほど具象的な地下鉄のホームがセットされていた。ステージ手前側が駅のホームになるように手前に横一列に黄色い点字パネルが並べられていた。また、ステージの下手側後方にはベンチが一つ置かれていて、そこにはヴィオラの奏者で且つホームレスを演じる徳高真奈美さんがいらっしゃった。
ステージ中央部後方には大きな捌け口があり、そこから5人の紳士たちや女性たちが出入りする。そこは地下鉄のホームから地上へと繋がる通路に繋がっているようだった。また捌け口の壁には、地下鉄の駅によくある黄色いパネルに黒く案内図の書かれた具象的な舞台装置も用意されていた。そこに書かれている地名は全て架空の地名になっていて、東京メトロを思わせる標識も全て仮想のものになっていた。
ステージ上手側には、ステージ後方の壁面には同じように黄色いパネルの案内図と地図がセットされている。また、今作で非常に重要なハシゴのついた柱もここに設置されていて天井に伸びていた。ハシゴは人間一人がシアタートラムの天井まではいかなくても、舞台セットの高い所まで登れるようになっており、その横には舞台照明の一部でもある電球が取り付けられていた。
なぜ舞台セットが地下鉄のホームなのか。別役実の戯曲では、柱も電柱として描かれているので、今作の上演で敢えて地下鉄のホームにしたと考えられるのだが、私がふと思ったのが地下鉄のホームというのは、全てが人工的に作られた空間であるという点。鉄道会社が社会発展のために整備して作られたのが地下鉄とそのホームだと思うので、要は自然のものではなく人工的な世界である。そんな世界で、紳士たちが翻弄される様を描きたかったのかなと感じた。
また、ホームレスという存在が下手側のベンチにずっといるのも面白い。そして、たまにヴィオラを弾く程度で誰も彼女の存在について劇中で言及していない点も興味深かった。ホームレスは確かに、意識している訳ではないけれど意外と身近にそっと存在していると思っていて、そういった存在を作り出しているのも社会という存在のせいなのかもしれないと感じた。そこに不条理を反映させたかったのかもしれないと思った。
しかし、設定は分かるのだが、戯曲の内容を考えると抜群にハマった演出ではないような気もする。戯曲のテーマは死生観の不条理性であって、社会的なヒエラルキーの不条理性を描きたい訳ではないような気がするから。だから、地下鉄のホームのセットやホームレスのヴィオラ奏者がどこかしっくりいっていない部分があるように個人的には感じた。
次に舞台照明について。
基本的にワンシチュエーションで物語が展開されるので、そこまで派手な照明演出はなかった。
舞台セット全体を照らす照明と、地下鉄のホームを想起させ、紳士4が手を伸ばそうとした電球が天井付近に横一列についているくらい。
あとは記憶が曖昧だが、劇後半になるにつれて照明が夕方っぽく赤く染まっていったような感じがした。記憶が曖昧なので記憶違いかもしれないが。
次に舞台音響について。
まず、徳高さんによるヴィオラの演奏が印象に残った。物悲しげな音色、そこにはホームレス自身の過酷な心境が投影されているようにも思えたり、ホームレスという存在を生み出してしまった社会に対する嘆きでもあるように感じた。
あとはラジオの音声が良かった。舞台セットが地下鉄のホームで非常に現代的なのにラジオが登場するのは少し違和感もある所だが、ラジオからニュースが流れる音声はとても好きだった。
紳士の一人が吹いていたハーモニカも物悲しさ、哀愁があって良かった。
最後にその他演出について。
今作は不条理演劇でありながら、非常にコミカルなシーンも多く、会場は割と笑いで盛り上がるシーンも多かった。しかし、それはキャストが豪華だったという点に起因しているのかもしれないとも思った。逆に、今作を無名の小劇場俳優がやった時にどのくらいの笑いが起きるのか興味深いところでもあった。そういう意味では、今作は役者のコメディ的な演技力も求められるかもしれない。会話をしていて面白い、言動が面白いみたいな、戯曲という決められたテキストがある中でいかに笑いを起こすかみたいな力量は求められるのだろうなと感じた。
あとはモノを使って演技をするというのが非常に多い芝居だったので、コメディにもなり得るのかなと思った。棺桶を芝居に使うという発想も面白いし、柱をよじ登る、タバコの煙など視覚的によく分かるものを使って芝居をする点でも不条理演劇だけれど若干コントっぽい部分もあるからこそ、一般観客でも楽しめるのかなと思った。
