考えるという呪い


考えることは呪いだ。そう思うことがよくある。考えることでたくさんを学び、それが自分や他者を助けることは数多くある。しかし、常に必要以上のことを頭で考えてしまうのは凄く苦しい。そんな苦しみを書き連ねるだけの文章を今回は書く。

普通の人は、何気ない時に頭の中が空っぽらしい。空っぽというか真っ白で透き通っていて無音らしい。私は常に頭の中で色んな声がする。今だって「空っぽという言葉には棘があるのでは?」という声がしたせいで、空っぽという言葉を言い換えた。そして実際に言い換える前の言葉を残すことで、私の頭の声を分かりやすく示せるかなと思い、考えたことをそのまま書いた。

道を歩く時、普通の人は何も考えずに歩くらしい。私は、その日あったことを考えながら、色んなことを思い出し、目に入った景色を感じつつ、向かい側から来る人とぶつからないように距離を取り、車の事故に巻き込まれないよう気にしながら、音楽のリズムを楽しく聞きつつ、自分の見た目をちょっと気にしたりしてみて歩いている。道を渡る時は、できるだけ車が私のために止まらないよう歩くスピードを調整し、時に道を渡らないフリをして車が通り過ぎるのを待つ。女性が前に歩いている時は、その人が怖い思いをしないようにできるだけすぐにお抜かそうと足を早める。前から自転車や年寄りが来た時は、ぶつかって万が一の怪我が起こらないよう道の端に寄るようにする。こんな風に、歩くだけで無意識に気を付けることがたくさんある。多分もう少し時間をかけて考えたらまだまだ気を付けていることが出てくる。普通の人は歩いている時にこんなことを考えないのだろうか。そして、こうして気を付けていることも上手く行かない時がたまにある。例えば、人を避けようとしたら上手く行かずに少しその人にぶつかり、舌打ちをされる。車が歩行者に道を譲るのは法律で決まっているが、私が道を渡っている時にそのまま走り続けてくる車がいたりする。もちろん人間なので私がたまたま目に入っていないことだってあるだろう。ただそんな可能性を考えると、どうしても私が常に気を張っていることが吉だ。

今、可能性という言葉を出したが、この「可能性」が「考えること」における最大の呪いだ。
私が考え、気にしていることは、全て可能性だ。
そんな可能性を気にせず生きたとしても、結果は何も変わらないかもしれない。
しかし、私はこの「可能性」を考えることがやめられない。いくらやめようと思ってもやめられない。これが凄く辛い。それに、私が考えていたことが現実になってしまうこともかなりある。それなら事前に可能性を考慮して行動することで、より良い未来が生まれるだろうとか思って、更に可能性を気にし始める。

私は、今までの人生で思考にクセが付いてしまっていて、何でも自分のせいにしてしまう。
例えば、スリッパの底がすり減っていることに私が気付いたとする。そしてこれちょっと危ないなあと思っている時、そのスリッパを他の人が履いたとする。その時、私は「そのスリッパは滑りやすいから気をつけて」と言いそうになる。しかし、「でもそのスリッパを履いてその人が必ず転ぶわけでもないし、何よりこんな小さい事を言われるのは余計なお世話だろう」と思い、「気を付けて」と言うのをやめる。もしかしたらその人は、スリッパが滑りやすいことなんてとっくに知っていて、それでもスリッパを履きたい理由があるのかもしれない。そう思い、スリッパを履いている人を遠くから見守る。案の定、その人は滑って転ぶ。そんな時、私は「ああ、あの時私がちょっとでも言ってあげればこの人は転ばずにすんだかもしれない」と思う。「私がこうしてれば、ああしてれば良かった」と自分のせいにしてしまうのだ。

こんな思考は体に毒だ。こんな小さい可能性ばかり考え、そして時に判断を間違えた自分を責め、時にあらゆる可能性を考慮して何をすればいいのか分からなくなったりする。こんなことを生きている間ずっとしているのだ。凄く疲れる。そして私の場合、起きている間だけ考えているのではなく、寝ている間も同じようにずっと考えている。本来寝る時間というのは、生物学的に「休む時間」だ。頭と体と心を休めるために私達は寝ている。しかし私は、寝ている時も結構緊張状態だったりする。緊張状態というのは、寝ているはずなのに脳が活発に働き、眠りが浅い状態のことだ。だから私は、起きる度にその日見た夢を覚えている。夢を見ている時も脳が休まず、夢の記憶が鮮明だからだ。そして私は、夢の中でどんな時でも「これは夢だ、私は夢を見ている」と自分に言うことができる。私の夢は現実世界と同じくらいかなり作り込まれている。感覚は現実世界とほぼ同じだ。それでも、私は夢を見ている自分という自覚がほぼ常にある。私の頭は起きているからだ。

