その瞬間が永遠となるように
絵は
其処に有る物 無い物
心の内に隠された物
願えば時空を超越しても描き出す。
写真は
まさに目にした物
その刹那を捉え
収めた物を見ての発見もある。
世界の何処かの瞬間が
閉じ込められている
そんなところに
わたしは感慨深くなる。
🔷 それはふとしたきっかけで
画家 ゆめの と会う際
「画家 ゆめの がもっと知られるために
どうすれば良いか」
という話題が
(主にわたしから)出ることは
以前とても多かった。
画家が個人で活動していくために
自らをPRしていくことは必要。
ただ
その度合いは人それぞれである。
画家 ゆめの は
出来るだけ
作品で語りたい
のではないか
という印象だった。
唯一の発信媒体だった旧Twitterは
原画画像とわずかな言葉による
更新が中心。
別のどなたかと
画家 ゆめの に関する話題が出ると
人物像の見えてくる要素に乏しい
と感じられるようだった。
そこで
「露出」を増やす方向はどうか
となり
写真の掲載を増やしてみることに。
画家 ゆめの はかねてより時折
カメラマン様とのセッションで
ポートレートを撮影していた。
当然ながら
素敵な写真が仕上がってくる。
ただ
スケジュールの確保が大変なのだ。
当時
彼女が過ごしていた地は
交通の便に恵まれていず
移動するだけでもなかなかの時間がかかり
一度の撮影で
一日が過ぎてしまい
結構な疲労困憊
といった具合。
そのため
写真のストックもそれほどなく
画家 ゆめの は
「いかにも自撮りという
感じではない自撮り」
を試みた。
例えば地元の無人駅で
人もいない時を見計らい
スマートフォンを置いて撮影する。
しかしながら
そうそう落ち着いて撮ることはできない
ということだった。
その頃の わたしは
ということで
もどかしい時間を過ごしていたのだが
動くことができるようになってきて
「再会」すると
画家 ゆめの から
思いがけない提案があった。
待ち合わせや打ち合わせ中など
ちょっとしたタイミングで
わたしが写真を撮らないか
というのだ。
🔷 意外すぎる提案
カメラマン様との撮影に比べれば
ほんのちょっとしたもの
ということながら
画家 ゆめの が
わたしに撮影を頼む
これはとても意外だった。
というのも
それまで
わたしは
迎えた原画など
いくつかの「物撮り」
というものをしていたものの
我ながら下手。
それは
画家 ゆめの からも
結構バッサリ言われていた。
そもそもスマートフォン歴が浅く
2019年から。
写真の加工アプリといったものも
使った経験は殆どない。
対して
画家 ゆめの は
「物撮り」が抜群に上手い。
原画の出品にあたっては
作品の魅力ができるだけ伝わるよう
こだわって撮影する。
※ 「冬の空気」
作品ではなくても
写真の道を考えた時期があったという。
実際
わたしの腕前を期待して
ということではなく
カフェで打ち合わせをするついでなど
撮影ありきで
スケジュールを組まないことは
時間や労力の節約に繋がり
SNS投稿等に使うことのできる
写真は増えるだろう
といった程度の見立てだったのだ。
🔷 不思議な感覚
果たして務まるのだろうか?
