文学フリマ、水槽と推し
はじめに
このnote.記事は2部作の後編である。
前編は、下記を読んでほしい。
書き出しが決まらず、テンプレートに頼っているだけなので、マジで読まなくてもいい。
「オタクがはじめて推しに会いに行く」だけのことである。
わずか15文字にまとめることができる私の針小棒大な4000字の自分語り。その不必要さこそが文学なんだと胸を張りたいが、私は文学を知らない。
そうだ、(文学フリマ)京都へ行こう。
論文でもあるまい。
はじめになんて、茶番を書けばいいのだ。
私はゆっくり実況でそう学んだ。
文学フリマ
と、章立てはしたが、私はなにも知らない。
こんなときは公式様だ。私は「公式と解釈違い」などと息巻くオタクではない。
なんて素敵な理念だろうか。
「文学とはなにか」などと悩んでいた私に対して、「そんなの関係ねぇ!!!」と教えてくれる。そんなオリジナルな思いを込めた作品の即売会である。
私でも数作読んだことのある斜線堂有紀先生などの著名な方から、地元の文芸部や大学のゼミ、初参加のサークルまでいろんな方が出展されていました。
会場にもよると思いますが、今回の京都みやこメッセ会場では、対面に進まれる方同士で譲り合いフェイント合戦をしながら歩けるくらいの混雑でした。
私が文フリ京都で買った本について少しだけ。
(まだ詳しく読めていないので、感想は後日まとめるかも)
京都大学推理小説研究会「蒼鴉城50号」
麻耶雄嵩フリークスの私にとっては憧れの会報誌
べてぃ「日本うどん規格(JUS)ハンドブック」
うどんを愛する私は衝動買い。
喜木海弐「古今東西の嘘つきたち」
こういうユーモア本も好きです。
澪「劣等感」
私もコンプレックスのオタクをしているので。
岡田彩夢「きみはいくつにもなれる」
推しの本です。
(敬称略)
推しに「いや、お前さぁ」と言われそうな配置を今では後悔していますが、素敵な本たちです。
事前にネットカタログで拝見していた作品を中心に手を取りましたね。
後悔していませんが、自分でも想定より多く買ってしまったと思ってます。想像以上に会場は熱気に溢れていて、少し高校の文化祭を思わせるガヤガヤ感に乗せられたのは勿論ですが、この予想外の買い物の背景には私にとっての、のっぴきならない問題があったのでした。
推しのブースに行けない
いや、ちがうんだ、行きたくないが正しい。
「友達と遊ぶ前日の夜、お風呂に入ろうとしているときに気が滅入ってくる」アレ、「数年ぶりに会う学友と出会って、お互いのエンジンがかかるまでの沈黙──仲良かったあの頃との落差を添えて」など例を挙げれば枚挙にいとまがないが、嫌なもんは嫌なんだ。
みやこメッセに現着した私は、いの一番に推しのブースへ向かったものの、並んでいたオタクたちを観て直前で踵を返す、、、こともできずに、自意識高めの私は誰の目を気にしたのか一般人のふりをして素通り、その後×3回。
踏ん切りつかなくなった私は11時半の現着から13時まで会場を右往左往。徘徊欲求および物欲を満たし中和することでなんとか頑張ることにした私の勇気は、ブースの前に立った頃には外れ、口の中の空気はゼロ。海の底に沈んでしまった自尊心は、再び一般人のふりをする。名乗ることもできず、商品説明を受け、推しがくれた「何目当てできたの?」という質問に、どもってしまう始末。遂には、相手には素養のない無駄ハイコンテキストな解答をするオタクになってしまい無事完敗。
己の無力に打ちひしがれる私は、2冊購入特典の「短歌サイン」を書いてもらう短歌を選ぶためにふらふらと一旦トイレに逃げ込み、会場の外へ出た。
もう一度会いに行くために
打ちひしがれていた私だが、勝手になっているだけなので、誰も悪くない。
とりあえず、短歌サインを貰うために会場の隅に立って読むことにした。
騒がしい居酒屋で一人でそれを盗み聞きしながら、お酒飲むの好きなんですよね。きっとその感覚で戻ったのだと思います。喧騒の中で、よりはっきり自覚できる私自身もいるし、明るい笑い声は太陽の光のようで。私の中の劣等感と反応して痛むこともあるけど、その眩しさに目を細めることもある。
部屋の隅から少ししゃがんで会場を観てみると、限りなく広い海だと思って彷徨っていた、この会場も空は閉まっていて、水槽みたいだなと思えてきた。
そこにはいろんな金魚がいて、ひらひらと揺らめく水草が誰か酸素になるかもしれない文学を運んでる。
広すぎて泳ぎ方もわからなかった私には、小さくなった世界はキラキラ光って見えて、そんな気持ちにさせてくれたのは、隅に立ち止まらせてくれた推しの短歌集で。つくづく私はあの人に勝てないと思い知らされました。
私はここでも貰うものばかりで、私だから、私だけができるものは何もなくて。
だから、私はあの会場で自分のために詩を書いて、そして次の記事で推しのために短歌集の書評を書きます。
この詩を書いたのも、「共同体」をテーマにした推しの短歌を読んでいて、この文学フリマが一つの共同体みたいに思えてきたからです。
文フリ京都という共同体のなかにはいくつもの文学があって、勿論それを書いている人の中にもいくつもの文学があって、そんな入れ子構造が世界の構造なのかもなって。私の考えもたくさん入っているけど、文学フリマはそんな場所です。
誰かが、生きるために自分自身で吐き出した息を、酸素を、言葉を信じるための場所。
私もまた一歩踏み出すことにしました。
推しに会いに行く
2回目にしてやっと「行けた」気がしました。
結果はあまり変わらないのだけどね。
好きな短歌のサインをお願いして、さっき書いた詩のイメージを少しだけ話して。
それは「文学フリマって場所で書いてもらうならこの歌」としか伝えられなかったけれど。
他には「note書くね」「個展もたのしみにしてる」くらいしか言えなかったなぁ。
ホントは修論のこととか、お手紙のこととか沢山言いたかったことはあるんだけど、できないものはできない。
自意識が過剰で、ずっと名乗れない私に名前を聞いてくれて、やっと私が名乗ったときにクルッと態度を変えたられたのには笑ったなぁ。
初手で「おまえ」って言い出したときが最高潮でしたね。\ぼくは〜ゆるすけど〜ほかのひとには〜/
圧をかけてくる「かわいいヤクザ」も最高でした。
褒める語彙が少ないから、かわいいしか言えないからもうやらないでほしい、照れるし。
そんなことを思い返すと、やはり私と推しの関係はネッ友同士がチョケてるくらいが丁度いい気がするけど、私はこんなノートを書いてしまった。
だから、もう仕方ない。
今の時代、こんな文章なんて指一つで消すことも、書き直すこともできる。手紙のように「ページに余白がない」なんてクリシェも使えない。
それでも、私はこの文章を投稿するし、今後も推しに言いたい素直な言葉は、照れ隠し〜とか抜かしながら、レトリックを使って誤魔化し続けるだろう。そう、私にとっての「文学」の名のもとに。
それくらいが愛を拗らせるにはちょうどいい。