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【小説】晴れた日の月曜日なんだけど 第1話


あらすじ

 絵美子さんは陶磁器メーカー「霧滝」のコールセンターと区役所福祉課の電話係で、パートの電話オペレーターを掛け持ちしていた。福祉課ではおじいさんおばあさんへ電話をかけ、安否確認を兼ねておしゃべりするのだが、区の管内で振り込め詐欺があり、絵美子さんは大好きなおしゃべりの電話を中断して注意喚起の電話をかけることになった。一方、霧滝ではお客様からの電話に応じる仕事で、中には理不尽な嫌がらせもあった。それだけでなく、霧滝のいじわるな社員に目を付けられてしまう。理解者であるサブリーダーのフォローもあって切り抜けるが、霧滝にとどまるかを悩んでいたのには、別に理由があった。


1.晴れた日の月曜日なんだけど


「もしもし、霧滝きりたきコールセンターです。いかがなさいましたか?」

 絵美子さんはこの日の朝、一番にかかってきた電話を取った。

「お店で買って、送ってもらったカップのことですが……。お店で見た時にはさくら色のきれいな色だったのに、家に送ってもらった3客のうち1客が少し色あせていて、くすんでいるのだけど……。どうしてかしら?」

 苦情の電話だ。反射的に

「それは大変失礼いたしました」

と答えて、続けた。

「そうしましたら、ご希望の色のカップに交換させていただきます。お客様が希望される色を少し詳しくお聞かせ願えますでしょうか? それを職人に伝えますので、その職人にいくつかの色のカップを候補として選ばせて、送らせようと思います。お客様には送った中から選んでいただく、ということでいかがでしょうか?」

「職人さんからカップをこちらに送っていただける、ということかしら?」

「はい。何種類かの色のカップを送りますので、その中にお気に召した色があればお手元に置いていただいて、残りを送り返していただけますか。送料はこちらで負担いたします」

「あら、そんなことができるの? でも、そこまでしていただかなくても……。交換したいのは1客だけですから。一番いい色だけ送っていただければ……」

「微妙な色の違いかもしれません。工場にあるカップからいくつか送りますので、その中からお選びいただけますか?」

「そうですか……」

「それに、1客だけ送っても、交換ということでいまお持ちのカップを送り返していただくことには変わりありません。同じ返送の手間がかかるのであれば5客ぐらいの中から選んでいただいたほうが、ご希望の色が見つかりやすくなると思うのですが……」

「そうねえ」

 電話先では少し考えてから

「そこまでおっしゃっていただけるのでしたら、5客を送っていただけますか」

「承知しました」

 絵美子さんは電話の相手にカップの送り先を確認した。
 パソコン画面には相手の連絡先が自動的に表示されていた。かかってきた電話番号をこの会社のサーバーに蓄積されていたデータと突き合わせて一致したようだ。
 たぶん、お店の担当者が住所を入力したのだと思うが、本当にそこに送っても良いのかを念のため確認した。
 その後で、希望の色をさらに詳しく聞こうとしたのだが

「送ってもらったような少しくすんだピンク色ではなかったのよ。お店で見たのは」

「明るいピンク色ということですか」

「そうそう。さくらのようなイメージ」

「うすいピンク色といったイメージでしょうか?」

「そうそう。うすい明るいピンク色」

「それでは、さくらのような色のカップを5客送りますので、その中から選んでください」

 お客様との間で決めたことを繰り返した。
 そして、

「お忙しい中、霧滝コールセンターにご連絡いただきありがとうございました」

と電話を終えた。

 絵美子さんは相手が電話を切る音を聞いてから、パソコン画面にある『切る』のボタンを長押しクリックした。一拍置くとヘッドセットから聞こえる電話の音が静かになった。

「ふうー。大きな問題にならなくて、良かった」

 小さな声でつぶやいた。

 この部屋には大きな窓がある。座っていると隣のビルの屋上の先に空が見える。狭い視界の向こう側には真っ青な空があった。
 その狭い空に目を移すのが絵美子さんにとって電話を1本取った後のほんのわずかな息抜きだった。
『いい天気なのに……』
 どこかの公園のベンチに座って、何も考えずにこの空を眺めていたいな……

