法律の中の戒律 平和主義による民主主義権力の否定
法律の中の戒律 平和主義による民主主義権力の否定
現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について
第二章 宗教とは何か? 啓蒙との本質的な違いについて
戒律が権威主義的であることは確かだが、法律ならば民主主義的であるかと言えばそうでもない。法律にも戒律的なものは、それなり以上に存在している。例えば、死刑を廃止しようという動きは、犯罪者の命の方が人間の尊厳や公共の福祉よりも尊いという宣言に過ぎず、暴力の濫用を助長しているだけだろう。
適切に暴力を扱うことを拒否する死刑廃止論者は、伝統的かつ世俗的な感性に反していて、カルト宗教的ですらある。実体に基づいた人間感情や功利性による判断が、宗教やイデオロギーの観念論よりも劣位となるならば、それは人権を重んじて人間を無視しているだけに過ぎない。
ヨーロッパの死刑反対は、「敵を許せ」というキリスト教の観念に基づいたものだ。死刑反対とは何があろうとも絶対に人を殺してはならないという迷信でしかないが、こうした政教一致は義憤を潰して有形力の否定を生み出し、徹底的に公共判断に無関心な人間が生まれる。
法律の目的とは、人間の福祉と社会の公益を守ることであって、信賞必罰を破壊すれば人間の社会は確実に滅ぶ。実体的な解決手段を用意しなければ現実に対して何も出来ないだけであって、犯罪者に対して好き放題やれというメッセージを示すだけに過ぎない。人殺しを無条件に禁じなければ、無条件に人を殺すことになるという妄念は、単なる判断の停止だろう。
「敵を許せ」とは、単なる無抵抗主義であって、法治社会の維持を放棄して全てを神に任せようという信仰でしかない。これは、人間から司法の権限を剥奪する政教一致であって、法権力領域における神の見えざる手を妄信するだけの観念に過ぎず、法律を破壊して戒律を作り、中世の暗黒を生み出す狂信である。刑法を否定することによって犯罪者が喜ぶ社会が生まれることになるが、それを推奨する神は、犯罪者の元締めであるということなのだろう。
神と敵に服従することは信仰に適ったとしても、実体結果としてはナチスの支配が成立するだけに過ぎない。政治とは、人間が権力をどのように使いこなし、社会をどう支配すべきかについて考え、それによって社会契約を遂行して公共社会を反映させることである。そして、人間による社会の統治を拒絶する野放図への信仰は、「万人の万人に対する闘争」という無秩序なる紛争社会を生むことしか出来ない。
人間の社会では、社会契約に基づいた有形力が恣意的な暴力を圧倒しているが故に、治安が保たれているわけだ。平和主義という観念への妄信が治安を作っているのではなくて、権力が的確に機能しているが故に実体としての平和が成立しているに過ぎない。社会の治安を人間各人の良心に任せるなどということ程に愚かな妄想は無いが、倫理観という権威に都合が良い色眼鏡が強制されることで、実体を観察する能力が棄損され、その結果として「万人の万人に対する闘争」が起きているというのが、社会の実態だろう。
もっと言うならば、医者の努力という有形力によって人間の健康が確保されるのであるし、消防士の尽力という有形力によって火事が消えるのが、社会の現実である。システム抜きのマインドで、社会を動かすことは不可能だ。
話し合いというものは、あくまで有形力の運用を考えるための手段であって、話し合いだけで解決される問題は殆ど存在しない。平和主義とは会話が通じる人間から武器を取り上げる無力主義であって、対話が成立しない人間には服従する権威主義でしかない。権威に媚びを売るだけの平和主義者達は、無知と信仰の内に為し得ることは自己放棄だけという事実を直視することが出来ないのだ。
他人の意見を無視してはならないとして民主制を信じ込む者は、ヒトラーの妄念をも尊重することとなり、それによって己の意見や他の意見を無視する帰結に陥るだけだ。そもそも、彼のような神官は、他人の意見どころか実体をも無視することしか行わないのだから、最初から対話が成立する余地が存在していない。
