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木を見て森を見た先にある世界を思考する

「木を見て森を見ず」とはよく耳にする言葉で、自分のことか、その周辺のことしか見えていないこと、全体が見えていないことを意味します。
世の中はそんな単純ではないし、もっと視野を広げましょうということですが、森はどこまで広がっているのでしょうか。
森は山となり、山は地形を形成する一つの要素で、他に平地や川や海があって、それはやがて地球という一つの天体としてある空間に存在することが科学的に明らかです。
その天体もまた、銀河と呼ばれる集団の一つでしかなく、その銀河が無数に存在する空間を宇宙と呼んでいます。

その宇宙の外側にも新たな宇宙があるかもしれないとも言われ、結局のところ、最終的にこの世界は謎のままです。

私たちは生きる上で、どこまで「見る」必要があるのでしょうか。

それは様々なシーンにおいて、人間が線引きすることで(共存としての)バランスを図っています。
それが種として集団を形成する「社会」であろうと思います。
その図り方は科学の発展とも密接に関係しているのは歴史的に察せられることでしょう。

学問は「森」を見るための営為と言ってもいいと思います。
現在、その「森」は科学の発展に伴い、宇宙の果てまで想像する段階にあります。

しかし、学問で見る「森」はある一つの「森」でしかありません。
「木」は「個」であるため、一人ひとりの人生が大いに関係する特別な世界です。
学問から見る「森」は「普遍」であることが多く、そこから外れた「森」は特別な「木」の集合体であるように思います。
より洗練された「木」の進化系とでも言いましょうか。

その特別な「森」は近代以降、当然ながら増えることになります。
民主主義革命による個人(自由)主義の到来は、普遍的「森」で保たれていた秩序の一端を破壊したことは確かだと思います。

この特別な「森」を個人的「森」と呼ぶことにします。
この個人的「森」を巡る「木」レベルの対立は、インターネットの発展によってより顕著になり、解決が難しい問題を喚起し、現代に至っていると感じています。
自由主義は個を解放し、多くの「幸」をもたらしたことは歴史の一端に刻まれる事実でしょう。
しかし、普遍的「森」を伐採し、個人的「森」が植樹され、そのバランスが崩れてきたために、これまでの基準では解決できない問題が噴出してしまっていると感じます。

このバランスが崩れることで、二極化が進むことは容易に想像することができます。
人々のため、という今ではカッコつきの営為は、個人的「森」のフィルターに掛けられ、自然に行うことを難しくしていまっていると思います。
それは言うまでもなく「政治」に直結します。
「政治」は現代では「木」から「宇宙」まで考えなくてはいけません。
しかし、現実的には「森」に関わる「社会」に関することでしょう。
「政治」が考える「森」は、従来であれば普遍的「森」でよかったことです。
しかし、それは個人的「森」の増殖によって大きく変わってきました。
トランプ大統領誕生という事実が物語るのは、そういったことであると考えます。

それは「正義」という概念が、「森」から「木」レベルに落ちることを意味していると感じます。
レベルは「木」ですが、それが「森」になってしまったので、現実として起こってしまう「不都合」なことがあります。

「正義」もまた、「木」から「宇宙」までのレベルにおいて変容してしまう概念でもあります。
どの「正義」を受容するかは「社会」がとても関係しています。
やはり「森」のバランスによります。

テクノロジーの進化によって「快」の追求に際限がなくなりつつあります。
少額のサブスクリプションによって永遠の「快」を得られるような錯覚に陥ります。
それはしかし、永遠に続くことは不可能だと思います。
歳を重ねることでやがて「飽きる」からです。
永遠の命を手に入れたとき、それはまた変わることではあるでしょうけれども。

人間は人生において必ず何かしら学び、考え、決断をし、それによる責任を取るというサイクルを繰り返します。
しかし、そのサイクルを完結できない、もしくはしなくてもよい「森」が増殖すると、とても歪な社会が誕生すると想像します。
その「森」の中でカットされる行為は「考える」ことと「責任を取る」ことだと思います。

「学ぶ」ことは学校があるので、誰しも行います。
欧米に比べ、暗記教育が主体と言われる日本では、考えることが苦手とも言われます。
それは人ぞれぞれでしょうが、そういう傾向にあるのは感じます。
そして何かを行うには「決断」は必須です。
「責任」は取るという自発性ではなく、取らされる、自業自得という扱いで処理されていると思います。

そうして、社会から普遍的「森」が消えていくと、考える文脈を飛ばして「正解」を求めるようになります。
ネット時代には特にいかに早く「正解」を得るかが「コスパ」につながると考えられ、考える行為は「無駄」にも思われているように思います。
動画作品を2倍速で鑑賞したり、手っ取り早い「まとめ」サイトや書籍で「学ぶ」ことに繋がります。
市場は必然的にそれに追従するため、それを加速させます。
悪循環です。

「責任」は取るものではなく、「感じる」ことになっているのはこの国の政治家の言葉からも明らかです。

面倒くさいことをしている時間はもったいない、という先にある、コスパに優れた人生は果たして素晴らしいことと言えるのでしょうか。
もしかしたら新しい楽しみ方になるのかも分かりません。
しかし現状、私はそうは思うことはできません。

私は以上の考えから地球的レベルで俯瞰したとき、個人的「森」が跋扈する社会は最終的に人間的幸福にはつながらないだろうと思っています。
だから、学び、思考し、決断して責任を取るというサイクルが回る社会を実現できそうな政党なり候補者に投票することになるでしょう。
いなければそこへ向かいそうなパワーバランスを考え、選択することになります。
それが、一人ひとりに与えられた民主主義というシステム内の権利で出来ることだろうと思います。