 電話が終わるとやらなければならないことがある。
 パソコンに視線を戻した。

 顧客から電話があったことを販売店に伝えて、お店からお客様に電話してもらうという選択肢もあった。そのほうがコールセンターとして手間はかからないし、お客様がお店の人と直接話しができるので、意外とあっさりと解決することもあるのだが、朝早いこの時間はまだお店は開いていない。

 それに、お店でも少ない人数で仕事を回しているはずだから、すぐに折り返してお客様に電話できるかはわからない。お客様を担当した店員さんがもし休んでいたら、数日間ほっておかれる心配もあった。
 何日もそのままになってしまうと、お客様から『いつまで待たせるのか』という次の苦情がこのコールセンターに入ることになる。それは避けたかった。
 絵美子さんが自分で対応してしまおうと思ったのは、そういうことを考えたからだった。

 パソコンにインストールされたシステムを立ち上げ、工場にいる職人さんへのメッセージを書き込み、送信した。
 その後で工場に電話することも考えたが、工場がまだ準備中の時間だったはずなのでやめておいた。
 送った内容でわからないことがあれば工場から問い合わせてくるだろうし、送った内容だけで判断できるのであれば確認のための連絡はこないはずだ。


 次の電話が鳴った。

 この日は月曜日。
 週明けに朝の早番を希望する人はあまりいなくて、絵美子さんと奥の席にいるもう一人の二人しかいなかった。
 そのもう一人は別の電話に出ていた。
『気持ちを落ち着かせるための時間をもう少しだけちょうだい』と言いたかったが、しかたがない。

 電話を取った。

「もしもし、霧滝コールセンターです。いかがなさいましたか?」

「あのさー。おたくのお店、対応が悪くて、必要だったお皿を結局買えなかったんだよね。どうしてくれるの」

 クレームの電話だ。

 文句を言いたいのだろうけど、こんな言い方をしなくてもいいじゃない。見ず知らずの人と話すときの礼儀をわきまえていないのは、どうしてかしら。そう思うのだが、こういう人が結構いるのだ。

 ひたすら話しを聞くことにした。「はい」「はい」と合いの手を入れる。無言のままだと「真剣に話を聞いているのか」と怒られる。
 こちらが話した言葉じりをとらえて責任を押し付けようという魂胆が見え隠れする。
 ずっと神経を研ぎ澄ませていなければならない嫌な電話だった。相手の話しが長く感じられた。緊張が途切れそうになる。
『リーダーは早く出社しないのかな。そうしたら電話を代わってもらえるのに』
と思ったところで、急に相手の言葉から勢いがなくなった。

「もういい。おまえじゃ、話しにならん」

と相手が一方的に電話を切った。
 こちらがなかなかボロを出さないのであきらめたようだ。
 それでも、絵美子さんはほとんど言葉を発することもなかったので、不完全燃焼のようなモヤモヤした感覚が残った。

 この頃になると、通常の時間の人たちが一人、二人と少しずつ出社してくる。
 そして次に廊下から楽しそうなおしゃべりが一まとまりの音になって近づいてくる。玄関やエレベーターホールで偶然いっしょになったのだろうか、何人かでこの部屋に向かってくるのがわかる。
 一瞬静かになって、ドアがゆっくりと開く。 
 ドアを開けた人が中の様子をうかがって、何も起こっていなければおしゃべりは続くが、この日は早番が電話を取っていた。入ってきた人たちはみんな無口のまま席についた。

 3本目の電話が鳴った。もう一人が1本取っているので、コールセンター全体では4本目の電話だ。
 部屋に入ってきたばかりの人たちは、まだ準備ができていない。
この電話も絵美子さんが取った。

「もしもし、霧滝コールセンターです。いかがなさいましたか?」

 相手は聞いたことがある女性の声だった。

「あー。その声は絵美子さん? 今日の朝の早番だったわよね。木村ですけど。体調が悪いから病院へ寄っていきます。出社が遅くなりますが、診察に時間がかかるようだったらお休みにするかもしれないので、そうリーダーに言っておいてもらえるかしら」

 コールセンターのメンバーの一人だった。
 一呼吸した。
 ドキドキし始めた気持ちを落ち着けようとした。が、間を開けることはできない。平静になる前に話し始めた。
「直接、リーダーとお話しいただけますか? この時間は会社の人からの電話は取らないようにとリーダーから言われてますので……」

