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どうして私は指圧に夢中になるのか③

指圧でおこる響き

関西伝統指圧 基礎実技

関西伝統指圧の授業

指圧と一口にいっても、色々な流派があり、背景があり、哲学があります。

私は増永静人師の経絡指圧を頭では知っていましたが、実際に受けたわけでもなく、学んだわけでもないので、もし語る資格を問われるとしたら、関西伝統指圧についてしか語れないでしょう。

創始者の吉岡先生には、熱心なお弟子さんがたくさんいらして、ご自宅でご教授を受けていらっしゃったような高弟もいらしたので、そういう方々からすると、末端も末端、足軽以下という位置ではありますが、弟子を名乗っても怒られることはないでしょう。

1年目は吉岡先生からではなく、第一弟子というような先生から学びました。またその先生が非常にセンスがよく、篤実な人格の教えることにもとても長けていらっしゃることが、とても幸運なことでした。

上掲したような教本で、伏臥位から学びます。

指圧に入る前に、脊柱検査というものがあり、脊椎の両側を第一より尾骨までさっと軽く3本の指で流し異常の有無を確認してから施術に入るのですが、この脊柱と一側線ということをとても大切にします。

指圧全般なのか、関西伝統指圧独特の定義なのか、指圧には手技として日本古来のものと、米国発祥のカイロプラクティックとオステオパシーの技術が入っていると教えられていて、私はカイロもオステオパシーも受けたことがないのですが、オステオパシーに通院されていた患者さんに施術していて、その手技一緒です、懐かしい…と言われたことがあります。

吉岡先生はカイロプラクティックの一通りの修練をされていて、椎骨の転位について、座学の試験に出題されたこともありました。

今こうして、改めて教本を読むと、書き込みを熱心にしていますが、これは私が格別熱心だったわけではなく、教本自体が書き込むことを前提に、基本的な順序しか書いていないもので、あとは板書や口頭でその100倍ぐらいの情報量が伝えられるのです。口伝といっていいかもしれません。

これは今にして思うと、本当によくできた方法であったと思います。
今でもその書き込みを読むと、当時はちんぷんかんぷんだったことが、臨床を重ねることで先生が仰っていたことはこのことであったかと思い当たることも多く、この20ページほどの薄い教本は宝の山です。

順序とかける時間でいうと、標準として治療時間を60分として、
伏臥位25分➡側臥位15分➡仰臥位10分➡座位5分の配当を目安にしていましたが、その通しで流れをつくれるようになるまでに、ひとつひとつの姿勢、立ち位置、拇指圧、掌圧、手根圧の違いなどの基本操作がとんでもなく難しく、でもとても合理的で美しい。

授業は生徒同士のペアですすみます。
手順通り腕なら腕、背中なら背中…というように割り稽古から始めます。
自分が施術する、その次にペアのモデルとなって施術される。
その単純な繰り返しですが、それが指圧の修行の王道であったと今にして思います。

その当時は、あんまとマッサージと指圧の実技は、同じようにペアで進められていましたから、同じように思っていました。
でも今にして思うと、指圧の実技の時は、からだの同期、こころの同期がとても起きやすいゆえに、とても響きがおきやすい状態であったと思うのです。

指圧における響きとはなにか?

拇指圧と四指圧

指圧という言葉には、指で圧するという字義の通り、拇指でツボを圧するという方法が一番イメージされやすく、世間の大多数の方には親指でぎゅっと圧して貰うのが指圧という認識が共通だと思います。

浪越徳治郎先生の親指を立てるポーズがインパクトがありすぎて、あれ以上に指圧を象徴するポーズは思い浮かばないほどです。

実際に指で圧する方法としては、拇指圧と四指圧という言葉はあっても、人差指圧や中指圧という言葉はないように、親指だけがその形状や役割からして指圧において特別な意味をもつことは間違いないことです。

後に色々な流派の指圧を受療する中で、浪越指圧は本当に拇指だけで施術し、順序も人迎からということが基本であると知りました。

国内では浪越指圧が最大流派ですから、指圧師を名乗る方の大多数は親指だけで施術されているのだと思います。(#知らんけど)

そういう意味でいうと、関西伝統指圧は掌圧を拇指圧と同じくらいに大事にします。

掌圧とは、手掌全体で圧する技法です。
関西伝統指圧では、脊柱検査のあと、三線の掌圧といって、背中の遠位側、近位側、脊柱の真上の順番に掌圧をします。
施術の一番はじめと、一番最後にしますが、最初の掌圧で、脊柱の弾力やからだのこわばり、骨盤の位置などをみながら圧していき、最後の掌圧で施術後のからだの状態を確認しながら圧して仕上げます。

この掌圧がすべての基本となるのですが、吉岡先生がこの掌圧だけきちんとできれば、それで一生飯が食える…と何度も仰っていたとおり、この掌圧をきちんとしてもらうと、楽園にいるような気持ちよさ、心地よさです。

それだけに、いまだに試行錯誤していますし、満足できる掌圧ができることは滅多にないのですが、できたと思えた時は、人馬一体の恍惚感というのか、施術者と被施術者が一体となったような深い満足感があります。

そこにおこっているのが、大いなる響きです。

指圧において、圧するという刺激は、鍼と同じく補にもなり瀉にもなります。
補瀉という概念は、乱暴に一言でいってしまうと、足りないところを補い、多すぎるところを瀉する(削る)ことですが、鍼灸師が鍼やお灸という道具でしていることと同じく、指圧師は手指でもってエネルギーの調整をしているのです。

補と瀉はどこからどうと明確にわけられるものではないのですが、例えば、上掲の画像では、拇指で瀉しながら、四指で補しています。

はぁ???と思われるかもしれませんが、これは関西伝統指圧の話ではなく、極私的にそう思うことで、この画像は5年ぐらい前のものですが、見直したときにそういう氣がしました(笑)

大抵私は、滞っているところを拇指で瀉しながら、支え手で補しています。
上掲のシーンは、顔面ですので、四指で支えながら補し、拇指で眉間から前髪際に滞っているものを瀉している氣でいます。

これが、腰や背中、大腿など大きい部位だと掌圧で補すことが多いと思います。大きい部位は掌圧でも瀉すこともありますが、まぁ、補瀉の概念自体が目に見えないものゆえに矛盾に満ちたものだと思ってください。

施術前後の三線掌圧も初めは補すような氣でしています。
でも、私から被施術者への一方向性のものではなく、同じエネルギー体としての双方向のやり取りになっていき、天地人とのマルチ方向とのやり取りになってくると、瀉も補もなく、大いなる響きとしかいえないような、圧倒的な氣の流動の中に、存在しているような、そんな時間が下りてくることがあるのです。

話が怪しくなりましたか(笑)?
次回は怪しい話の続きをしたいと思います。





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