と思いながらも
いわゆる「本格的な撮影」に
ともなう負担を
軽減させることができるなら
と
やってみることにした。
寝たきりの間は
とにかく何もできていない
無力感が相当なものだったので
大袈裟ながら
一つ新たな「存在意義」に
なればとも。
その日が近づき
「大したことではない」
といわれながらも
微妙に緊張していた様子を察してか
かけられた言葉は
「わたしを撮ろうとしなくて良い
たとえば適当に景色を撮っていたら
その中に わたしが写っていた
という感じで良い」
といったものだった。
そうして最初に撮影した写真が
少しして投稿に使用される。
私は撮影したものを
そのまま画家 ゆめの へ渡すだけ。
色味や撮影範囲を加工編集されたものが
公開される。
撮ったものが
投稿の一部を構成している
ということは純粋な感動になった。
打ち合わせのスケジュールは
定期的にあるため
その度に写真のストックが
確保されることは
確かに好ましかった。
それとともに
当たり前のことながら
私が撮影した 画家 ゆめの の「瞬間」
その姿は他に誰も知らない
私が撮影していなかったら
その「瞬間」は「記録」されていなかった
そんなことが頭をよぎり
不思議な感慨を覚えたのである。
🔷 沢山の瞬間を残したい
わたしの感慨には
どこか
「出来なかった事に対する気持ち」
も関係していたのではないかと思う。
というのも
亡きパートナー「あのひと」と
それなりの時間を過ごしていながら
その写真は殆ど残していなかった。
葬儀の際
遺影にする写真を選んでほしい
となったのだが
過去の写真を漁ってみても
99%は「むちゅめ(愛犬)」のもので
10枚にも満たない中から
さほど選択の余地もなく選んだのである。
思い出は心の内に留めれば良い
確かに。
だが
寂しい気持ちもあった。
ずっと後になってふと見返し
「この時はああだったよね」と
語り合う事は決して悪くない。
また
かつて使っていたコンパクトカメラに
動画撮影機能もあったので
僅かな動画が残っていて
これは凄かった。
あの時
眼前に広がっていた光景が動き
環境音や声でさえも
そのままに聴こえる。
姿だけでも声だけでもなく
動いて喋っているのだ。
何年経っていてもその瞬間が蘇る .. 。
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その尊さとでも言うのだろうか
実感したのは
YouTubeチャンネルを開設した
画家 ゆめの に
「海の音が聴こえ
BGMとして視聴することのできる動画」
というアイデアが浮かび
投稿された後で
視聴した際だった。
映像は
彼女のスマートフォンを使って
撮影したものであり
同行した わたしは
スマートフォンが倒れるなどしないか
「監視」していただけだったのだが
(動画のサムネイル等にする
写真撮影はした)
離れた岩場にいる彼女を
ぼんやり見つめながら
絶え間ない波の音が耳へ届き
何とも言えない心地良さ。
療養中心で
頻繁な外出は控えること
とされている日常から離れる
少ない機会
そういった解放感 特別感を
動画からいつでも
感じることができるのである。
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「そのとき」
は二度と訪れない。
出来るだけ沢山の
「そのとき」を残したい
と思うようになった。
🔷 新しき存在意義
撮影を続けていく中で
自分で「良い」と感じつつ
公式のものとして表へ出すことは
ちょっと違うかな
という写真も
見られるようになってきた。
少しずつわかってきたのだが
それは
「画家 ゆめの」
と
「ゆめの」の違い。
画家 ゆめの をフィーチャーする時には
わたしなりに感じている
透明感
凛とした中にもどこか漂う儚さ
といったものが
伝わればと考えている。
「ゆめの」という人は
意外に というべきか
自らを語る中で
過去に使われた
キーワードやフレーズをピックアップすると
現実的
ドライ
想いを語る事が苦手
感情を出すタイプではない
冷静沈着な様子が
ずっと印象深かった。
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わたしの
トップクラスに好きな写真が
1枚ある。
それは多分「ゆめの」。
彼女の入籍前
引っ越しも控え
体調を崩すほど多忙な夏の終わりに
恐らく当面
スケジュールは確保しにくいからと
予定が決まった。
正直
キャパオーバー気味だった中
まともな打ち合わせは難しかったのだか
せっかくなので
少しでも癒しの時間になればと
サプライズのお祝いを用意。
流れた時間は
とても温和で穏やかだった気がする。
全体的に やわらかで
素を感じるところがより多く
笑みもこぼれていた。
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「ゆめの」という個人の写真は
幼少期のものから全然無いと聞いた。
写真を撮られる事は好まないため
現在も普段のスナップといったものはない。
私は「用意ドン」で撮影する時の他にも
これでもかと「盗撮」していて
実のところ嫌がられているのかも
わからないが
あまりにもやめないからか
特に苦言を呈されてはいない。
さすがに正面から「盗撮」するほど
度胸はないため後ろ姿が多く
それでも「採用」されることは
ちょくちょくある。
時間と共に
画家 ゆめの の「宣材」になる
写真を撮ること
「ゆめの」の姿を留めていくこと
そのどちらも
私の存在意義なのだろう
と考えるようになっている。
理屈付けでも理由付けでも
何でも良い。
心身が優れず挫けそうな時ほど
その存在が私を引き戻してくれるのである。
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その時々に綴ろうと感じたすべて全身全霊をかけて記事へ込めています。そこにお気持ちをお寄せいただく .. これほど嬉しいことはございません。お預かりしたサポートは同じように皆様へ気持ちをお届けするための原資とさせていただきます。オススメいただけるともっと嬉しい .. 欲張りな私😂