 話し終わらないうちに、電話が切れた。

 朝の早番は、通常の時間の人たちが電話を取る準備ができるまでは、会社関係の連絡電話は取らなくてもいいことになっていた。

 顧客サービス拡大の一環で始めた朝の早番。この時間は少ない人数しかいないのだから、社内の人間は後回し――というのは当たり前と思うのだが、早番制度を始めるときに社内の他の部署にも伝達したこのルールを、コールセンターのメンバーにもかかわらず無視する人がいるのだ。

 始めは、取らなくてもいい――という表現で説明を受けたが、電話を取らなければ相手が誰かはわからない。
 制度がスタートしてほどなく、社員とわかった時点で何も答えないまま電話を切ってかまわないというルールに変更された。
 それでも電話に応えるのが仕事のオペレーターは、習性として相手の話しを聞いてしまう。そのまま切るということが、なかなかできなかった。
 一言だけ、「この時間は社員が電話してきてはいけない」――と相手に伝えてから切る人が多かった。

 絵美子さんもそうしようとしたのだが、相手の木村さんはさらに上手で電話を先に切ってしまったのだ。
『負けてしまった』
と心の中でつぶやいたが、不思議とその言葉ほどの悔しさは湧かなかった。

 木村さんの電話を運悪く取ってしまったということは、その後が大変だった。
 絵美子さんが木村さんの朝の電話を取ったのはこの日が初めて。それでも以前に他のオペレーターが受けてしまったのを横で見ていたことがある。
 そのオペレーターは当然、リーダーに木村さんから電話があったことを伝える。リーダーは出社した木村さんを呼び出して注意する。そうなると、木村さんはリーダーのところから戻ってくる途中でわざわざそのオペレーターの横を通り
「あなた、リーダーにちゃんと伝えてなかったわよね」
と、おどしにくるのである。
 オペレーターは
「この時間に電話することは禁止されています」
と反論しても
「禁止されているのは他の部署からの電話だけでしょ。同じ部署の仲間が電話してきたら、取って当然でしょ」
という木村さんの勝手な解釈が返ってくるのだった。
 苦情の電話よりもタチが悪かった。

 そもそも、この仕事は机の前に座りきりで電話を取り、一件一件に集中しなければならない。
 それなのに、リーダーが席に戻ってきたところで、リーダーに話しかけてもいい状況なのかを雰囲気から察知して立ち上がり、リーダー席のところに行って席の前で報告しなければならないのだ。
 木村さんが電話さえかけてこなければ、オペレーターはそんなことのために業務を止めなくてもいいのだ。
 お客様の電話よりも何倍もの気を使うのである。


 ところで、早番を置いて1時間早く電話の窓口を開けるというアイディアは数か月前にやってきたばかりの新しい部長の発案だった。そして、この頃はまだ試行期間だった。
 仕事の終了時間をそのままに、開始時間を早くするのだから、当番制にして交替するしか方法がない。
 それも、社員を早く出社させるには就業規則を変更しなければならないかもしれないという理由で、この試行期間はパートだけで回すというおかしなことになっていた。

 当然、パートは不満だった。
 絵美子さんもパートとして働いている。
 この話しを聞いた時は
『パートにしわ寄せが来るのはどうしてなの』
と不満だったが、
『朝早く出社しても、その分早く帰っていいのだったら、早番もいいかな』
と思うようになっていた。

 もともと、絵美子さんは午前中だけ勤務するという約束で、この仕事を始めていた。
 午前中に仕事が終わり、お昼を楽しんでから帰宅することにしていた。
 朝の早番になれば、お昼より前に会社を出ることができる。それがたった1時間でも、1日を有効に使えそうに思えた。

 でもこの日はそううまくはいかなかった。
 絵美子さんの終わりの時間が近づいてきたところで、会社から出ることができなくなってしまったのだ。


「絵美子さん。電話。代わってもらえませんか」

 帰る準備を始めようかと思っていたところに、若手の社員オペレーターが絵美子さんに助けを求めてきた。

「えっ。リーダーはいないの?」

 難しい電話を引き取るのはリーダーの役割だ。絵美子さんはパートであって、リーダーではない。

「部長に呼び出されて、部屋を出てしまいました」

『えー、そんな』

 電話対応の時間は、リーダーには席に着いてもらわなければ困ると何人かのオペレーターが申し入れていたと聞いたことがある。それで、どうしてもという時のためにサブリーダー制が取られるようになったはずだ。

