ガングロロンリーマンハッタン
理由は全くわからないが、不意にガングロロンリーマンハッタンという言葉が頭に浮かんできた。せっかく浮かんでしまったのだから、ひとまずnoteの下書きタイトルにガングロロンリーマンハッタンとだけ書いて、白紙のまま置いといた。それが1週間前である。
とまぁ、「ガングロロンリーマンハッタン」と下書きに書いてみたはいい。ただ、この言葉は、全く意味のない言葉であり、急に思い浮かんだだけの言葉である。だからこそ、どうにかこうにか、捻り出してガングロロンリーマンハッタンというタイトルで何か記事を書いてみたいと思った。
しかし、何にも書けなかった。ガングロロンリーマンハッタンを甘くみた結果である。とうとう白紙のまま1週間が経った。そして本日、改めてガングロロンリーマンハッタンと向き合った。
ここで消していい。別に下書きを消していいのだ。今の私では、ガングロロンリーマンハッタンは、書けない。この1週間、noteを開くたびにガングロロンリーマンハッタンの下書きタイトルを目にした。消すタイミングはいくらでもあったのだ。なのに消さなかった。
なんとなく消すにはもったいない言葉だと思ったのだ。だからこそ、こうしてガングロロンリーマンハッタンの足跡を残そうと必死に文字を綴っている。これすなわち、ガングロロンリーマンハッタンの思う壺である。
ガングロロンリーマンハッタン。。。
一体なんなんだろう。なんの言葉だろう。少なくとも私が生み出した言葉だとは思う。私の頭に急に浮かんだその言葉がガングロロンリーマンハッタンだったのだから、それだけは譲れない。今の私に誇れるものなんてないけれど、ガングロロンリーマンハッタンという言葉を思い浮かんだことだけは、誇りを持っていい。私が、私こそが、ガングロロンリーマンハッタンの生みの親なのだ。
ちなみに私は、ガングロでもなければ、ロンリーでもないし、マンハッタンにも行ったことがない。
まぁ、確かに私の肌は白身ではない。だいぶソース肌である。しかし、ガングロではない。ガングロと呼ばれるには、ガングロに恐縮する。おそらくガングロというのは、だいぶ濃いめのこげ茶色である。ガンガンにグログロした茶色と自覚している。グロは黒を意味するのだろうが、ガングロは日本人の肌の色がベースにあるからして、だいぶ黒によせた肌色という解釈が正しいように思える。そう考えると、私の肌はガングロではなさそうだ。
ロンリーかどうか。家族も友達もいるのでロンリーではなさそうだ。けどまぁ、ロンリーな気持ちになることは、あるといえばある。不意にロンリーになり、物思いにふけるのも悪くない。それが大人というものだ。大人は、ロンリーを楽しみたい生き物なのだ。ロンリーを楽しんでこそ、大人だ。ロンリーについて考える機会をくれたガングロロンリーマンハッタンという言葉に感謝である。こう考えてみるとロンリーでないからこそ、ロンリーを楽しめるのかもしれない。本当にロンリーだったならば、ロンリーを楽しめなさそうである。偽物のロンリーを楽しめる現状に改めて、感謝したい所存。
マンハッタンに関しては、もういい。現時点で1000字以上書いたから、もういい。とにかく行ったことがない。
最後になりましたが、誰かが何かしらのガングロロンリーなことを言ったときに、「お前、それガングロロンリーマンハッタンやな」とツッコんだら「そういうお前がガングロロンリーマンハッタンやろが」とツッコミ返されるみたいな。
僕は、そんな世の中になってほしいと思う。きっと誰の心にもガングロロンリーマンハッタンは、いると思うし、その結果、今のあなたは、ガングロロンリーマンハッタンな人生を歩んでると思うから。
・こぼれ話