ストリートピアノと書くことについて。
ストリートピアノって、noteの日記と似てませんか。少なくとも今の僕はそう思っている。
たまにストリートピアノを聞きに都内へ行く。ほとんどの人は無名で、でも楽しく、あるいは緊張していたり、それぞれの生活や想いを持ってピアノを弾いている。
その音色は僕らを、同じように無名な僕らを観衆に変える。
僕はピアノの上手い下手はわからないけど、その時間がとても好きだ。
そこには、弾き手と観衆の関係があって、日記で言うところの書き手と読者の関係なんだと思う。
誰かが自分の想いを言葉にし、それを読む読者がいる。
願わくば、少しでも読み手にとって心地の良いものであってほしい。それが意図されたものであろうとなかろうと。
ところで、
僕は若いころ、いつか文章が書けたら良いなと思っていた。でもまったく書けなかった。
実はそんな僕に文章を書くきっかけをくれたのがとあるサイトの日記だった。
僕は書くという作業は高尚で、天啓めいたものであったり、救済のようなものでなければならないと信じていたし、そうあるべきだと考えていた。だから、いつまでたってもそんな瞬間が訪れることはなく、まったく書けなかった。
でも、そのサイトだったら「イイネがつくから日記を書く」という下らない理由があり、それを書く理由にすることができた。そうしないと僕は書くことができなかったから。
そこで書くようになってから、幸いなことに僕の文章が好きだという人も現れてくれた。
そのなかで、僕の書く文章のファンだと言ってくれた人がいて僕もその人の書く文章のファンになった。
その人はたしかに僕の文章のファンではあったけれど、同時に何人かの優れた書き手とも交流があり、それは僕を「あの人よりも上手い文章を書かなければならない」という想いを駆り立てさせた。
そうして僕は自分の文章をより良いものとするために、とある教室に通うようになった。
その教室に通うようになってから僕は文章に対して真剣に向き合っている人達との交流が生まれた。
ますます自分の文章と向き合うようになり、その手の雑誌の投稿欄にも選ばれるようになった。
そして、自分の書く文章と他人の書く文章の比較にそれほど意味もないことに気がついた。
今日、当時の教室で僕の書いた文章が評価されていたものを改めて眺めてみると、その多くはそこで書いていたものから着想を得たものだった。
どこであろうと書かれたものには価値がある。
そして書かれたものには、幸運にも読者が生まれるかもしれない。
もしかしたら、誰かに何かを残すこともあるかもしれない。
時間や認識とは異なる尺度で。
たとえ自分では下らない文章に思えるようなものであったとしても。
書くということは、きっとそういうことだったのだ。
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