「サブリーダーは?」

「別の電話を引き取って対応中なんです」

 サブリーダーも手を離せない状況になっていた。

『私はパートだし……』
と言いかけたが
『しょうがない』
と心の中でつぶやいて立ち上がり、若手社員の隣に移動した。書いていたメモを見た。

 どんな電話なのかを確かめたかったのだが、そのメモは文章になっていなかった。単語にもなっていなくて文字がバラバラに書かれているだけの要領を得ないものだった。その文字も震えていた。よほどひどい電話だと想像できた。
 耳元で
「もう大丈夫よ。背中を軽くたたくけど。いい?」
とささやくと、椅子に座ったままの若手オペレーターはキーボードのほうを見つめたままうなずいた。絵美子さんからは見えなかったが、たぶん涙目になっていると思った。
 背中を軽くポンポンとたたいてあげると、身体からだの震えが少し落ち着いたようだった。
 自分の席に戻って座ると外していたヘッドセットを着け直し、左手を上げて若手社員に合図を送った。電話が切り替わった。

「お電話、代わりました。申し訳ありませんが、もう一度どのような用件なのかを説明していただけないでしょうか?」

 二重敬語とかどうかなんて気にしていられない。言葉を発している途中でも空気を感じ取って次の言葉を変えていかなければならないのだ。最初から相手の気持ちを逆撫でしたくなかった。

「また、話さなきゃいけないのか。めんどくさいな」

「申し訳ありません」

「さっきのむすめにも言ったんだけど、カップの取っ手が取れちゃったんだ。なんとかしてほしいのだけど……」

『さっきのむすめ』――だとー
 明らかにセクハラ言葉だ。
 カチンときたが、それよりも苦情の内容が気になった。
 最近ではあまり聞いたことのない苦情だった。

 検品して出荷しているし、梱包材や梱包方法の技術も進んでいる。陶器が割れたり、取っ手が取れたりというのはめずらしくなっていた。絵美子さんがここに来てから3、4か月になるが、このような電話を聞くのは初めてだった。
 それでも運送中のトラブルがまったく無いとは言い切れない。詳しく聞いてみることにした。

「こちらからいつごろ送ったものなのかを教えていただけませんか。配送の記録を調べてみます」

「それも、さっきのむすめに言ったのだけど、20年前に買ったのだけどね。デパートで購入して。お店の人が半永久的に壊れないと言ったから買ったんだ」

『まだセクハラ言葉を続けるか』
 怒りは続く。それに
『20年前に買った? それも半永久的に壊れないってお店の人が言っていた?』

 適当なことを言って売りつける販売員がいる――話しを聞いた瞬間は電話の相手の話しをそのまま受け取ってしまった。でも考えると、そんなことを言うはずがない。
 頭の中で対応方針が決まった。

「そうですか。それはお困りでしょう。有料●●にはなってしまうのですが、カップの状態によっては修理できるかもしれません」

『有料』という言葉で相手の反応を見る。

「いや、無料でやってくれるんじゃなかったっけ。半永久的に使えるということは壊れたら無料で新しいものと交換してもらえるということだよね……」

『半永久』にこだわっている。あり得ないのに。

「大変申し訳ないのですが、商品のお取り替えはご購入直後だけとなっておりまして」

「永久保証と言っていたよ」

 そう言われても……。
 でも、こちらが『永久』の言葉にこだわってもしかたがない。

「その点は置きまして、どのような製品かを教えていただけますか?」

 過去の製品カタログと照合してから、次を考えよう。

「えーっと。もう箱は捨ててしまったので、型番はわからないのだけど」

「カップの形や色を教えていただけますか? それにカップの裏に、当社のマークがあると思うのですが……」

「カップの形や色? 普通の形の普通の色だよ。えーっと、カップの裏。もうかすれているのだけど。小さい八角形のマークが見えるけど」

 霧滝のマークは八角形ではない。

「もしかすると、亀鶴かめつる社の製品ではないでしょうか」

 ライバル会社の名前を出してみた。

「そうだよ。その会社の人がデパートにいて、丈夫だから、買っておいて損はないと言っていたから……」

「大変申し訳ありません。こちらは霧滝なので、亀鶴社の製品についてはわからないのですが……」

 相手の言葉が一瞬、止まった。

「えっ。あっ。そう。電話番号を間違えちゃったか。でも、どっちでもいいや。取り替えてくれる」

 どういう神経をしているのか。他社のものを押し付けてくるとは……。だいたい電話番号を本当に間違えたのかもあやしい。わざと間違えてかけてきたのかもしれない。激しい言葉で要求して、こちらが受け入れれば儲けものとでも思っているのだろうか。人間性を疑ってしまう、やっかいな相手だ。