なぜこんなにも物事をずっと考えてしまうのか。私の脳のどこかの機能が脆弱なのかもしれない。あるいは発達しているのかもしれない。ただ、こんなことは簡単に検査できない。ピッと機械で調べただけでは「異常なし」で済まされる。頭の色んな部分に電気信号を受け取る装置を付け、何回もの試行でようやく少し分かる程度なのだろうか。

ただ、もちろん思考のおかげで良い結果が得られたことはあった。私は勉強をしていても、目の前のことより他のことが気になってしまう。数字を見ても、すぐに数字から気がそれて数字の概念について考え始めてしまう。しかし、そんな概念を考えることは大抵が本質的だ。だから、そのおかげで深い学びを得られたこともあった。また、私はあらゆる可能性や物事の側面を考えてしまうクセのせいで、神の視点みたいなものを持っている。全ての物事を上から俯瞰し、色んな流れを見据えるような感覚だ。そのおかげで物事を広く捉えることができたりした。高校生の頃、こんな事を少し同級生に話したら、「お前誰だよwwww」と大笑いされた。彼らの目には、お調子者でいじられキャラで、何も考えてなさそうな私の姿しか写っていなかった。

正直私は、思考に支配されるのはもう嫌だ。私の思考は感情を抑えつける。今までずっとそうやって生きてきた。普段生きる中で感じたことがあっても、私の思考は「これは言うべきでない」と抑え付け、私の口をチャックする。「こうするのが正しい」と命令し、私の行動を支配する。私にとってそんなのは全然幸せじゃない。

私は感情に素直になりたい。犬や猫のように、素直な感情によって生きることが私にとっての喜びだと気付いたからだ。感情に素直になって、思考による計算された優しさや賢さではなく、感情による温かさを人に届けたい。そんな自分に気付いたのだ。

ただ、思考が感情を抑えつけるプロセスを私の理性は制御できない。感情を抑えつける機能自体が理性そのものだからだ。まあ、私は私なりに多分頑張っている。感情に思考を挟まず言葉にすることで、できるだけ感情に素直になろうと試みている。それが出来ないことも多々ある。しかしこうして鍛錬を積み重ねていけば、いつか思い描く像を実現できると私は信じている。

私は自分を愛することに決めた。でも、多分私はその道中だ。自分を愛し切れていない。こんなに考えてしまう自分が嫌になってしまう時がある。自分を愛するには、自分という存在が確立していることがいずれ必要になるだろう。おそらくそれがアイデンティティの確立に値する。私は、心理士の方に「○○さんは感情と思考が極端に離れているため、自分を確立するのが相当難しいでしょう」と言われた。精神分析学っぽく言えば、イドと超自我の釣り合いが相当に難しいということだ。高校生の頃、私は初めて自己分裂という言葉を見た。それ以来その言葉は私のお気に入りだった。最近の私はイドと超自我が仲良くなり、超自我に支配されることが少なくなっている。でも多分、私はこれからも自己分裂し続けるだろう。もしかしたら生涯ずっと自己分裂した状態なのかもしれない。自己分裂しているのも私だと、まるっと自分全てを愛そうとしてみたこともある。しかし、それが正解であれ不正解であれ、多分そんなに焦る必要はない。先ほど述べた鍛錬が確実に実を結んでいる感覚があるからだ。感情や自分の内側を表に出そうと努力しているうちに、人生がどんどんハッピーになっている。だから焦る必要はないし、無理に全てを愛そうと力む必要もない。

とにかく、私はずっと色んな可能性を考えている。そんな可能性から色んなストーリーを作り、ああ、こうなのかもしれない、こうすれば良かったのかもしれないと悲惨な気持ちになったりもする。
いつもだったらここで思ったことをすっと書いて終わりにするのだが、今日はそんなことも思いつかない。とりあえずバイトに行って、その後お酒を飲みつつ美味しいものでも食べようと思っている。今日はちょっとブルー、でも明日はちょっとハッピー。多分それでいい。締まりのない終わり方で少し悶々とするが、今日はここまで。

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