社会の規律を重んじる近代的な日本人からすれば、観念的な自己満足と実体を守る公共意識のどちらを取るべきかなどは、明らかなことだろう。だが、キリスト教では実体的や社会の法秩序よりも、権威への信仰を優先するべきとされ、公共の福祉を目指す民主主義ではなくて、権威の命令を順守する権威主義に人生の重点が置かれている。
権威によって不公平な許しを強制することは、信賞必罰の公平性を破壊することでしかない。「敵を許せ」と唱えたキリスト教がその文言とは逆説的に、他者を弾圧することしか考えないカルヴァンを生み出してしまったことは必然であった。その公平性の破壊が許しから脅しに転化されて、不平等な選民思想が成立してしまったというわけだ。
妄想に基づいた差別と実体に基づいた評価は別のものであるが、何時の時代でも権威の観念的正当性は、実体公平性を破壊するために用いられる。神官達が言うように罪人一人を改心させるために千人の人間を犠牲にするよりは、社会を守るために重罪人の首を飛ばすべきだろう。我々は、必要が無い限りは誰も犠牲にしないことを考えなければならないし、必要な犠牲も減らさなければならないのだから。
警戒心と懐疑精神を否定して暴力を拒否することは、暴力への抑止機能を破壊して、結果としてどこまでも無制限な暴力を生む。妄想の危険に怯えて杞憂と不安に苛まれても、一方で実体的な危機を無視する心性では、現実逃避以外の行動を一切に起こせない。他者の善意を当てにして実体的な危機を想定しないことは、「実体からの逃避」そのものだろう。
畜生道とは言語によって交渉が成立するわけもなく、有形力を持ってしてしか取引は成立し得ない。誰とでも話し合いが成立するという価値観は、唯観念主義以外の何物でもなく、実体としては敵に殺されるだけの結果にしか陥らない。誰とでも分かり合えるなどという妄信は単なる「群れ意識」の延長でしかなく、ナチスとも分かり合って集団リンチに参加する結果を生む。他者に公平性があると信じ込むことは、実体構造への観察の軽視でしかなく、「話せば分かる」という価値観は「勝てば選民」の前には粉砕される。絶対に他者と仲良くしなければならないという観念は己を抑圧するだけであって、横暴独善なる権威に平然と迎合する人間を生む。敵からの温情を欲しがる承認欲求は、単なる弱さ以上の何物でもないだろう。
我々は、許すことによって社会全体に向上が起きる場合と、許すことによって社会の全てが破局に至る場合を、熟考の基に区別しなければならない。無条件の肯定は中身を問わないに等しく、肯定の強制は現状変革の弾圧であって、否定することを否定するならば全体主義社会をも肯定し得る。実体構造を顧みない妄想的な観念論は、公平で論理的な意見を弾圧するだけの独裁であって、これは「法を恨んで罪を憎まず」でしかなく、「罪を憎んで人を憎まず」から最も遠い。
殺人を否定するが故に無差別殺人を肯定してしまうというならば、有形力を的確に使いこなす活人剣を肯定することが是だと言える。実体に基づかない理不尽な逆恨みを取るよりは、公平な憎しみを取るべきだろう。対話だけで公正な統治を守ることは不可能であって、慈悲によって全てが解決出来るという認知的バイアスはヴァーチャリズムに過ぎない。誰が何と言おうとも、交渉が成立し得ない相手には有形力を用意しておく必要があって、不公平な許しによって不適格に行使される有形力に勝つことは、絶対に不可能だ。
「剣によって滅ぼさぬ者が、剣によって滅ぼされる」ということが歴史的な事実である。ならば、我々はヒトラーの剣によって社会を統治するよりも、フリードリヒ大王の剣によって社会を統治することを選ぶべきだろう。哲学者の剣は自由の火を撃ち出す創造的破壊の剣であるが、総統の剣は単なる模造品の玩具であって、人を抑圧するための重石にしか使うことしか出来ないものだ。そして、ナチスと戦うために我々が行うべきことは、英雄一人の力に任せることではなく、彼の理念を受け継いで発展させるためのシステムを構築することだろう。
ヒトラーのように、蒙昧を強さと考えることは、認知の灯を否定するゲルマン的陰鬱であって、「知は力なり」から最も遠い究極的なまでの弱さでしかない。理不尽に従うことを信仰する愚者には、戦うための「あらみたま」が存在するはずもなく、剣を持ったところでそれを活かすだけの人間的技量もなく、活人剣を為すことなど絶対に不可能だ。
