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MINAMATA -ミナマタ-

ジョニー・デップが名フォトグラファー、ユージン・スミスとなり、彼の最後の大仕事となる水俣病取材をメインに据えた作品。
映画のテーマは広い意味で公害であり、時代は変わっても今なお世界の各地で存在し続ける『不都合な真実』について問いかける。

日本に住んでいれば水俣病については学ぶし、権利問題で今の教科書等に載っていないという話だが、あの有名な写真、「入浴する智子と母」は目にしたことがある人は多いのではないか。

私は芸術系の通信教育をしていた時があったが、そこで選択した写真論で報道写真というものを知った。
そして『マグナム・フォト』に出会う。
『マグナム・フォト』は写真家組合のようなもので、当時地位が低かった写真家の権利と保証を守ろうと、「ちょっとピンボケ」で有名なロバート・キャパが1947年に設立した。
創始者のひとり、アンリ・カルティエ=ブレッソンの、『決定的瞬間』と呼ばれる写真には個展も行ったが、かなり感銘を受けたのを覚えている。
ユージン・スミスがこれに参加したのは1957年。

水俣取材の詳細などはもちろん全く知らなかったので、この映画は色々と衝撃的であった。
事実を元にしたフィクションと前置きがあるが、どこが違うのか鑑賞後にWiki等で情報を漁ってみたが、それは2時間ドラマにするための取るに足らない部分であり、テーマを冒涜するようなことは一切なかったと思う。
先の投稿で批判した『いのちの停車場』とは大きな違いがある。
そしてその見せ方が本当に秀逸だった。

ユージンの写真に対するこだわりも凄いが、紛争の中に身を置いて結果的に大きな障害を負ってしまったのには驚いた。
彼は25歳のときに沖縄戦の従軍記者として同行し、重症を負って酷い後遺症があったが、後年、水俣でまた重症を負うことになってしまう。
マグナムは会社といっても報道写真家の立場はあくまでフリーランスだったし、現場判断の責任は自分にある。
日本のメディアでは社員として守られている記者や写真家は危険を冒さないし、冒せない。
それは原発事故の際にも露呈した。
現場にいち早く向かうことが出来たのはフリーランスの記者だった。
報道写真家には死と危険が隣り合わせであることは、彼らにとっては当然のことだった。その先に行かない限り、真実はやってこない、と。

水俣病は公害問題の一つであるが、どの問題も根っこは変わらない。
『強者が弱者を力でねじ伏せようとする構造』が、どんな主義であろうと人間社会にはどうしても存在するし、それが現実といえばそれまでだ。
しかし、その無慈悲さに対し、どのように心が動くかが問われる場面がある。

雇用=金であり、生活でもある。
巨大産業の誘致は半ばそういった人質を取られる形で完成する。

焦点は『尊厳』の問題となる。
つまり人間の尊厳が問われるが、その思考については近代化と切り離すことはできない。
集団のための人身御供を是とする旧社会が残る地方では、漫然と継承されていたりする。
だから近代的モラルに反するからといって、そう簡単にムラ社会が覆るような構造になっていない。
政治もそれを分かったうえで利用する。

それでも、一線を越えてしまった行為や状況になり、それを知る人が増えれば世論が動くことがある。
それが、本当の意味での報道の力であると思うし、それを行える唯一の手段を持つのが記者なのだ。
そういった矜持を持つものだけが、世界を動かす結果を残すことができる。
名誉欲だけでは到底成し遂げられるものではないだろう。
結果的にそれが転がり込んだ人もいるかもしれないが、通常は地道な取材と折れない心、時に体を張ってまで抵抗できる精神がなければこの強大な壁を崩すことは出来ないだろう。

スミスが重傷を負ったことによって神格化されたところもあるが、閉鎖社会で(現実は)3年間という長い月日をかけて信用を築き、結果的にあの「入浴する智子と母」を撮影するまでに至った経緯を、この映画は良く描けていると思う。
現実は、というのは、この映画ではこの時間の間隔がとても短く設定されているため、それに伴う事実の虚構がある。
しかし、それは冒頭で書いた通り、テーマには関係しないし、彼や彼の支持者が行った行為を改変するものではない。
だから素晴らしいと思える。
映画という作品としても素晴らしいのだ。
社会問題を扱う重さを良く分かっている。

『強者が弱者を力でねじ伏せようとする構造』がどのくらいの不幸をもたらすのか、この映画では公害問題を起こしたチッソの社長(國村隼)がユージンを金で買おうと交渉するシーンで語る言葉によく表れている。

「スミスさん”ppm”という濃度の単位を? 科学的議論はさておき、100万分の1はほんの微量です。つまり無視しても問題ない」
「彼らは”ppm”に過ぎません。社会全体の利益の前では無に等しい」

ここのシーンはフィクションだろうと思うが、この作品が広く公害問題を扱うというテーマからは妥当だと思える。
当時は高度経済成長期であるから、後進国だった日本では小さな被害であれば公害が出ても成長のために犠牲を正当化出来ると思ったのかもしれない。
今は、先進国が利益のために途上国の労働力を搾取している。
エンディングでは、そういった事実を突きつける。

日本はそう遠くない未来に先進国とは言えなくなってくるだろう。
搾取される側に回ることになるのか、世界が別の方向にシフトするのかは分からない。
それはこれからのみんな次第だからだ。

だから政治に興味を持ち、選挙に行くんだよ、という理由なんてこういったエンタメ作品からも知ることが出来るし、そう説明できる。
オトナはもっとコドモにちゃんと伝えなければいけないと思う。