「大変申し訳ありませんが、当社の製品ではありませんので、引き取ることができませんし……」

「いや。壊れたのは亀鶴社のものかもしれないが、あんたがたの製品も買って使っているんだ。なんとかしてもらえないかな」

「ご要望にお応えできず誠に申し訳ございません」

 ここで引き下がってくれればいいのだが……。

「八角形のマークじゃなければいいんだろ。四角いのがあったはずだ。ちょっと待ってくれ」

「お客様」

と言ったとたんに相手の電話が切れてしまった。

 嫌な予感がした。電話番号を間違えたことにバツが悪くなって切ったのであれば、それはそれでいいのだが、自分で電話を切っておきながら、こちらが電話を切ったと文句を言ってくることもある。それが過大な要求になることにも注意しなければならなかった。

 それに大切なこと。『四角形のマークも霧滝のマークではない』ことを伝えられなかった。

 電話の音声は全部記録されている。オペレーターが電話を取る前に案内のテープが流れて会話が記録されていることを伝えている。それでもこのお客様に限らず、無茶な要求をする相手はいる。

 絵美子さんは、電話対応の記録を書き込むアプリの緊急欄に
「無茶切りあり」
と書いて、「訳あり記録」ボタンを押した。
 無茶切りは、『相手から電話を切ったけれども、またかかってくるかもしれないので注意してください』という、このコールセンターの注意ワードだった。
 メッセージはオペレーター全員の端末の右上に赤文字で表示された。

 一段落した後にサブリーダーの藤崎さんが隣にやってきた。

「絵美子さん、もう終わりの時間ですよね。あとは私が引き受けますので、帰宅していいですよ」

「別の電話に出ていたのでは?」

「もう終わりましたので、大丈夫です」

「今の電話、もしかしたら同じ人からまたかかってくるかもしれません」

「その時はリーダーか私がその電話に出ますので心配しないでください。それと、遅刻の連絡があった木村さんのことなんですけど、リーダーが引き取ると言ってました。もし、木村さんに何か言われたら、リーダーに直接話すようにと答えてください」

「いいんですか?」

「ええ」

 いろんな電話があって木村さんからの電話のことを忘れていた。リーダーがフォローしていたってことか……


 会社を出ると、絵美子さんの本来の退社時間11時をかなり回っていた。

 早番の日は、洒落たカフェを探してランチを取るのを楽しみにしていた。
 でも、人気のあるお店だとこの時間はもう混んでいる。ゆっくりしたランチはできなそうだった。
 思いついて地下鉄に乗り、2つ隣りの駅で降りた。
 もう少し遠いところへ行きたかったのだけど、時間優先で場所を選び、とにかくランチだけは済ませておこう。

 地下鉄駅から地上に出ると、近くに白い建物のカフェがあった。

 店の中をのぞいてみる。席はまだたくさん残っていた。
 このカフェに決めた。

 ドアを開けて、正面のレジの前に進んだ。
レジの横にあるショーケースの中にはキッシュが並んでいた。
 ただ、ちょっと大きいサイズだった。
 店員さんに
「店内でお召し上がりですか、テイクアウトですか」
と聞かれたので
「店内で食事したいのですが、このキッシュは私には大きいので、小さいサイズはありませんか?」
「この大きさで1ピースになります。そうですね。もしよろしければ、半分にカットしてお持ち帰り用にお包みいたしますが」
「半分だけお皿に盛ってもらえるということですか?」
「はい」
 そんなこともできるんだと感心して
「それじゃ、そうしていただけますか。それとカフェオレボウルもお願いします」

 このお店は入り口の反対側にお庭があって、そこに何組かのテーブルセットが置かれていた。
 店員さんに
「あそこのテラス席は利用できるのですか? 喫煙席でなければいいのだけれど」
と聞いてみると
「いまは全席禁煙になっています。でも、ペット同伴のお客様が来たらテラス席を案内することになりますので、近くの席にペット連れのお客様が座っても差し支えなければご利用ください。好きなお席を選んでいただいてかまいません」