情け容赦を持たなければならないという強制は、社会を救うどころか、それが最も人間に有害であることも多い。愚かさと醜さに対しては、狡猾さと残忍さによって報いることでしか公平を担保出来ないことも存在する。許すことによって己の道徳的優位を確保しようとする浅ましい自己満足は、権威の横暴を成立させるために人間の勇気を破壊するだけの宗教テロでしかない。有形力とその制御の重要性を否定してキレイゴトに逃げるうちは、権威主義者から攻撃されるという形で因果応報が起こり、業の報いを受けることは必然である。
大体の人間の社会で法律というものは存在してきたが、人間の感覚が慣習的な法律を形成し、それを明文化しただけのものが本来の法律である。原初の法律とは暴力の行使を規定するものであって、法律とはその根底に「まず実体有形力ありき」というリアリズムに基づいたものだ。
もしも、法律が条文だけであって警察機構が存在しなければ、法律には実効力が発生するわけがなく、犯罪者の楽園が生まれるだけだ。無政府状態の紛争地帯を見れば、これは誰にでも明らかなことだろう。この世界においては、水と安全はタダで手に入るものではなく、不断なる有形力の行使によって社会が保たれているだけに過ぎないのだ。
他者を犠牲にして安寧の内にキレイゴトを唱えるものには永久に想像すらし得ないが、人間世界の困難の最前線にいる者にとっては痛みと苦しみと殺意こそが世界の真実である。負ければ殺されるか奴隷にされ、戦わなければ何をも守ることが出来ないという人間社会の普遍的な事実を、平和主義者達は認知することが出来ない。暴力で勝つことを否定すれば、公共判断を通すことなどは絶対に不可能なのだ。
平和主義とは、戦うこと以外の選択肢によって生きられなかった境遇の人間に対する無関心でしかないが、それ以上に世界のあらゆる諸問題についての無視であって、これは観念的な正当性を求める自己満足でしかなく、実体的な平和を希求するものではない。彼等彼女等は、愛国心を嫌う以上に民主主義を嫌っているが、世の中には地球球体説を嫌うが故に地球平面説を唱える者すらも実存することを認識すべきだ。実態を無視する平和主義者達は、他者の痛みに鈍感であるが故にキレイゴトを吐き続けることが出来る。生きていくために武力が必要であると想像出来ない者は、他の誰かを自らの代わりに傷を負う境遇に置くことで、自らが安穏と出来る立場を確保していることに気付いていないだけなのだ。
言論の自由を守るには有形力無しでは不可能であるという事実は、日常生活においてすら明らかなことだろう。殴るために理屈を探す相手には、有形力抜きには交渉は出来ないが、威嚇以上の力を用いても会話が成立しないこともしばしばだ。対話が成立し得ないことが前提ならば、野放図なる理不尽の押し付けをやりたい放題にやり尽くすことが、利益を最大化する手段であることは言うまでもない。理念も功利主義も伴わずに、ただ単に折れたら負けと考える相手に対して、容赦を見せることは自殺行為以外の何物でもないだろう。
大部分の犯罪の本質は、公共を無視した私益の追求である。権威主義や個人利益主義は犯罪か若しくはそれに近い行為を大量に発生させて社会を破綻させるが、それを食い止めるには有形力の適切な活用以外に方法が存在しない。
治安とは、人間の力と意思によって成立させているものであって、ニーチェはこれを「力への意志」と呼んでいた。有形力を使って社会の治安を保つことが是であるが、それを悪として批判して、平和主義という観念を唱える宗教が善を自称することが、ニーチェが述べた「善悪逆転」であろう。これは、儒教が公平性を持たないことを恥や不名誉とせず、むしろそれこそを道徳としたことに類似する現象である。
臆病な平和主義者達は戦うことを何よりも恐れていて、臆病さに由来する自己愛が故に醜い己を全肯定しなければ気が済まず、命どころか公共理念まで全て失っても何ら問題がないと考えているのだ。平和主義の本質とは勇気の否定そのものでしかないが、これは実体を観察せずに観念論に逃げ続ける狂信であるのだから、知性の否定であるとも言えよう。権威に媚びを売る平和主義者達は自分が攻撃されなければそれで良く、他人を犠牲にして保身する冷血を恥だと認知していないのだから、能動的な向上心が生まれるわけがなく、権力の必要性を理解することも出来ない。己の安心を求めて現実逃避に走ることは勇気の欠如であるが、それは実体的な安全を破壊するだけの知性の欠如でもある。
