教員の「居場所」は多すぎる
おはようございます。すぐれない天気が続きますね〜
今日は、教員の「居場所」というテーマで、思ったことを書いていきます。
何回か言ってることなんですけど、教員は「授業」以外のところで、生徒を変えようとしますよね。なぜなんでしょう。(詳しくは下の記事に書いてます)
コロナのせいでか、おかげでかはわかりませんが、普通にしていれば定時で帰れるほどに今の教育現場は余裕があります。余裕があるということは自分で選んで、主体的に仕事ができるので、ひとりひとりの教員が何を大事に仕事をしているのかわかりやすいな〜と先日思いました。
僕はひたすらに「クラス経営」と「授業作り」と「知識のアップデート」のために時間を費やしています。やはり、子どもたちと関わる時間が長いのは「授業」そして、担任である僕は「クラス」での関わりだと思っていますし、「知識のアップデート」をしないとこれからの時代を生きる子どもなんて育てられないと思っているからです。
ふと職員室を見渡すと、それぞれの先生が全く違う仕事をしていることに気づきました。分掌の仕事を一生懸命やったり、春休み明けにやってくるであろう仕事を先取りしている先生もいます。中には、コロナの影響で部活はできないのに、部活の話をしている先生もいます。
一見、いいことのように思えますよね。僕も多様性があっていいなぁと思っていたんですけど、これが教員が変わらない原因じゃないかとも思いました。
自分が活かされるところを「居場所」にするのは、とてもいいことだと思います。オンリー1の場所を見つければ、必然的にナンバー1になれますからね。
でも、本質的じゃない気がします。
部活動が好きな教員、生徒指導が得意な教員、会計が得意な教員などなど、いてもらわないと学校が回らなくなるかも知れない。だから、大事な存在だっていうのはわかります。でも、それって、付随的なもので、そこにあぐらをかいて「居場所」にするのは少し違うんじゃないでしょうか。
「仕事ができる」「有能だ」って、それこそ分掌の仕事が抜群にできたり、部活動をきちんともてたりする人に対してよく使われます。その後に、おまけのように、授業もしっかりできるよね、生徒との関係作りもうまいよね、と付け加えられます。
うーん…逆じゃないですか?
学校改革が進まない原因は、本質的でない「居場所」が多すぎるからだと思うんですけど、みなさんはどう思います?
僕は、教員がというよりは、システム的におかしいんだと思ってます。