 先に席を確保するようにと店員さんに促されたので、お庭の真ん中のテーブルを選んでカバンを置いた。一番心地よさそうな席だった。
 レジに戻ると、カフェオレボウルとキッシュ、持ち帰りのキッシュの入った紙袋がトレイの上に準備されていた。それを受け取り、確保しておいた席に戻った。

 細い板状の金属を器用に曲げたフレームに、座面に木を張り合わせた少し固めの椅子に座った。カフェオレボウルは厚めに作られていて、ホットでもさわって少し暖かく感じる程度だった。両手で持ち上げ一口含んでからトレイに戻すと、カバンから本を取り出した。

 昨日買っておいたファッション系の雑誌で、霧滝ブランドで扱っているお皿の特集が載っていた。

 自分もそのうちの数枚は持っている。
 好きなブランドの一つだった。
 だからこの会社だったら働いてもいいかなとずっと思っていた。

 パートとして午前中だけそこで働くことにしたのは3、4か月前。
 会社の周りはビジネス街でおもしろそうなお店はなかったが、地下鉄で少し離れたここのような場所は通りの雰囲気もいいし、何より洒落たお店がたくさんあってうれしかった。
 そのことも霧滝コールセンターで働く決め手になった。

 霧滝ブランドのカタログは何年も前から自宅に送ってもらっていて、大体は頭の中に入っていた。いまも最新号が届き、仕事にも役立っている。
 今日のカップの色が微妙に違うという問い合わせも、相手のお客様が言っていたカップがどのようなものかが何となくわかった。
 自分も選ぼうと思っていたカップのはずだ。

 雑誌を読んでいくと、初めてカタログを送ってもらって何度も何度も繰り返し読んでいた頃の記憶が蘇って楽しくなってきた。シーズンが変わるごとに新しく加わったデザインが目に焼き付いていた。

「おいしそうなキッシュですね」
 その声で現実に引き戻された。

 テーブルの斜め前にサブリーダーの藤崎さんがトレイを持って立っていた。
「ごいっしょしてもいいですか?」

 会社の人と外で出会うのは初めてだった。特にランチの時間は一人で過ごそうと思っていたから、早めに会社を出て、お店選びも慎重にしていたつもりだったが、今日はうっかりしていた。

「ええ。どうぞ」
 さっき退社時間を気にしてくれた藤崎さんに悪い印象はなかった。左隣の椅子を勧めた。

「絵美子さんは、いつもここで食事を取るのですか?」
「ここは初めてなんです。今日はご存じのように会社を出るのが遅くなったので、近くのお店に入ったんです。お昼の混雑に巻き込まれたくなかったので」
「そうですよね。私は会社の近くでお昼を済ませることが多いのですが、今日は気分転換に初めての場所に行ってみようと地下鉄でここまで来たんです。私は遠くのお店を選んだつもりだったのに、絵美子さんにとっては近くなんですね」
「気分転換ってどうしたんですか? 私が出た後で何かあったとか?」
「いえ。今日のエスカレーション(オペレーターさんから引き取った電話)はひどいものが多くて……。一つは絵美子さんに取っていただいて助かったのですが、リーダーが途中で出てしまったので、いつもより引き受けた本数が多かったんです。絵美子さんが部屋を出ていった後にリーダーが戻ってきたので、昼休みをいつもより長く取ってもいいかと聞いたら、OKが出たのでここまで来たんです。リーダーにはちょっと強めに言ってしまったからかもしれないのですが……」
「へえ。藤崎さんでも、リーダーに強く出ることがあるんですね。ところで食事は何を選んだのですか?」
「えっと、これはクロックマダム」
「そのクロックマダムもおいしそうですよね」
「そうですよね。半熟の目玉焼きがプラスされていて。レジのショーケースで目にとまったらうれしい気分になって選んでしまいました」