実体を認知せず、有形力を制御する責任から逃亡し、敵の殺意をただ無視する平和主義は、他者を守る力の放棄であって、まさに「自由からの逃走」そのものだ。平和主義の実体は、単に権威を妄信して祈り、権力を放棄して呆け、人間と社会を苦しめるだけの世迷い事であって、これは民主主義の否定に過ぎない。この苦痛への信仰は、人間本来の危機意識を潰すだけのものであって、有形力による統治を否定する洗脳による支配という点において儒教の文治主義と同じものだ。
平和主義とは、無力と暴力を二元論的な善悪に分けた上で無力を信仰することに取り憑かれるだけの呪詛であって、権力の意味や目的や機能とその運用を何も考えないガサツな思考停止であり、無防備への信仰そのものだ。これは、単に戦ってはならないという権威の戒律であって、国家公共の法治を守るための人間の法律ではなく、許しの強制であって、つまりは泣き寝入りへの強要でしかない。
公共を守るための暴力装置がキレイゴトの観念論に虐げられ、有形力と公平性が棄損され、無力と権威主義が崇められるならば、社会は無政府状態になる。政府という国家における最強の暴力装置が的確に使用されるが故に、他のあらゆる暴力の不適格な使用が抑圧されているだけに過ぎない。理念を通すには有形力の行使が必要となるが、キレイゴトを唱えて理念を実現する意思を持たない言い訳が平和主義であり、観念を実現させることで人間理念の破壊を目指すものがイデオロギーであろう。
公共社会とは、義者の暴力によって成立するだけのものに過ぎない。だが、平和主義者達はキレイゴトを唱えて人気取りを行うことで、群れの中で自己権威化することしか考えていない。理念なき彼等は、実体的な問題解決などは他人事としか考えられない。不条理な暴力を的確な有形力で抹殺して社会を公正化することを、彼等彼女等は何よりも権威への不信心であると感じているが、これは不条理な暴力への信仰であると言っても何ら問題はないだろう。強さへの恨みと弱さへの情けは、まさに公平を否定する偏愛であって、彼等は自らが神官的権威か若しくは宦官となって、他者を否定し弾圧することが目的なのだ。彼等は臆病さと人間不信故に、他者の有形力とその適切な使用を否定しなければ気が済まないのだろう。
哲学者の有形力に対する神官達の恨みが平和主義という観念であるが、的確に運用される有形力こそが宗教を不要にするが故に、彼等は不適格な暴力を容認してでも的確に運用される有形力を弾圧する。宗教権威が重罪人よりも哲学者を憎むのは、社会への有害性の是非を問うているのではなくて、人間の権威への隷属を重んじているが故にであろう。重罪人を洗脳することは出来ても、哲学者を洗脳することは殆ど不可能であるのだから、神官達は、重罪人を人間扱いする代わりに哲学者を悪魔として定義するわけだ。
思考停止して自らに同意する信者しか求めていない神官達の心性は、独裁者のそれとまるで同じだ。彼等は結果を放棄しても自分の見てくれを取り繕い、虚飾によって保身することにしか興味がなく、善とは観念で出来た印籠であると言うべきだろう。
そして言うまでもないが、平和主義は敵に抵抗することを禁止する観念であって、非権威である下を弾圧してはいけないという意識ではない。「己を権威から守ってはならない」という洗脳を施すことが平和主義の究極的な目標であって、これによって権威は支配下の人間に有形無形の拘束力を投射し続けることが可能となるのだ。
これは、単なる無防備への信仰どころか、平和主義という権威に反対する者を弾圧するための脅迫でしかなく、実体的な是非を問う言論の自由を否定して、権威の偽善に同調しない者を弾圧する暴力が横行する。権威は、人間の無意識下に権威を絶対に咎めないことを善として刷り込み、権威を利することを何よりも肯定すべきであると洗脳することによって、思考以前の権威主義者を大量に量産しているが、平和主義者とはこの最たる例であるのだ。
権力を放棄して権威にだけ関心を持つ平和主義は、究極の権威主義であると言えるかも知れない。平和主義とは権威への全ての委任という心性であって、その無力主義は単なる全体主義でしかない。実体を顧みることではなく、観念を妄信することが道徳であるが、権威を信じるうちには社会は何も変わらないだろう。平和主義とは公共社会や近代理念のために戦うことは拒否するという敗北宣言であって、権威に従うことを善として妄信するだけの自己欺瞞でしかなく、最期には敵と刺し違えて死ぬという日本の伝統的な精神に最も反するものだ。