ラストは天井から一本の糸が降りてくる。死の世界へと通じる糸らしいが芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を想起させる。こういう視覚的もよくわかる面白い仕掛けがあるからこそ楽しめるのだろうと感じた。そこに紙コップをつけて糸電話にして、死の世界と通信しようとする演出も、詳しくは考察パートに回すが演劇として見て面白みがあるのだろうなと、だからよく上演されるのだろうと感じた。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
超豪華俳優陣による演技だったので、演技を見れただけでも幸せだったのだが、やはりコミカルな演技がみな素晴らしかった。
特に個人的に印象的だった俳優について記載する。
まずは、紳士5の役を務めた堤真一さん。実は、堤さんの演技を劇場で拝見するのは初めて。
やはり堤さんはオーラがまず違うなと思った。5人の紳士がいて、どうしても堤さんに目を向けてしまう自分がいた。
最初のシーンの指示を出すシーンなどは、紳士の中でもリーダーっぽさがあるように思えた。
次に、紳士3の役を演じた小手伸也さん。小手さんの芝居を見るのは、2020年12月に上演されたシス・カンパニー『23階の笑い』以来かもしれない。
小手さんの野間口さん演じる紳士4に柱に登るように指示する感じが、紳士の中でもボスっぽさがあって良かった。五人の紳士のうち一人だけ体格が良いので、そういう立ち振る舞いが似合っていた。
また、紳士4の役を演じた野間口徹さんも役にハマっていて良かった。野間口さんの演技も初めて拝見する。
野間口さんの華奢でひ弱な感じが、柱に登らされて死なせようとしてくる感じがはまっていた。不安げな顔をしながらハシゴを登っていく感じや、電球に手を伸ばそうとして「あっち」と手をすぐ引っ込める感じが凄く印象的だった。また、ずっとしばらくハシゴの上に登ったままの状態になっているのも好きだった。それを女性たちに揶揄されるのも。
女性では、高田聖子さんが演じた女性1が圧倒的に面白かった。
タバコを吸いながら走り回る光景や、ステージ上をバタバタとかけ回る姿、紳士たちを嘲笑う感じ、侮蔑する感じが、強い女性を感じさせられてハマっていた。
高田さんは、今まで劇団☆新感線で観たことがあったのだが、ストレートプレイに出演されるとこんな感じなのだなと思った。
全体を通じて思ったのが、五人の紳士の役が、柱に登る紳士4以外はあまりキャラクターが形作られていなくて、そこには戯曲的に意味があるのかなとも考えた。一つは、社会人になってしまえば、会社の歯車のような存在になって個性を失うというのを投影させたかったのかなと思った。戯曲中で、堤真一さんが演じる紳士がリーダー役になったり、小手伸也さんが演じる紳士がリーダー役になったり、そもそも五人の紳士の中で誰が偉いのかもよくわからず、だからこそ豪華俳優のキャラを生かしづらいというのも逆にあったのかもしれないなと思った。
この戯曲に対して、豪華俳優でキャスティングする所の功罪が垣間見られた。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
ここでは、今作の戯曲について考察していくことにする。
私が気になった点としては、なぜ五人の紳士なのか、カラカラ天気とは何を意味するのか、この戯曲で触れられている死生観とは何だったのか、ラストの天井から垂れる糸の解釈について述べたいと思う。
まずは、なぜ五人の紳士なのかについて。公演パンフレットを読むと、別役実さんは生涯手がけた不条理演劇の戯曲の中で、五人の紳士を度々登場させているらしく、五人の紳士シリーズという括りで作品をグルーピング出来るくらいの作品群がある。五人の紳士が登場する戯曲には、いつもその五人の紳士に特段名前が与えられる訳でもないらしい。
代表的なものでいくと、『ポンコツ車と五人の紳士』(1971年)『小さな家と五人の紳士』(1979年)『続・ポンコツ車と五人の紳士』(1991年)『カラカラ天気と五人の紳士』(1992年)『ピンクの色と五人の紳士』(1994年)などである。
私は、他の五人の紳士シリーズに関して読んだことある訳ではないが、スーツを着た紳士で且つ名前が与えられていないと考えると、どこか社会によって歯車化された労働者といった意味合いが出てくるような気がする。
今作でも、思った以上に各紳士についてキャラクターを深掘っていこうとしても、あまりキャラクター性が感じられず、強いていうなら柱に登った野間口徹さんが演じた紳士4くらいだった。