 サブリーダーは絵美子さんが読んでいた雑誌を見て
「その雑誌、うちのブランドの特集じゃないですか」
「そうなんです。お皿の特集です。いくつかは私も持っていて。次はどれを買おうかなと見ていたんです」
「そうなんだ。絵美子さんは、うちのブランドのファンだったんですね」
「ええ。とても好きなブランドなんです」
「その雑誌。1か月前に取材に来ていたようですよ。私たちの部署は電話があるからドアを閉めていて気がつかなかったのですけど。後で木村さんがそう話していました」
「木村さんが……ですか」
 木村さんがかけてきた威圧的な電話を思い出した。
「以前は総務部の広報グループにいて、この雑誌のようなメディアの問い合わせに応えていたのですけど、半年前にこちらに異動してきたんです。以前の同僚から雑誌の取材が入ったって聞いて、それを私にも教えてくれたんです」
「藤崎さんは木村さんと仲がいいんですね」
「特に仲がいいというわけではなかったのですが、同期入社だったので……。木村さんにとって、あまり馴染みのない電話チームの中で話しやすいのが私だったのでしょうね。電話チームっていつも電話を取っているから、仕事中になかなか話しかけられないでしょ。休み時間もみんな気分転換のためにすぐに席を立ってしまうし……。 ここでの人付き合いは木村さんにとっては大変なようですよ」
「そうだったんですね」
 絵美子さんも休み時間になるとすぐに席を立ってしまうほうの人間だった。

 絵美子さんはキッシュにナイフを入れ、フォークですくって食べ始めた。藤崎さんもクロックマダムの上にのっている半熟の目玉焼きをフォークで割って、全体に広げてからナイフで一口サイズに切ってからフォークで口に運んだ。

「絵美子さんは、明日はお休みで、あさってが出社でしたよね」
「ええ」
 藤崎さんは少し考えてから
「もしかしたら、あさって、部長とリーダーから話しがあるかもしれませんよ」
「えっ。私、何か悪いことでもしたかしら?」
「そうではなくて。絵美子さんに社員になってもらいたいそうです」
「……」
「以前にもコールセンターの経験があるって言っていましたよね」
「ええ。そうですが」
「強力な経験者に来てほしいそうです」
「私は平日一日おきの週3日出社。それも午前中だけでいいからここに決めたんです。社員になると毎日、それも朝から夕方まで会社に居なければならないのですよね。私には厳しいかも……」
「そうですか。もし絵美子さんが社員になってくれれば、たぶん私の上司のポジションになると思います。そうしたら安心して一緒に仕事ができるかなと思ったんです。あっ。この話し、聞かなかったことにしてもらえませんか」
「ええ。誰にも言いませんよ」
 やさしく答えた。

 二人はキッシュとクロックマダムを食べ終わった後も、カフェオレとミルクティで話し続けていた。そのドリンクも飲み終わると、二人はお店を出て地下鉄駅に向かって歩いていった。

「絵美子さん。社員のお話し。やっぱり考えていただけませんか。来ていただけると本当に助かるんです」
 それには答えずに歩き続けた。

 地下鉄のホームでは、会社方向の電車が先に入ってきた。
「次はあさっての朝ですよね。また早番ですか?」
「いえ、水曜日は通常時間の出社になります」
「今日、話したことには気にせず、来てくださいね」
「ええ。藤崎さんも。ほら、早く乗って」
 藤崎さんはもう少し話したそうだったが、絵美子さんは会社へ戻るように促した。
 その電車がホームを離れた後、ベンチに座った。

『はぁー。社員になれ。か。ここも、そろそろ終わりにしたほうがいいのかな』
 両ひざに両ひじをついて両手を握りしめ、その上にあごをのせてため息をついた。
 自宅方面の電車がホームに入ってきた。ベンチから立ち上がって電車に乗り込んだ。比較的空いていた。誰も座っていないロングシートの端っこではなく、真ん中に座った。後から乗ってきた人が隣に座る確率の低い席であることを経験で知っていた。もう少し静かに考えたかった。


(晴れた日の月曜日なんだけど 第1話 終わり)


リンク

晴れた日の月曜日なんだけど 第2話  (7月19日更新)

晴れた日の月曜日なんだけど 第3話  (7月20日更新)

晴れた日の月曜日なんだけど 第4話  (7月20日更新)

晴れた日の月曜日なんだけど 第5話(終)  (7月23日更新)



※念のための注意点です

これはフィクションです。
登場人物や企業、団体などは架空のものです。
また、この小説の中に出てくるルールやサービスも私の想像にすぎません。
同じような名前や社名、団体名、グループ名、規則などが存在したとしても
この小説とは何の関係もありません。
ご了承ください。

(和泉佑里)


#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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