バチカンのような宗教権威は他人を騙すことに余りにも慣れているが故に、表向きは同性愛を禁止しても、裏では同性愛の強制に熱心という事態が起こる。実は、ナチスもこれと全く同じことを行っていた。宗教にとっては、ルールとは上が下に押し付けて、下を弾圧するためのものであって、公共のために皆が守るというものではない。権威にとっては、約束とは他人に守らせるもので、自分は率先して破るための戒律に過ぎない。有形力がない世界では、トボけることによって、どんなエゴイズムであっても簡単に押し通すことが出来るが、彼等は自分が損害を被るかどうか以外に、何ら判断基軸が無いのだ。
誰が考えても明らかなことであるが、自他を騙すことに何も感じない人間でない限り、神官を務めることは難しい。だが、キリストは金髪碧眼のゲルマン民族であったと訴えることよりは、キリストが同性愛者であったと説教することの方が、まだ史実に反してはいないと言える。自分の行いによってではなく、信仰によって救われるというプロテスタンティズムを重んじるならば、こうした嘘も問題ないことなのかも知れないが。
そもそも、恣意的な懲罰と不公平な許しと権威の絶対的正当化こそがキリスト教の本質であって、カトリックもプロテスタントもどちらにしてもこの本質は変わることが無い。不公平な許しを強要する彼等は不正義以外の何物でもなかろう。理不尽に抗うことを否定するキリスト教は、社会正義を完全に否定しているわけだ。善という観念は権威主義を意味する者であって、公平性である正義を殺すための言葉である。彼等の唱える愛とは、強制的な同性愛か若しくは権威主義を意味するものであろうが、どちらにせよ、異なるものの協力ではなくて、異端の排除に基づいた価値観であることは間違いがない。
「敵を許せ」という報復の否定は公平性を捻じ曲げるが、これは無謬なる権威を許せという泣き寝入りの強制にどこまでも使われる。恣意的な懲罰と不公平な許しによって、権威は人間と社会を支配し続けているというわけだ。宗教の本質とは、子どもが親に支配されたままで居ることを崇めるだけの無知性無気力以上のものではないだろう。
多くの宗教は権威を絶対善なり無謬と定義しているが、これは権威を報復の対象にさせないための洗脳に過ぎない。この洗脳は人間から公平性を忘却させ、無抵抗状態に変えるための騙しと脅しとして最大限に機能する。斯様な騙しと脅しは、直接的な攻撃力というよりも、構造を視誤らせるための単なる詐術に過ぎない。権威の観念を疑う機能が無い愚か者には、反省する能力も公平な観察眼もまるでなく、権威に従属し続けること以外は何も出来ない。
とはいえ、報復の否定はキリスト教に特有のものであって、ユダヤ教徒もイスラム教徒も、斯様な妄想観念を否定するように、愚かではない。実体に基づいたロジックの否定は、キリスト教や儒教に顕著にみられる特徴であって、ユダヤ教徒やイスラム教徒をキリスト教に改宗させようとすること程に、愚かなこともないだろう。
キリスト教の観念論においては、何も言い返さずに黙って殴られることが道徳とされるのだから、権威に何も反論せずに黙って殺されることは究極道徳にしかならない。巷では権力には責任が伴うと認識され、その過失は必要以上に責められることを皆が当然視しているが、どういうわけか権威の無謬性については誰も疑問に思っていないところが不思議なのだ。
宗教でよく言われる無謬という概念は徹底的に恣意的であって、何を罪とするのかの定義次第でどうにでも決められる観念である。これは、善と悪、有罪と無罪を決めつける難癖の二元論によって、罪悪感を恣意的に刷り込む道徳的脅迫でしかなく、批判を停止させるために造られた観念に過ぎない。
このように実体的基準がない恣意的な難癖であっても、権威が上から下に観念的な決めつけを押し付けて、あらゆることを罰することは簡単なことでしかない。権威は無謬という価値観こそが、法律を破壊して戒律による独裁を成立させるのだ。これは全てを権威に委ねてその観念的な正当性を妄信して、思考停止すること以上の何物でもない。そして、少し考えればわかることであるが、公平性を求めない無抵抗主義者が冤罪で殺されても、それは単に自業自得のことであって、神学とは観念的欺瞞を正当化するために生まれたものに過ぎない。
