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読書記録007「毒身」星野智幸

変な本を読んだ、というのが初読の印象だ。

奇妙で、面白い。刺激がある。それは構成の妙と、キャラクターの見せ方にかかわっている。ストーリーを紙に書いて、箱に入れ、それを見ないでよくかき混ぜ、取り出した順に並べていく。そういう方法を提案していたのは、バロウズだったか、ブルトンだったか、ウディ・アレンだったか、あるいはその全員だったか、忘れたが、そういう「時間軸の攪乱」が物語にいいコクを与えている。

ワタナベ、ヨシノ、テンコ、ウエカワは、ともに30代から40代の男女だ。彼らがシキシマという男に「一緒のアパートに住まないか?」と誘われる、という筋書きだ。独身者同士の理想的な共同体を探す、というのがその目的であり、本書のコンセプトでもある。こうした題材をとる以上、男女の関係のもつれであったり、どうしようもない感情のぶつかりあいのような、泥合戦じみた生々しいやりとりが、予想される。だが、どっちかというとクリーンな書き味をして、淡白な描き方をしている。その筆致が、この物語に「妙な軽さ」を与えている。どこか一か所に垂直的に落ち込んでいくのではなく、近接する島々が浮遊して、それらを飛び移っているかのような。

題材自体は重みをもったものだ。独身者のコミュニティとはいうものの、それには厳しい(?)ともいえる条件があるからだ。

独身とは、自由と自立のブレンドです。三原則を作ってみれば、群れるな、縛るな、甘えるな。(p113)

独り身と独身者はちがう。その違いを明確にするために、独身者を「毒身者」と言い換えさえするほどのこだわりようだ。

独身は自分のアイデンティティを自分で支えているから、ときどき自家中毒を起こす。その意味で独身は毒身なのだ。毒身者の存在の根拠は自分自身にある。毒身者は、毒身者自身という単位に帰属している。そういう単体のネットワークとして、「毒身帰属の会」はある。時空を超えて今、つながろう。(p21)

「毒」が使われていて、キャラクターたちの「毒」が確かに描かれてはいる。だが、読むのが嫌になることなく、ページをめくっていられる。誘われるように物語のなかに没入できる。それは構成の妙と、キャラクターの見せ方にかかわっている。物語のなかで、5人のキャラクターはそれぞれの一人称でそれぞれの狭い世界を語るのだが、どのキャラも億劫そうに、モタモタとしているのだ。つかず離れずの女二人のキャラ、ヨシノとテンコも出てくるが、どこか自分の激しい感情に自信をもつことができず、喧嘩して仲直りを繰り返すものの、それは網にかかった魚のようで、なんというかモタモタしているのだ。それには愛らしさすら感じてしまう。

シキシマーワタナベは、かつてのバンド仲間。

ヨシノーテンコは、喧嘩しては仲直りする、女同士のカップル。

では、ウエカワは? というと、夫と子供がいなくなった独り身だという。このおっとりした引きこもりがちな上川鏡子という女性が、意外にも物語のフックを担うことになる。シキシマーワタナベが、独身寮にまつわる現実的な要素であるとすれば、ヨシノーテンコが、あわただしく感情の泡をパチパチやって活気を与え、ウエカワが跳躍力を与えている。この関係図が、この物語の魅力をなす磁場といえる。

ウエカワの現実の関係は、テンコとの会話のなかでなぜかメキシコの映画のあらすじに譬えられることになり、その虚構性は話の後半の(突発的な)メキシコ逃避行へとつながっていく。必然性のありそうでないこの跳躍がいい塩梅だ。

桐野夏生「リアルワールド」も関係性の物語だった。それと比べると、「毒身」はゆるやかに関係性の磁場を築きつつ、たえず非現実性の象徴(アパートの庭に植わるマンゴーの木、ハンモック、メキシコ)を注入することで、現実の位相をずらすことに成功している。「リアルワールド」はピリピリした関係性の互いの触発によって、物語の推進力となっていた。一方「毒身」では、身の回りの写真にメキシコの写真を重ねるように、どこかずれていく身体や認識の変化を証し立てるために、関係性が配置されているのかもしれない。


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