別役実さんは、敢えて五人の紳士たちから個性を描かずに表現することによって、歯車化された労働者、無個性で役立たずの労働者を描きたかったのかなと思う。そうすることによって、今の社会に対する不条理を暴きたかったのかなと感じた。
次に、タイトルにもなっているもう一つの「カラカラ天気」について。劇中のシーンを見ていると、おそらく季節は夏でしばらく雨も降っていない水不足の季節だったのかなと思う。だからそんな天候を「カラカラ天気」と表現したのかなと思う。
では、この「カラカラ天気」は一体何のメタファーだろうか。
女性二人がしきりに、このカラカラ天気に対して愚痴をこぼしていた。風を吹かせたくて紳士たちにお願いするが吹かなかった。しかし二人の女性が捌けた後に風が吹き始めた。
ここでいうカラカラ天気はおそらく乾きを表していて、それは女性二人の心境であるようにも感じる。そして彼女二人が死ぬと風が吹き始めてカラカラ天気ではなくなるのだと。そのため、おそらく本能的な欲求みたいなものをカラカラ天気で表しているのかなと思った。全然自信はないが。女性二人は貪欲に死のうとしていて、だから感情が乾いていて、そして特急に突っ込んで行った。だから、死ぬという欲求が満たされて風が吹いた。そんな解釈なのかなと思う。
しかし、この設定は舞台セットが外だからこそ活きるんじゃないかなと思っていて、ここでも舞台セットを地下鉄のホームにした理由がよく分からなかった。地下になると天候が関係なくなるので返って戯曲の良さをかき消してしまうようにも感じた。風が吹いてくるのも地下鉄ホーム内だと意味不明だった(風は地下鉄内でも一応吹くのか...)。
そして今作の一番の重要ポイントである死生観について。この戯曲の面白いところは、死のうとしていることをポジティブな意味合いで捉えている点。
私は、死ぬという行為自体も今作のメタファーなのではないかと考えた。きっとこれは、何か新しいことに対して挑戦しようとするマインドのことではないかと。
今作では、生殖機能と分別ある行動を対比させている。これは一理あると思っている。結婚をして子供を産んでという行為は、確かに分別がついてしまったら出来ないのかもしれない。この前、40歳の独身の会社の上司と会話をした時、40歳にもなってしまうと結婚と言っても色々と理性で考えてしまって踏み出せないと話していた。確かに、若い頃だからこそ結婚したり子供を産んだりできる部分はあるのかもしれないと思った。
ただ、近年では晩婚化が進んで40歳になっても子供を産むなども聞く話なので、今作で提示されている対比は時代と共に弱まりつつあるのかもしれないとも感じた。
さらに、死ぬという行為が新しいことへの挑戦という行為のメタファーだとしたら、起業したり新しい世界に飛び込んだりという勇気を伴う行動も、確かに分別がつく前の若いうちにやりやすいから、そういう意味では整合するのかなと思った。まあこちらも、今の社会では定年を過ぎてから新しいことを始める人たちも増えているので、徐々にメッセージ性は弱まりつつあるのだと思うが。
企業に就職して、会社の歯車のごとく労働者として働いていれば、確かに社会に順応して新しいことを始めにくくなるのかもしれない。私も30歳になって社会人を6年やるとそれを痛感する。それは分別がついたと言えるのだろう。
最後に、ラストの天井から垂れてくる蜘蛛の糸的なものの解釈について。
劇中では、どうやらこの糸は死の世界と繋がっているようである。そして、紳士たちがいるこちら側から死の世界へは通じないが、死の世界からこちらは通じているという一方向的な糸電話だと。そしてこれはつまり、分別のついてしまった人間は、ただ死を待つことしかできないという死生観を表していると考えられる。
人生とは、ただ無条件にやってくる「死」というものに対して、なす術はなく、ただただ「死」が来ることを待つ他ないのかもしれない。そしてそれは、社会に順応して分別を持ってしまったら尚のことそうだということを。
死生観に抗おうとして、自ら命を断つことが良いことだとは全く思わない。しかし、生きるということは、ただ無条件にやってくる「死」を待ち続けなければいけないという不条理性はつきものなのだなということは、間違っていないと個人的には感じた。
↓加藤拓也さん作・演出作品
↓加藤拓也さん演出作品
↓藤井隆さん過去出演作品
↓小手伸也さん過去出演作品
↓高田聖子さん、中谷さとみさん過去出演作品
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