魔女狩りとは、法律ではなくて道徳を基準にした裁断であって、これはどれだけ快楽的な行為であったとしても、実体としては単なるリンチと脅迫である。こうした密告の足の引っ張り合いという形の「万人の万人に対する闘争」は、全体主義社会の一つの特徴であると言えよう。平和主義的な刑罰の忘却であっても、過剰刑罰の難癖であっても、社会を壊すという結果はどちらも同じだ。社会契約に基づいた実体的な法律と合法的な刑罰を否定してヴァーチャリズムの道徳によって社会を治めることは、権威が恐怖政治によって人間と社会を支配するということである。
実体構造の前後関係や法治的な権力システムの的確性を無視して恣意的な決定を押し付けることは、それが民意に基づく多数であったとしても独裁でしかない。実体的な規律の喪失は、唯心論を世間に跋扈させ、気分と印象だけで意思決定を行う独裁者を崇めさせ、社会をヒトラーとアイヒマンが支配する監獄に変化させる。文化相対主義は、宗教的な煽動と民主制による多数決によってナチスを肯定するものでしかないのだ。だが、実体性と論理性を否定すれば対話に勝てるという愚かな信仰は、知性と勇気を否定しているだけに過ぎないのだから、その後に起こる有形力を使った交渉においてはほぼ確実に敗北する結末を迎える。
結局のところ、「敵を許せ」とは人間に存在している実体的な報復感情と公平な反撃意識を否定して、泣き寝入りと問題解決の放棄を強制するための観念的ニヒリズムでしかなかった。社会契約に反する者を討ち取る機能を否定すれば、世界は法律がない無法地帯となるし、誰もがそれを変えようとする政治意識をも持たなくなる。キリスト教は、人間から勇気と公正さを、つまりは正義を否定して、権威主義を刷り込み、宗教権威が支配する社会を成立させる運命を予定しているわけだ。
一神教のフレームは自分達の神だけが正しいという卑屈なる独善であり、自分達だけが正しいと思う先入観としての自己愛であって、自己以外の全否定に過ぎない。これは、自ら以外の全てを排除する信仰であって、同調圧力の押し付けであり、人間から客観性と自省機能を拒絶させる強迫観念でもあって、理不尽を絶対視させて崇めさせる単なる権威崇拝でしかないのだ。
一神教の信仰という「拒絶と排除」のフレームに、人間理念を折衷したところで、結局はリアリズム無き人間愛と公共権力の放棄、つまりは政治的自由の否定という権威主義にしか成り得なかった。一神教的な権威主義的思考を以てしなければ、人間の精神や社会について殆ど何も定められなかったことこそが、人類全体の究極的な不幸なのだ。絶対的な善に思考停止して盲目的に服従しなければならないということがあれば、その善は実体的には専制状態でしかなく、ここには究極の矛盾が存在している。おまけに、的確な指導を行うこともなく、人間の選別を指向しているのだから、それはナチズムと何が異なるのだろうか?
信仰の本質とは、絶対的な信用であって、権威を疑わないことであり、権威の観念を唯一の正解として実体よりも優先させることだ。皆が一つだけの権威に迎合することで訪れるものは、弱い者いじめ、異端の弾圧、思想の自由と実体合理性の否定、多様性の破壊、平和などではなくて全てなる理不尽である。誰も批判者が居ない、無言なる世界にようこそ。ただ一つの権威に皆が迎合することでしか社会を形成できないというのは、実体を観察し、他者と対話し、社会契約を考える能力が欠如しているだけだろう。
一方で、多神教ならば、人間が人間理念を獲得して神となり、権力行使を志向する思考を持てる。神も複数人いるのだから、多様なる意見の合議制を重んじて、民主主義と親和することは間違いがなく、これは多様性の尊重だと言えるだろう。そして、多神教の本質とは、神々とは間違いを起こすこともあるものでもあって、人間は権威を崇めて無批判に彼等彼女等を信用してはならないという無権威理念である。多神教とは、権威を信用しないことであって、絶対の答えを定めないものであり、つまりは宗教の定義から外れているものでしかないのであるが、それについては後述することにしよう。